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平和な朝は残酷に明ける
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翌朝。
僕は、僕を心配する母さんを何とか家から送り出して、朝食の準備をしていた。
トーストの上を黄金色に滑るバターと、最近ずいぶん抽出が上達した紅茶の香りが、一緒になってリビングを包む。
咲千花はまだ起きてきていなかった。
僕は今日こそ、登校するつもりだった。一言言ってから行くことにしようと、二階へ上がり咲千花の部屋の前に立つ。
「咲千花? 起きてるのか?」
ドアをノックする。返事がない。
「咲千花?」
まだ寝ているなら無理に起こす必要はないけれど、咲千花は朝起きる時間は律儀に守っていた。
どうしたのだろうと頭に疑問符を浮かべながら、ほんのわずか、頭の片隅で、嫌な予感が小さく閃く。
「咲千花。開けてもいいか?」
そう断わってから、待つこと、十秒。
僕はそろそろと、ドアノブに手を伸ばした。
その時がちんとノブが回り、中から妹が出てきた。
「あ、おはよう、なんだ、起きてたのか。……え?」
僕は目を瞬いた。
「お兄ちゃん、朝ご飯の支度ありがとう。リビング行くね」
咲千花は、僕の横を通り過ぎてすたすたと階段を降りていく。
「咲千花。待ってくれ、それは」
僕が後を追いかけると、咲千花はちょうどテーブルに着いたところだった。
「いただきます」
「召し上がれ。……じゃなくて、咲千花、それ」
咲千花は紅茶をマグから一口飲むと、トーストにかぶりついた。テーブルを挟んで正面に立った僕から、ふいと横に目をそらす。その表紙に丸く揺れた、黒く長い髪は、外出用になめらかにとかされており、朝日を受けて輝いた。
「……悪い? 中学生が、制服着ちゃ」
セーラー服姿の咲千花は、軽く赤面していた。
「悪くはない……全然ない。でも、お前、それ、……もしかして、今日……」
「学校に行く」
そう言って、口をとがらせたまま、トーストを器用に咀嚼する。久し振りに見た妹のセーラー服姿が眩しくて、僕は目が眩んだ。うちの妹は、こんなに制服が似合っただろうか。
「お兄ちゃんが抜けがけしたんだからね。あたしだって、学校くらい行けるんだから」
「そりゃ、……そりゃ、行けるさ。行けるに決まってる……でも」
僕は、咲千花が不登校になった理由を知らない。
大元の原因は、解決しているのか。無理を押してただ学校に行っても、さらに傷ついて帰ってくることになったら。
「あたし、なんだか、今日は気分いいの。今を変えるなら、今日しかないって思えるくらい。早退なんてしないから、お兄ちゃんも学校行きなよ」
「咲千花、気を悪くしないで聞いてくれ。その決意は立派だし、とても嬉しいよ。でも、もし、元々咲千花を――」
「あたしが登校拒否した元々の理由は、今もなくなってないよ。それでも、今日行きたいの」
咲千花、とだけ呟いて、それ以上は言葉が見つからなかった。無理するな、まだ行くな、と言うべきなのかもしれない。
こんなに能動的になっている咲千花の、もしその心をもへし折るようなことがあれば、それこそ取り返しのつかないことになるんじゃないのか。
けれど同時に、今の咲千花の意志を尊重してやりたくてたまらない。
「分かった。行くんだな。僕は今日は、学校に行かないで家にいる。今更、登校が一日や二日増えても変わらないから、咲千花が帰ってくるのを待ってるよ」
「え!? いや、話聞いてた!? ……私って、そんなに信用ないかな。これでも今日は、かなり前向きな気持ちんだけど」
複雑な顔でうつむく咲千花だったが。
「それは違う。信じていないからじゃない、信じているからこそ、今日は家で待っていたいんだ。どうしたって僕の方が帰ってくるのが遅くなるからな。咲千花を出迎えるためには、家にいないといけないんだよ」
「でも……あたしのせいで、お兄ちゃんが今日休むみたいな感じになるじゃん」
「今更、一日や二日変わらないよ。待ってるから、行っておいで」
「……うん」
朝食を終え、身支度を整えると、咲千花はドアを出ていった。
ひどく落ち着かない気分にはなるものの、ここからは僕にできることはない。大人しく、自宅警備員をやっていよう。
部屋に戻り、ベッドに腰かけた。何か本でも読もうと思っても、とうに読み尽くしたものばかりなので、今一つ食指が動かない。
そういえば、水葉世界で先輩に貸した本は、この五月女世界ではどうなっているんだろう。さすがに本がひとりでにこっちの世界の水葉先輩の元へ飛んでいくわけはないし、こっちの先輩と僕は知り合いですらないから、貸し借りはしようがない。気にはなるけれど、いちいち確かめるほど興味を引かれるわけでもなかった。
そんなことをぼやぼやと考えていて、ふと気づく。
この、あまりにも落ち着いた感覚は、どうしたことだろう。
「何か……変じゃないか?」
不登校になった直後は、腹立たしさと情けなさで毎日歯噛みしていた。それが段々薄れてくると、こんどは学校に行かないことによる未来への不安が膨れ上がって、自宅にいても気が休まらなかった。
それが今は、まるでただの休日を過ごしているかのように心が凪いでいる。
「先輩と昨夜話をして、吹っ切れたから? ……いや、まだ、何が解決したわけでもないぞ」
平和過ぎる。
今まで、少なくとも不登校になってからは感じたことのなかった平穏が、僕に訪れていた。
「咲千花だって、今日学校に行きたいなんて、随分いきなりじゃないか? どうして僕と咲千花が、こんなに――」
――こんなに急に、生きることの辛さが消えてなくなったのか。
そう考えて、雷に打たれたようなショックが頭に走った。
「まさか……」
水葉先輩は、精神病を治せる。
僕と咲千花は精神病と診断されたわけではないし、恐らくはまだそこまでの状態ではないだろう。
でも、うつ症状か、それに近い状態ではあった。この症状が常態的になれば、うつ病と呼ばれるようになる。
病気と変わらない症状。水葉先輩は、それを治療できる。自分が引き受けることと引き換えに。
「まさか、先輩、僕と咲千花の心の傷を……治したんじゃ……」
僕は、僕を心配する母さんを何とか家から送り出して、朝食の準備をしていた。
トーストの上を黄金色に滑るバターと、最近ずいぶん抽出が上達した紅茶の香りが、一緒になってリビングを包む。
咲千花はまだ起きてきていなかった。
僕は今日こそ、登校するつもりだった。一言言ってから行くことにしようと、二階へ上がり咲千花の部屋の前に立つ。
「咲千花? 起きてるのか?」
ドアをノックする。返事がない。
「咲千花?」
まだ寝ているなら無理に起こす必要はないけれど、咲千花は朝起きる時間は律儀に守っていた。
どうしたのだろうと頭に疑問符を浮かべながら、ほんのわずか、頭の片隅で、嫌な予感が小さく閃く。
「咲千花。開けてもいいか?」
そう断わってから、待つこと、十秒。
僕はそろそろと、ドアノブに手を伸ばした。
その時がちんとノブが回り、中から妹が出てきた。
「あ、おはよう、なんだ、起きてたのか。……え?」
僕は目を瞬いた。
「お兄ちゃん、朝ご飯の支度ありがとう。リビング行くね」
咲千花は、僕の横を通り過ぎてすたすたと階段を降りていく。
「咲千花。待ってくれ、それは」
僕が後を追いかけると、咲千花はちょうどテーブルに着いたところだった。
「いただきます」
「召し上がれ。……じゃなくて、咲千花、それ」
咲千花は紅茶をマグから一口飲むと、トーストにかぶりついた。テーブルを挟んで正面に立った僕から、ふいと横に目をそらす。その表紙に丸く揺れた、黒く長い髪は、外出用になめらかにとかされており、朝日を受けて輝いた。
「……悪い? 中学生が、制服着ちゃ」
セーラー服姿の咲千花は、軽く赤面していた。
「悪くはない……全然ない。でも、お前、それ、……もしかして、今日……」
「学校に行く」
そう言って、口をとがらせたまま、トーストを器用に咀嚼する。久し振りに見た妹のセーラー服姿が眩しくて、僕は目が眩んだ。うちの妹は、こんなに制服が似合っただろうか。
「お兄ちゃんが抜けがけしたんだからね。あたしだって、学校くらい行けるんだから」
「そりゃ、……そりゃ、行けるさ。行けるに決まってる……でも」
僕は、咲千花が不登校になった理由を知らない。
大元の原因は、解決しているのか。無理を押してただ学校に行っても、さらに傷ついて帰ってくることになったら。
「あたし、なんだか、今日は気分いいの。今を変えるなら、今日しかないって思えるくらい。早退なんてしないから、お兄ちゃんも学校行きなよ」
「咲千花、気を悪くしないで聞いてくれ。その決意は立派だし、とても嬉しいよ。でも、もし、元々咲千花を――」
「あたしが登校拒否した元々の理由は、今もなくなってないよ。それでも、今日行きたいの」
咲千花、とだけ呟いて、それ以上は言葉が見つからなかった。無理するな、まだ行くな、と言うべきなのかもしれない。
こんなに能動的になっている咲千花の、もしその心をもへし折るようなことがあれば、それこそ取り返しのつかないことになるんじゃないのか。
けれど同時に、今の咲千花の意志を尊重してやりたくてたまらない。
「分かった。行くんだな。僕は今日は、学校に行かないで家にいる。今更、登校が一日や二日増えても変わらないから、咲千花が帰ってくるのを待ってるよ」
「え!? いや、話聞いてた!? ……私って、そんなに信用ないかな。これでも今日は、かなり前向きな気持ちんだけど」
複雑な顔でうつむく咲千花だったが。
「それは違う。信じていないからじゃない、信じているからこそ、今日は家で待っていたいんだ。どうしたって僕の方が帰ってくるのが遅くなるからな。咲千花を出迎えるためには、家にいないといけないんだよ」
「でも……あたしのせいで、お兄ちゃんが今日休むみたいな感じになるじゃん」
「今更、一日や二日変わらないよ。待ってるから、行っておいで」
「……うん」
朝食を終え、身支度を整えると、咲千花はドアを出ていった。
ひどく落ち着かない気分にはなるものの、ここからは僕にできることはない。大人しく、自宅警備員をやっていよう。
部屋に戻り、ベッドに腰かけた。何か本でも読もうと思っても、とうに読み尽くしたものばかりなので、今一つ食指が動かない。
そういえば、水葉世界で先輩に貸した本は、この五月女世界ではどうなっているんだろう。さすがに本がひとりでにこっちの世界の水葉先輩の元へ飛んでいくわけはないし、こっちの先輩と僕は知り合いですらないから、貸し借りはしようがない。気にはなるけれど、いちいち確かめるほど興味を引かれるわけでもなかった。
そんなことをぼやぼやと考えていて、ふと気づく。
この、あまりにも落ち着いた感覚は、どうしたことだろう。
「何か……変じゃないか?」
不登校になった直後は、腹立たしさと情けなさで毎日歯噛みしていた。それが段々薄れてくると、こんどは学校に行かないことによる未来への不安が膨れ上がって、自宅にいても気が休まらなかった。
それが今は、まるでただの休日を過ごしているかのように心が凪いでいる。
「先輩と昨夜話をして、吹っ切れたから? ……いや、まだ、何が解決したわけでもないぞ」
平和過ぎる。
今まで、少なくとも不登校になってからは感じたことのなかった平穏が、僕に訪れていた。
「咲千花だって、今日学校に行きたいなんて、随分いきなりじゃないか? どうして僕と咲千花が、こんなに――」
――こんなに急に、生きることの辛さが消えてなくなったのか。
そう考えて、雷に打たれたようなショックが頭に走った。
「まさか……」
水葉先輩は、精神病を治せる。
僕と咲千花は精神病と診断されたわけではないし、恐らくはまだそこまでの状態ではないだろう。
でも、うつ症状か、それに近い状態ではあった。この症状が常態的になれば、うつ病と呼ばれるようになる。
病気と変わらない症状。水葉先輩は、それを治療できる。自分が引き受けることと引き換えに。
「まさか、先輩、僕と咲千花の心の傷を……治したんじゃ……」
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