平衡ゴーストジュブナイル――この手紙を君が読むとき、私はこの世界にいないけれど

クナリ

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癒す者たち

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 十一月の半ばが過ぎた。
 僕の住む千葉県の流山市は関東地方なので、寒冷地ほどではないにせよ、空気はますます澄み、夜になると月に手が届きそうなほどに近く見える。
 夜が更けるまで、一昨年ベストセラーになったという小説の文庫版をベッドで流し読み、時間を潰す。
 二十三時五分前、僕は母さんや咲千花の目を盗んで、そっと家から出た。
 ハーフコートから出た地味なズボンと、いつ買ったのか覚えてもいない履き古したスニーカーが恥ずかしかった。僕は登校拒否だけど、引きこもりではない。ただ、昼間は出歩く気がしないというだけだ。今度新しいのを買いに行こう。
 虫の声のフルオーケストラを奏でるビオトープを通り過ぎて、僕は近所のコンビニへ向かった。囲われた中で循環しているという生命のリング。時折、その中へ混じってしまいたくなる。
 そこから目と鼻の先のコンビニの自動ドアが開くと、僕はアイス売り場へ向かった。
 スマートフォンで時刻を見る。二十三時ちょうど。
 アイスケースの左手にはレジがある。右端へ小股で移動してから、ささやくような声を出した。
「先輩、いますか?」
 返事がない。横目で左右を見てみても、人影はおぼろげにも見えない。
「水葉先輩?」
 少し声量を上げてみても、やはり反応がない。ただでさえコンビニの明るい電灯の下では幽体の姿が見づらい上、お店の人に不審に思われないようおっかなびっくりやっているので、どうにも効率が悪かった。
 約束した時間か場所が、間違っていただろうか。
 ついおろおろと周りを見回しだしたせいで、お店の人と目が合った。僕よりも少し年上らしい男性で、営業スマイルを浮かべながら小首をかしげている。
 耳元で、ぷっと吹き出す声が聞こえた。
 僕はレジに行ってカップの紅茶を買い、セルフサービスのティーバッグをわざとお湯の中でゆっくり揺らして抽出してから、コンビニを出る。
「……あまり感心しませんね」
 夜の闇の中、虚空から返答が聞こえた。
「ごめんごめん、つい。五月女くんは時々、語彙がおっ……歳に似つかわしくないね」
「悪かったですね、時々語彙がおっさんで」
「だって、君、普段は割合落ち着いて見えるからさ。うろたえる姿って貴重なんだもの」
「水葉先輩といる時は、当初からかなりうろたえてましたけど」
 そう言って、半眼で、声のした方を見る。
 うっすらと、ロングスカート姿の人影が、ビオトープを囲む柵の前に浮かんでいた。
「……見えます、先輩。縦長の二等辺三角形みたいなシルエットです。足首まであるスカートですね。色は青です」
「Aラインと言ってほしい。それにしても、お互い段々、幽体の視認性が上がってきたね」
「はい。雨でなくても、暗いところなら大分はっきり見えます」
「雨だと見えやすくなるっていうのも、よく分からない理屈だけど」
「『ゴースト』の分からないところは、まだまだありますからね。上空や地下にどこまで行けるのか、とか」
 僕と水葉先輩は、お互いの世界に幽体になって訪れ、ゴーストと名づけた能力の実験を繰り返していた。
 たとえば、建物だったらどんな高さだろうと、階段を上がれば登っていける。けれど、足場なしに浮遊の高度を上げようとするとひどく疲れてしまい、ビルの三回くらいの高さが限界だった。
「そういえば、僕、病院の二階へ行くのに、いつも階段使ってるんですよ。単に肉体の習慣だと思ってたんですけど、浮遊で上昇するのは辛いってことが、無意識に分かっていたのかな」
 僕は、飲み頃の温度になった紅茶を一息にあけると、先輩を促して歩き始めた。
「五月女くん、足は大丈夫?」
「もうほとんどいいです。この間は参りましたけど」
 水葉先輩の幽体と初めて言葉を交わした日、僕は市立病院で、複雑骨折をした足を治した。
 今までの感覚から行くと、本人の怪我は重症でも、あのくらいなら僕が治癒させれば、フィードバックは軽くて済むように思われた。
 けれど目が覚めると僕の足は骨にヒビが入っており、激痛で起き上がれず、結局病院行きとなった。幸い、ゴーストで吸収した怪我は軽くなるだけでなく治るのも早いので、大事にはならなかったけれど。
「もう少し、ゴーストのルールを明確にして欲しいですね」
「まあ、元々ルールなんて明確に定まってるのかも分からないけど」
 確かに。
 話しながら歩いていると、もう市立病院に着いてしまった。
「じゃ、今日も行こう」
 僕と先輩は裏口へ回った。
 もちろん本当はこの時間、部外者が入れるわけがない。
 生身の僕は敷地の横に待機し、水葉先輩は手をひらひらと振りながら建物の中へ入っていく。
 僕たちは、僕のいる世界をA、先輩の世界をBとする仮称を改め、それぞれを五月女世界と水葉世界と呼んでいた。
「水葉世界というのは、呼び捨てしているようで気が引けるのですが」と申し立ててみたものの、先輩は「人類みな平等」と全く答になっていない理屈で押し通してしまった。
 ともあれ僕たちは、幽体と生身で、こうして深夜に病院に来るのが日課になっていた。
 二人で連れ立ってくる必要は特にないのだけど。それでも僕たちは、時間と場所を決めて待ち合わせ、この病院を一緒に訪れている。
 僕のいる五月女世界――という呼び方も慣れないけれど――では、実態の僕が病院の外で待ち、幽体の先輩が病棟に入る。同じように、水葉世界では僕が実行役で、先輩は敷地の外で待ってくれていた。
 しばらく、怪しまれない程度にその辺りをうろついていると、ふわふわとした足取りで水葉先輩が出てきた。
「お疲れ様でした。……今日はどんな人を治したんです?」
「あれは多分、胃潰瘍じゃないかな。ちょっと悪くなってるみたいだけど、何日かしたら退院できると思う。なかなか、私たちの能力だけで完治はさせられないの、ちょっと歯がゆいね」
 二人して僕の家への道を歩きながら、僕はぼんやりと夜道に浮かぶ先輩に聞く。
「あの、先輩って、怪我より病気の人を優先して治しますよね。何か理由があるんですか?」
「おお。五月女くんはよく見てるね」と先輩の形の影がおどけてのけ反る。
「よく見てるも何も、毎回そうですし。僕はほとんど怪我しか治しませんから、余計に気になって。病気の方が怪我より治しにくいですし、ダメージのフィードバックもきつくないですか?」
 僕が、早い段階で怪我治療専門のゴーストになったのは、それが理由だった。
 怪我は、他人でも自分の身に負っても程度が分かりやすいし、回復すればそれまでだ。
 けれど病気の場合は、まず怪我ほど単純ではないので、ダメージを幽体で引き取ること自体が怪我より難しい。何の病気なのか正確に分からなければ失敗することもあるし、複数の臓器が絡んでいると、「全体的になんとなくよくなる」くらいの、気休め程度の回復にとどまってしまう。快方に向かわせたわけではないので、当然、すぐに元通り悪化する。
 何より、自分の受けるフィードバックが、思わぬ重症になった時に対処の仕様がなくなる。
 たとえ外傷を治したせいで、うっかり実体が複雑骨折をこうむったとしても、癌や白血病よりははるかにましだろう。
 僕の場合はそうした考えで、早期に、病人を治すのはやめてしまった。
「五月女くんは、最初に人を治したのはどんな風だった?」
「僕は人じゃなくて、例の猫だったんです。足を怪我していて、踏まれたのか引っ掛けたのか……そこに思わず手を伸ばして、それで感覚的に」
「うんうん。いいやつだ、君は」
「どうも。水葉先輩はどうだったんです?」
「似たようなものかな。初めてゴーストになってフラフラしてたら、近くに病人がいたの。それを寛解させたので、つい、怪我より病気を治す方が私には自然になったのかもね」
 かんかい、という意味がよく分からなかったので、後で辞書を引くために頭の片隅に刻印する。
「……不治の病とか、引き受けないでくださいよ」
「手に余ることはしないよ、私は。よほどのことがなければ」
 微妙に怖い注釈をつけて、先輩は笑った。
 僕がクラスの連中に向けられていた笑いとは違う。あちらはけだもの以下にしか見えないほど醜いのに、先輩の笑い方は、おぼろげな幽体だというのに、僕にまで口角を上げさせる微笑ましさがあった。
 もう、うちまでは五十メートルもなかった。先輩といると、一人とぼとぼとこの道を歩いていた時よりも、遥かに道程が短く感じられる。
 わざとゆっくり歩いたり、回り道をしたりしていたけれど、それでも驚くほどあっという間に、家路は終わろうとしていた。
「いやあ、今日もいいことしたね。五月女くんは明日の夜も大丈夫?」
「僕は今、まあその、毎日が休日状態なので……。先輩こそ、何日も連続して平気なんですか? これ、感覚的にはかなりの夜更かしじゃないです?」
 スマートフォンを見ると、既に午前一時近かった。
「んー、まあ、このくらいならね。明日は五月女くんが、水葉世界においでよ」
 当たり前のようにそう言われると、今はゴースト相手なのでうっかりしそうになるが、僕の横でスカートを揺らして歩いているのは、先輩とはいえ未成年の女子なのだ。
「原則として、先輩が、五月女世界に来ることにしませんか? 僕が水葉世界に行くと、水葉先輩を実体で夜中に出歩かせることになりますし」
「でもそうすると、五月女くんが人助けできないじゃない? 助けてあげたいんでしょ、並行世界のとはいえ、他人ひとを」
「それはそうですけど、優先順位がありますよ。先輩に何かあったら」
「分かった。じゃあ、なるべく早い時間に待ち合わせしよう。夜の零時前後だから問題なんであって、十九時とか二十時ならそこまででもないでしょ? 最近は日没も早いし」
 相変わらず、日のあるうちはゴーストは出せなかった。夏になって日照時間が増えるとどうなるのかは興味があったけれど、今はまだ確かめようがない。
「そういう問題では……」
「それくらいなら、予備校行ってる子なら当たり前に外にいるもの。予備校じゃなくてもいるけど。じゃ、明日は十九時に今日のとこの向かいにあるコンビニね」
「どうして毎回、場所を変えるんです?」
「同じところじゃつまらないじゃない。人生、何事も変化がないと」
「分かったような、分からないような」
 苦笑したところで、僕の家の門の前に着いた。当然、どの窓も真っ暗だった。母さんも咲千花もとうに寝ているだろう。
「またね」
 先輩が手を振る。僕はそれを背に、音を立てないように門を開け、玄関に滑り込んだ。ちらりと見ると、まだ先輩は僕を見送ってくれている。
 またね――か。
 いつ以来だろう、次に会う約束を人としたのは。
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