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中学二年の、九月の終わり。
終礼のあと、私はいすから立ち上がって、うーっと声を出しながら背伸びをした。
 小学校からの友達のまゆが、隣の席から、あははと笑ってそんな私を見てる。

「凛って、猫みたいだね」
「そ、そう?」

 そうは言うけど、まゆのほうが、体のいろんなパーツが小さくて、柔らかそうで、猫っぽい。髪はふわふわのロングヘアで、明るい茶色で、本当に毛が長いタイプの猫みたいだ。
 それでもまゆはまゆで、私のセミロングの黒髪がうらやましいらしく、「そういうつやに憧れるんだ」って何度か言われたことがある。

「凛、今日、あたしとどこか寄って帰らない? 駅前のドーナッツ屋さん、アイスドーナッツが九月までなんだって」
「わー、そうなんだ。あ、でも、私今日は部活行かなきゃだから……」

「そうなんだ。文芸部、今忙しいの?」
「そういうわけじゃないんだけど、私が個人的に……。今書いてるお話が、もうすぐ一区切りつくかもなんだ」

 まゆは、「完成したらまた読ませてね」と言って、手を振って教室から出て行った。
 私はあんまり頑張り屋な性格ではないっていうことなのか、文芸部にまで入って小説を書いてても、途中で投げ出したくなっちゃうことがよくある。
今までに何本か小説は書いてみたけど、まゆの励ましがなければ、もしかしたら一作も完成させられなかったかもしれない。……というか、完成させられないままで途中やめになってる小説が、もう五つか六つはある。

 でも、もう二年生のなかばだもんね。
 そんなことも言ってられない。
 とにかく、今書いてるやつは自分でも気に入ってるし、無事完成させるんだ。
 そう強く誓って、私は文芸部の部室へ向かうのだった。



 お話を書くっていうのは、小学生の頃に思ってたより、なにかと手間と時間がかかるもので。
 ほとんど完成してた原稿の文章データを、文芸部の備品のノートパソコンでざっと全体を確認して、プリントアウト。
 それだけでもう、この日は下校時刻になっちゃった。

 駐輪場の自転車に慌ててまたがって、校門を出る。
 十月が近づいて、だんだんと日が暮れるのが早くなっていくのを感じてはいたけど、今日は本当にあっという間に夕暮れが終わってしまった。
 太陽の光は、空の端っこに、ほんの少し残ってる。
 そんな時間に、少し学校を離れると、林に囲まれた県道に出た。

「うう、ここらへんの道って、街灯少ないんだよね……」

 強めに自転車のペダルをこいで、家へ走った。
 学校でプリンターを借りて印刷した、五万字くらいある小説が、ずっしりとカバンの中に入ってる。
それを自転車のカゴに入れているから、ぐらつかないように気をつけて、しっかりとハンドルを握った。
 今日はこれを家で細かく見直しして、担任でもある国語の先生に、明日提出するんだ。

 学校の文芸部にある古いパソコンと、家のノートパソコンとで、学校の日もお休みの日もずーっと書き続けたファンタジー小説は、やっとひと区切りがついた。
 私の場合、どうしてかパソコンの画面で見るよりも、紙に印刷して見直すほうが、文章の書きまちがいとか変な言葉づかいを見つけやすい。

 もう自分では何度も読み返してるからよく分からなくなっちゃってるけど、面白く出来上がってるといいな。
 にへへ、と思わずほっぺがゆるんだ。
 ま、まあ、つまんないって言われちゃう可能性もあるんだけど……。
 担任の岩田先生は、五十歳くらいの男の先生で、優しいお父さんみたいで人気がある。たぶん「つまんないな!」なんて言い方はしないと思うんだけど、……けっこう顔に出ちゃうタイプだから、出来が悪いときは悪いって、はっきり言われてるのと変わらなかったりする。

 道路の段差に気をつけながら走っていたら、あれ、と思った。
 この道はもともと街灯が少なくて、夜になるとちょっと怖いんだけど、それにしても暗すぎない?
 空を見ると、雲はないみたいだった。でも、月も星も見えない。……なんでだろう。
 それに……この道、こんなに長かったっけ?

 背中がぞくっとした。
 きゅっ、と自転車を止める。
 いつの間にか、何メートルか先も見えないくらい、あたりが真っ暗だった。
 いつもはそこそこ車も通るのに、そういえばさっきから一台も来ない。

「なんで……?」

 私は怖くなってきて、周りを見回した。
 そうしたら、二十メートルくらい先のところに、青く光る点がいくつも見えた。

「……なんだろう、あれ」

 自転車を降りて、歩いて進んだ。
 どうしてか、足音を殺して、こっそりそろそろと進んだほうがいいみたいな気がしてた。

「まさか、蛍……? じゃないよね。川もないのに……」

 足元は、アスファルトじゃないみたいだった。暗くて見えないけど、さくさくとした感じがあって、草地になってるのが分かる。

 とうとう、光る点まで、あと十歩くらいの近さまで来た。
 私は、よーく目を凝らしてみる。
 ……最初は、自分が見たものが、信じられなかった。
 蛍じゃない。というか、虫じゃない。
 とても小さいけど。信じられないくらい小さくて、親指の爪くらいの大きさくらいしかないんだけど、こんなの、どう見ても……

「クジラ……?」

 それは、青白く光ってる、クジラにしか見えなかった。
 体に丸みがあって、胴体の横にはちょこんとひれがついてて、尾びれはゆっくり上に下に動いてる。
 それが、十匹くらい、ふわふわと暗闇の中を跳ねてた。
 ……なにこれ。こんな生き物がいるの?

 よく見ると、クジラたちは、なにかの上を跳ねまわってる。
 それはスミレの花びらみたいだった。空中を泳いでるんじゃなくて、花びらから花びらへ、音も立てないで移り渡ってる。
……あれ。スミレって、こんな秋に咲くんだっけ? 春の花じゃなかった……?

不思議すぎる光景だったけど、光る小さなクジラたちがあんまりきれいだったから、私は思わず見とれてしまってた。

 だから、全然気がつかなかった。
 私のすぐ横に、誰かが立ってることに。

「っ!?」

 慌てて立ち上がると、私のすぐ目の前に、巨大な人影が立ちはだかった。
 でも、普通の人間じゃない。
 体はお父さんより縦にも横にも大きくて、手が地面につくくらい長い。
 クジラの光で少しだけ見えたけど、その体は毛むくじゃらだった。
 動物園で見た、オランウータンにそっくりだ。

 なんで、こんなところに
 走って逃げられるの? それともそうっと逃げたほうがいい?
 つかまったら、私の手足なんて簡単に折られちゃうんじゃ
 自転車、そうだよ、なんで自転車置いてきちゃったの

 そんな風に、一瞬でいろんなことがいっぺんに頭に浮かんだけど。

「きゃ……」
「無邪気なことだ。人間の子供が、ぼうっとスミレワタリに見とれているとはな」

 私がパニックになりながらあげかけた悲鳴は、そのオランウータンの言葉にさえぎられてしまった。
 ……今、しゃべった? オランウータンが?
  
「あ、の……」
「このごろは、めっきり減ったはずだったがな。こういうこともあるか、まだ」

 しゃべってる。完全にしゃべってる。
 ……言葉が通じてる?
 こ、これって、もしかして、話せば分かるってやつ?
 そう思ったけど。

 オランウータンは、か細い明りの中でも分かるくらい、にやりと笑った。
 よく見ると、顔は、人間そっくりだった。ひげがたくさん生えた、大人の男の人の顔をしてる。
 なんなの。
 なんなの、これ。人間? オランウータン? ……その、どっちでもないもの……?

「うれしいじゃないか。人間の子供が食えるとは、何十年ぶりだ?」

 食える。
 食えるって、言った。

 もうなにも考えないで、私は、走り出した。
 暗すぎてよく分からないけど、たぶん、自転車を置いたのはこっちだったはずだよね。
 でも、すぐに、後ろから足音が聞こえてきた。
 私を追いかけてくる。
 しかも、私よりずっと足が速い。足音でそれが分かる。
 どうしよう。どうしよう。
 どうすればいいの。
 こんなの、どうしたって――

 逃げられっこない。
 そう思ったら、足から力が抜けちゃった。
 ひざがかくんと折れて、私は暗い草地にべしゃっと転がる。

「うああっ!」

 立たなきゃ。
 立って、逃げなきゃ。
 地面に手をついて体を起こして、……つい、後ろを振り返った。

 私の足のすぐ奥に、笑ったままのオランウータンがいた。
 ひっ、とのどが引きつって固まってしまう。

「いただこうか」

 毛だらけの、太い腕が、私に向かって伸びてきた。
 私は、体中の力を振りしぼって、なんとか、その腕をぴしゃんと手のひらで叩いた。
 でも、全然だめだ。ごわごわした腕は硬くて、重くて、一センチも横に動かない。

 学校の鉄棒くらいの太さがある指が、にゅうと伸びて、私の前髪に触った。
 ああ。
 もう――

 その時。

「いただかせるわけにはいかないな」

 いきなり、後ろから男の人の声がした。
 え? って言って振り返ろうとしたら、なにかがものすごい速さで私の顔のすぐ横を通り過ぎて、オランウータンに激突した。

 どごんっ!

 すごい音と一緒にオランウータンは後ろにひっくり返って、でもすぐに起き上がってくる。

「ぐばああっ!? ……なんだ、貴様!?」
「はぐれの大猩猩かよ。おれの蹴りで昏倒しないとは、やるじゃないか。それにしても嘆かわしいもんだな。この国の妖怪ってのは、もう少し慎みってものがあったって聞いてるぜ」

 はぐれのおおしょうじょう?
 ……妖怪?

「貴様はなんだと訊いておるのだ! 答えんか、こわっぱ!」

 こわっぱ。確かに、オランウータンの前に立っている人影は、後ろ姿だから分かりにくいけど、そんなに背が高くない。
 私よりは大きいけど、クラスの中の一番背の高い男子と同じかもう少し上くらいで、体つきは普通の人間の男の子にしか見えなかった。

「お前に名乗る必要はない。近くに、住みかにしている森でもあるんだろう。これ以上ケガしないうちに、そこへ帰るんだな」
「こ……の……」

 オランウータンが、体をかがめた。
 弱ってるっていうより、なにか、力をためているような格好に見える。

「あ……あのっ!?」
「悪いが、君は少しおとなしくしていてくれ。これもなにかの縁だ、守ってやるよ」

「いえあの、そうじゃなくて! あのオランウータン、なにかしようとしてますよね!? 逃げたほうがいいんじゃ!?」

 私は必死で言ったのに、人影は、なぜか笑い出した。

「な、なにかおかしいですかっ!?」

 そうしたら、人影が振り向いた。やっと、まともに顔が見える。
 ……私は思わず息をのんでしまった。

 さっきよりも光るクジラから離れたせいで、少ししか明りはなかったけど、それでもじゅうぶんすぎるくらいに顔立ちが分かる。
 ややきつめの目に、きりっとした細い眉。形のいい鼻と、ちょっと薄めの唇。
 顔の輪郭は細めで、冷たい印象を与えそうなのに、口に浮かんだ微笑みのせいでやけに人懐っこく見えた。
 こ、この人、ものすごくかっこいい。
 少し長めの黒い髪は、前髪が顔にかかってる。でも、その下から向けられてるまなざしは、満月の光のようにあざやかだった。
 大人、ではないけど、私よりは少し年上に見える。高校生、くらいかな?

「悪い悪い。オランウータンか、確かにな。似てるよな」

「どこを見ておるかあ!」

 ばんっ、と音がした。
 オランウータンが地面を蹴った音だっていうことに、一瞬遅れて気づく。黒い毛の塊が、弾丸みたいに私たちに向かって飛んできた。
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