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第一章 弔イ歌
一話 残影
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◇
夢を見た。
未だに一人、海辺で佇んでいる夢だ。
もうあれから三年も経っているというのに、その場面はかなりの頻度で現れる。
それも現実感の無かったあの時に対して、夢の中では酷くリアリティーがあった。
潮の匂いも波音も、海水の冷たさも息苦しさも、全てが鮮明に映し出される。
楓は寝起きのままベッドから立ち上がり、カーテンを開け放つ。
二階の窓からは朝日が差し込み、今日は自身の気持ちとは正反対の快晴だなと苦笑したくなった。
笑えない心境だからこそ、いっそ一周回って可笑しくもなるものだ。
もうあれから、三年も経つというのに。
「――楓、起きたかい?朝食が出来たよ」
「あ、はい。今行きます」
扉越しに聞こえて来たのは爽やかな男性の声。
ここは従兄の藤堂勇太の家であり、三年前のあの時から楓は勇太の元でお世話になっていた。
地獄の日々から、抜け出したのだ。
そんな考えも今は置いておくとして、楓は急ぎ寝間着から普段着へと着替えを始める。
いくら従兄と言えども寝起きの状態で自身の姿を晒すのには抵抗があった。
別に自分はそれでも構わないのだが、やはりお世話になっている以上失礼に当たるような気がしていたからだ。
なのでテキパキと寝間着を畳んで仕舞い、寝癖を整える。
明るめの茶髪は肩口程度の長さの為さほど苦労はないが、くせ毛のせいでくしを通すのが難しい。
これはこれで個性として普段はあまり気にしていないが、もしかしたら大変失礼に当たるのかもしれない。
けれど時間を掛けては朝食を待たせてしまうので、そこはごめんなさいと心の内で謝罪をした。
早々と自室の扉を開け、一階へと下る。
新築の為に階段が軋む事などない、楓がこの家に来て驚いた要素の一つだ。
おんぼろアパートにしか住んだ事がない楓にとって未知の体験、まるで大金持ちの家で居候させてもらっているような感覚だった。
いや実際、勇太は大金持ちなのかもしれない。
何せ24歳でカーショップを経営しているし、こんな新築の一軒家を建てられる訳なのだから。
一階のリビングに着くと、コーヒーのかぐわしい香りが鼻腔をくすぐる。
朝一番にそれを感じるのがここに来てからの習慣となっていた。
楓にとって今日も一日が始まる、合図代わりのようなものである。
「おはよう」
「おはようございます、勇太さん」
いつもの四人掛けテーブルの席に座り、対面する勇太と朝の挨拶を交わす。
木彫の白いダイニングテーブルの上には、綺麗な焼き目のクロックムッシュと生野菜のサラダ、手作りのコーンポタージュに芳醇な香りのコーヒーが並べられていた。
勇太はこれから仕事があるというのに、いつも朝食をしっかり作ってくれるのだ。
楓は日々申し訳なさを感じており、けれど自分にそんな才能がない事も知っていたのでせめて美味しく食べるよう努める。
まあ努めなくても美味しさに変わりはないのだが。
「いただきます」
フォークとナイフの使い方もろくに知らなかった楓も、大分その作法に慣れてきていた。
難なくパンを一口サイズに切り分け、口に運ぶ。
新鮮な卵の風味と程よい黒コショウの刺激が口の中に広がり、ちょうどいい塩加減がパンの旨味を引き立たせる。
(ああ、美味しいなあ)
何度食べても飽きの来ない味に舌鼓を打つ楓は、一人心の中でそうごちる。
この気持ちを素直に表現したいのだが、この一言が勇太の朝食作りに余計な負担を掛けないだろうかと考えてしまう。
作る事への責務をより一層強めてしまうのではないかと、危惧しているからこそ心の声で留めている訳だった。
◇
勇太にとっては楓の心情など百も承知な事である。
何しろ一連の流れが全て本人の顔に出ているのだから。
美味しそうな表情もその後すぐに何かを考え込む表情も、もれなくだ。
楓は何故か平日の朝食の時だけ感想を口にしない。
最初は寝起きが悪いのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい事はすぐに分かった。
これから仕事に行く勇太に対して、いらぬ配慮をしているのだろう。
なので今日も当たり障りない程度のやり取りで済ませる。
「食べきれそうかい?」
「あ、はい。すみません、お腹空いてましたので」
何故わざわざ謝るのか、勇太にはその発想は出て来ない。
けれど楓の今までの生活環境を考慮すると、あながち不思議にも思えないから厄介だ。
三年前のあの時の楓は、随分と痩せ細っていた。
普通食べ盛りの時期において、あそこまで痩せるのはおかしいと思う所である。
母親からの虐待。
本人からはハッキリとは聞いていないがそんなところだ。
しかもそれだけではなく、学校でも馴染めなかったんじゃないだろうかと勇太は考える。
何故かと言うと勇太も楓も、家柄の関係で特殊な体質を持っているからだ。
それ即ち「霊感体質」である。
本来見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたりと、生活にも影響を及ぼす事を同じ境遇の勇太は知っていた。
ただ楓と自分に違う事があったとするならば、それは家そのものだろう。
勇太が育った「藤堂家」は代々裏の顔としてひっそりとお祓い家業をしており、身内は全員認知しているし理解も当然あった。
対して楓は父が藤堂家の人間ではあるが、母が一般人なのだ。
それも超がつく程のリアリストだと聞いている。
加えて楓の父はとっくの昔に亡くなっている為、理解者がおらず苦しんでいたに違いない。
考えながら勇太も料理を口に運ぶ。
我ながら良い味付けだと自画自賛した。
対面する楓は何だかんだパクパクと食事に夢中のようだったので、いつもの事ながらそれを見て勇太はホッとしてしまう。
楓の環境を知った上でずっと放置していた、その点では確かに罪悪感や責任感もあった、だから楓を迎え入れたと言ってもいい。
昔自分の父親に、楓にも血が受け継がれているのだから藤堂家に来てもらえば良いと提案した事があった。
だが父はそれを頑なに拒んだ。
このお祓いの仕事は、正直命にも関わる危険な仕事だ。
ならば楓の安全面での考慮も含めて、家柄に巻き込まない方がいいというのがその時の結論だった。
けれどあんな事が起きてしまった以上、勇太は考えを改める他なかった。
楓の安全など、最初から無かったのだから。
「ごちそうさまでした」
楓が両手を合わせて言った。
満足そうでいて、何処か物足りなさそうな表情も見受けられる。
勇太は失笑しそうになるも抑え、明日からの献立は少し量を増やすかと考えた。
買い物は楓に任せているから、後でその趣旨を遠回しに伝えるとしよう。
「さて、僕はもう行くよ。洗い物、よろしくね」
「いえ、こんな事くらいしか出来ないので。いってらっしゃい、勇太さん」
そう言った楓に見送られ、勇太は玄関から出て行く。
けれど職場であるカーショップは家の目の前だから、通勤も何もないのだが。
◇
勇太が仕事に行った後、洗い物を済ませて一人の時間となった。
楓はこの後何をするか考える。
楓は、無職だ。
高校にも入らず住む町も変わり、特にアルバイトもしていない。
たまに勇太の店を手伝う事はするが、基本的に楓の出来る作業なども殆どない。
無職は、無力だ。
せめて稼げる術が在ったならば、勇太に全て負担させる事もないのだが。
などと考えても仕方ない、せいぜい出来る事をしようではないかと考えを改める。
今日は買い物に行くのだが、まだスーパーが開くには時間があった。
なので趣味であるドライブに出掛けるとしよう。
と言っても見えを張れるような車ではなくて、楓の愛車はスクーターだけれども。
一度リビングのソファーでくつろぎ、テレビも付けずにぼーっとする。
今日は何処へ行こうかとか、スーパーでは何を買おうかとか。
そんな事よりも何よりも、“今日は一段と干渉が強い”。
何がそうさせるのかまでは分からないが、楓には何処か嫌な予感も確かにあった。
だから迷っていたのだが、やはり出掛ける事にしよう。
そう決めた楓は、自分に問い掛けるように呟く。
「それでいいかな?嫌な感じはするけど、外に出ない訳にもいかないから」
誰の返事もないのは当然、今この家には他に誰もいないからだ。
だがその言葉をどう受け取ったのか、『影』は少しだけ揺らめきを見せた。
楓はぼーっとした眼差しで、宙に浮かぶそれをただ見つめている。
(影は私を離さない、私も影を離さない)
楓は知っている。
自分の視界に映る影は、自分の命運さえも握っているのだと。
真っ黒なままのテレビ画面越しに映る楓の表情は、何とも形容しがたい何処か歪んだ笑みのようであった――。
夢を見た。
未だに一人、海辺で佇んでいる夢だ。
もうあれから三年も経っているというのに、その場面はかなりの頻度で現れる。
それも現実感の無かったあの時に対して、夢の中では酷くリアリティーがあった。
潮の匂いも波音も、海水の冷たさも息苦しさも、全てが鮮明に映し出される。
楓は寝起きのままベッドから立ち上がり、カーテンを開け放つ。
二階の窓からは朝日が差し込み、今日は自身の気持ちとは正反対の快晴だなと苦笑したくなった。
笑えない心境だからこそ、いっそ一周回って可笑しくもなるものだ。
もうあれから、三年も経つというのに。
「――楓、起きたかい?朝食が出来たよ」
「あ、はい。今行きます」
扉越しに聞こえて来たのは爽やかな男性の声。
ここは従兄の藤堂勇太の家であり、三年前のあの時から楓は勇太の元でお世話になっていた。
地獄の日々から、抜け出したのだ。
そんな考えも今は置いておくとして、楓は急ぎ寝間着から普段着へと着替えを始める。
いくら従兄と言えども寝起きの状態で自身の姿を晒すのには抵抗があった。
別に自分はそれでも構わないのだが、やはりお世話になっている以上失礼に当たるような気がしていたからだ。
なのでテキパキと寝間着を畳んで仕舞い、寝癖を整える。
明るめの茶髪は肩口程度の長さの為さほど苦労はないが、くせ毛のせいでくしを通すのが難しい。
これはこれで個性として普段はあまり気にしていないが、もしかしたら大変失礼に当たるのかもしれない。
けれど時間を掛けては朝食を待たせてしまうので、そこはごめんなさいと心の内で謝罪をした。
早々と自室の扉を開け、一階へと下る。
新築の為に階段が軋む事などない、楓がこの家に来て驚いた要素の一つだ。
おんぼろアパートにしか住んだ事がない楓にとって未知の体験、まるで大金持ちの家で居候させてもらっているような感覚だった。
いや実際、勇太は大金持ちなのかもしれない。
何せ24歳でカーショップを経営しているし、こんな新築の一軒家を建てられる訳なのだから。
一階のリビングに着くと、コーヒーのかぐわしい香りが鼻腔をくすぐる。
朝一番にそれを感じるのがここに来てからの習慣となっていた。
楓にとって今日も一日が始まる、合図代わりのようなものである。
「おはよう」
「おはようございます、勇太さん」
いつもの四人掛けテーブルの席に座り、対面する勇太と朝の挨拶を交わす。
木彫の白いダイニングテーブルの上には、綺麗な焼き目のクロックムッシュと生野菜のサラダ、手作りのコーンポタージュに芳醇な香りのコーヒーが並べられていた。
勇太はこれから仕事があるというのに、いつも朝食をしっかり作ってくれるのだ。
楓は日々申し訳なさを感じており、けれど自分にそんな才能がない事も知っていたのでせめて美味しく食べるよう努める。
まあ努めなくても美味しさに変わりはないのだが。
「いただきます」
フォークとナイフの使い方もろくに知らなかった楓も、大分その作法に慣れてきていた。
難なくパンを一口サイズに切り分け、口に運ぶ。
新鮮な卵の風味と程よい黒コショウの刺激が口の中に広がり、ちょうどいい塩加減がパンの旨味を引き立たせる。
(ああ、美味しいなあ)
何度食べても飽きの来ない味に舌鼓を打つ楓は、一人心の中でそうごちる。
この気持ちを素直に表現したいのだが、この一言が勇太の朝食作りに余計な負担を掛けないだろうかと考えてしまう。
作る事への責務をより一層強めてしまうのではないかと、危惧しているからこそ心の声で留めている訳だった。
◇
勇太にとっては楓の心情など百も承知な事である。
何しろ一連の流れが全て本人の顔に出ているのだから。
美味しそうな表情もその後すぐに何かを考え込む表情も、もれなくだ。
楓は何故か平日の朝食の時だけ感想を口にしない。
最初は寝起きが悪いのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい事はすぐに分かった。
これから仕事に行く勇太に対して、いらぬ配慮をしているのだろう。
なので今日も当たり障りない程度のやり取りで済ませる。
「食べきれそうかい?」
「あ、はい。すみません、お腹空いてましたので」
何故わざわざ謝るのか、勇太にはその発想は出て来ない。
けれど楓の今までの生活環境を考慮すると、あながち不思議にも思えないから厄介だ。
三年前のあの時の楓は、随分と痩せ細っていた。
普通食べ盛りの時期において、あそこまで痩せるのはおかしいと思う所である。
母親からの虐待。
本人からはハッキリとは聞いていないがそんなところだ。
しかもそれだけではなく、学校でも馴染めなかったんじゃないだろうかと勇太は考える。
何故かと言うと勇太も楓も、家柄の関係で特殊な体質を持っているからだ。
それ即ち「霊感体質」である。
本来見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたりと、生活にも影響を及ぼす事を同じ境遇の勇太は知っていた。
ただ楓と自分に違う事があったとするならば、それは家そのものだろう。
勇太が育った「藤堂家」は代々裏の顔としてひっそりとお祓い家業をしており、身内は全員認知しているし理解も当然あった。
対して楓は父が藤堂家の人間ではあるが、母が一般人なのだ。
それも超がつく程のリアリストだと聞いている。
加えて楓の父はとっくの昔に亡くなっている為、理解者がおらず苦しんでいたに違いない。
考えながら勇太も料理を口に運ぶ。
我ながら良い味付けだと自画自賛した。
対面する楓は何だかんだパクパクと食事に夢中のようだったので、いつもの事ながらそれを見て勇太はホッとしてしまう。
楓の環境を知った上でずっと放置していた、その点では確かに罪悪感や責任感もあった、だから楓を迎え入れたと言ってもいい。
昔自分の父親に、楓にも血が受け継がれているのだから藤堂家に来てもらえば良いと提案した事があった。
だが父はそれを頑なに拒んだ。
このお祓いの仕事は、正直命にも関わる危険な仕事だ。
ならば楓の安全面での考慮も含めて、家柄に巻き込まない方がいいというのがその時の結論だった。
けれどあんな事が起きてしまった以上、勇太は考えを改める他なかった。
楓の安全など、最初から無かったのだから。
「ごちそうさまでした」
楓が両手を合わせて言った。
満足そうでいて、何処か物足りなさそうな表情も見受けられる。
勇太は失笑しそうになるも抑え、明日からの献立は少し量を増やすかと考えた。
買い物は楓に任せているから、後でその趣旨を遠回しに伝えるとしよう。
「さて、僕はもう行くよ。洗い物、よろしくね」
「いえ、こんな事くらいしか出来ないので。いってらっしゃい、勇太さん」
そう言った楓に見送られ、勇太は玄関から出て行く。
けれど職場であるカーショップは家の目の前だから、通勤も何もないのだが。
◇
勇太が仕事に行った後、洗い物を済ませて一人の時間となった。
楓はこの後何をするか考える。
楓は、無職だ。
高校にも入らず住む町も変わり、特にアルバイトもしていない。
たまに勇太の店を手伝う事はするが、基本的に楓の出来る作業なども殆どない。
無職は、無力だ。
せめて稼げる術が在ったならば、勇太に全て負担させる事もないのだが。
などと考えても仕方ない、せいぜい出来る事をしようではないかと考えを改める。
今日は買い物に行くのだが、まだスーパーが開くには時間があった。
なので趣味であるドライブに出掛けるとしよう。
と言っても見えを張れるような車ではなくて、楓の愛車はスクーターだけれども。
一度リビングのソファーでくつろぎ、テレビも付けずにぼーっとする。
今日は何処へ行こうかとか、スーパーでは何を買おうかとか。
そんな事よりも何よりも、“今日は一段と干渉が強い”。
何がそうさせるのかまでは分からないが、楓には何処か嫌な予感も確かにあった。
だから迷っていたのだが、やはり出掛ける事にしよう。
そう決めた楓は、自分に問い掛けるように呟く。
「それでいいかな?嫌な感じはするけど、外に出ない訳にもいかないから」
誰の返事もないのは当然、今この家には他に誰もいないからだ。
だがその言葉をどう受け取ったのか、『影』は少しだけ揺らめきを見せた。
楓はぼーっとした眼差しで、宙に浮かぶそれをただ見つめている。
(影は私を離さない、私も影を離さない)
楓は知っている。
自分の視界に映る影は、自分の命運さえも握っているのだと。
真っ黒なままのテレビ画面越しに映る楓の表情は、何とも形容しがたい何処か歪んだ笑みのようであった――。
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