微睡みの子どもたち

栗菓子

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第1章 混沌の匂い

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熾烈な弱肉強食の時代・・後に暗黒時代といわれる世界暦66年。 

その時代の恩恵をあまなく享受し勝利の酒を浴びるように飲んでいる勝者も居れば、見るも悲惨な生涯を強いられる弱者の悲嘆と怨嗟に彩られた時代であった。

 真っ当な理性と心をもった人が生きづらいこともあった。理性を超えた狂気で途方もないことをしでかす狂人や奇人・偉人などで混沌の如く地獄と天国の釜から、ひょいと秩序もへったくれもなく星屑のようにばら撒かれたのだ。


 或る意味平等な世界であった。屑も星も等しく戦いへと向かう殺伐とした世界だった。

 煌めく英雄たち。 口を出すのもはばかれる狂人たち。 讃えられる偉人たち。 
 彼らが辿る壮絶な運命の行方とは畢竟は、被我の力量の差と運の境目にあった。


高級娼婦街も、安場のスラム街もやることは変わらない。食事と愚にもつかぬ話、熱に浮かされたような人々の情欲に満ちた淀んだ空気に支配された空間で彼らは束の間の享楽的な夢を紡いでいた。甲高い女の嬌声と男の獣のように獰猛なうめき声 律動する褥の営み。
違うのは、高級とみなされた女と食事と部屋だ。

男は爛々と目を光らせて、欲を放った無防備に眠っている女たちを見やった。
成程、顔は整っている。華やかである。体も良い。しかし、荒淫のため、目の下に隈や、肌が荒れている。このままだとあと数年で女は使い物にならなくなる。
それはスラムの女でも変わらない・・。よほど運のよい女だけが長生きする。男は目を閉じた。

性の空気と、窓から流れる冷気が入り混じって心地よい。 男は椅子に座ってしばしの快楽の微睡みに浸った。



こつこつとひっそりと高級娼婦街の裏のドアを叩いている音が聞こえた。はっと、宿の調理人は慌てて開けた。
匂いもきつくて汚らしい孤児が居た。しかし愛らしい顔をしている。なかなかの顔立ちでもう少しで売れ頃だ。
と宿の者らしく、彼はその子供の品定めをした。
孤児がくるのはわかっている。残飯集めだ。ここは、良い食べ物を売っているが、残飯も多い。
調理人も残飯の処理に思い悩んでいたため、孤児の残飯集めに乗ったのだ。

ほんの僅かな金でこの塵が消えるのなら容易い。それに孤児もなかなか愛らしい顔立ちをしている子どもがちらほらいるのだ。将来はここで稼ぐものになるかもしれない。
それとなく調理人は誘っている。孤児はあいまいな笑顔でかわしているが、中にはまんざらでもない子もいた。

あれは来るだろうと調理人は踏んでいる。なるほど確かにここは高いところだ。しかし余程器量と、運がなければ高額の借金で蜘蛛の網に引っかかった蝶のように喰われていく運命だ。

ここから出られないやつは多いんだよ・・。餓鬼・・。調理人は言わなかった。唯沈黙を守るのみだ。


孤児も薄々調理人の思惑を察して身震いする者もいる。だが、それがなんだというのだろう。弱者は長生きしない。
これは自然の摂理だ。
女の寿命は20才から30才までだった。 酷使された体と消耗する心・・。抵抗する力もなく虚ろな目をする人たちが多かった。ああ喰われる運命の人の目だ。調理人は悟った。
調理人は弱者ではない。しかし強者でもない。非常に危ういところにいるのだ。調理人はそういう境界の人間だった。調理人が生き延びる術は、人との共感を遮断し、必要か否かを判断することだった。好意や人並の感情をもつことを調理人は己に禁じた。唯、客に上手い飯を出すことに専念した。その生存の術は或る程度成功した。
寡黙だがいい飯をつくる調理師・・高級宿ではそれなりに重宝された。
なかには秋波をおくってくる娼婦もいるが、弱者に深く関わると食われる・・。調理人もその理を理解していたため、誘っても、誘いに乗ることはなかった。
巧妙な調理人の生き方・・。それは誰でも少しやっている事であった。


泡が立った。濁った黒い泡だ。ポコポコと小さい泡大きい泡が鍋の表面を占める。何十年も使い回された油は、茶色と、暗褐色に濁り切っており、異臭も発していた。しかし、それでも油物は作れる。
ここスラム街では、まともな食事は望めない。残飯や、腐りかけた肉やしなびた菜っぱなどだ。
餓鬼たちはいつもお腹を空かしている。異様なまでに腹は膨れあがり、骨と皮ばかりの肢体を露わにしている。よくある話よくある情景だ。

調理人が、油物を作るのも無理ない話だった。腐った肉と食べ物と泥水を飲んで食中毒をおこして死んだやつらと、餓死したやつら・・。食べても食べなくても危険なところだ。
油で腐った細菌を殺すしかない。現に調理人が売っている揚げ物はあまり死者は出ない。
1レエル※(10円)という破格の値段で売っている調理人の油物は人気だ。世捨て人の如く沈黙する男は不気味ながらも、生活の糧となる揚げ物を生み出すとスラム街で重宝された。

調理人が武骨な手で白い衣で肉と野菜、魚らしきものを覆い隠し、塗して 鍋に入れて焼けていく
音は心地よく、異臭に紛れてかすかに良い匂いもした。
無知な子どもたちは、本能のままに、なけなしのお金を大事に握りしめて出来上がるのを今か今かと待ちわびている。
反面、男には不気味な噂も飛び交っていた。
つきあった女を殺して豚のように解体して、その肉を子どもたちに食べさせているって話だ。
まあその話が本当であっても嘘であっても、ここではもうどうでもいいことであった。
少しまともなところが残っていた人間だけが恐れて避けたり逃げるのだ。
徹底的に搾取されつくした被支配者層、最下層の者は逃げることも思考できない。思考停止、現実把握が遮断されて、唯生きることしか考えられなくなるのだ。完全な物質主義者になる。視野も狭く、ほんの僅かな仕事と、食べ物や金や性のことしか考えられなくなる。

ここでは、まともではない人でなしばかりだった。餓鬼と鬼と人でなししかいない魑魅魍魎の街であった。
調理人は、今も、噂など眼中にないように、揚げ物をするのに熱心だ。
何の肉かもわからないものが調理人の手によってカリッと香ばしく揚げられた食べ物になって、子どもたちの口に入る。無邪気に美味しくほおばる子どもはその時だけ年相応の笑顔をみせる。
その瞬間だけ、無垢な子に戻るのだ。

香水の匂い。社交界で、派閥の争いの行方、国の存亡や、金の行方、裏切者や、得体の知れぬ陰謀
嫉妬、疑心暗鬼、慢心、虚栄、傲慢、怠惰、憤怒、色欲、暴食あらゆる悪徳が満ち溢れている国の上流世界では、表向き、一流の品格、貞淑、栄誉など尊ばれていたが、今はそれも形骸化して、裏が露骨であっても誰も文句を言わなかった。
これほど世界が荒廃しているのだ。偽りの美しさを取り繕っている余裕のある人たちはいなかった。
これほどまでに呆気なく人の生が蹂躙される時代はなかった。死への濃厚な気配と、恐怖との隣あわせの醜い欲への渇望に満ちた世界だった。
古代の皇后は、実の息子と近親相姦し、夫である皇帝を毒殺し、息子を皇帝にし、傀儡として、皇后は権力を握った。しかし、それに反発した子どもたちの反逆や、怠惰によって権力は衰退し、最後には、暗殺された。
その時皇后は息子の子を孕んでいたと噂されていた。
女王もまた、国を売って、強大な国家の権力者である男と婚姻して幸福になった。その裏には、売られた国の民の血に溢れていた。
やはり、それを赦さない民や貴族もいたらしい。最終的に女王は毒殺されたという。
年月には逆らえぬ老いへの恐怖か。聡明な女王であっても怯えていたらしい。

権力は、持つ者も不幸にする運命にあった。余程強い精神力や、運勢の持ち主でない限り制御するのも難しかったのだ。


醜い欲に満ちた反面、この世界ではないどこかを希求する者たちもいた。彼らは、絵を描いたり、何かを掘ったりして美しい彼岸の世界を求めた。
宗教の片鱗・・。それを整えた宗教者は、異端の教えを大衆に教化し、時の権力者を憤怒させ、処刑に至った。

醜い獣に喰われる処刑。 熊とも獅子とも分からないキメラに引き裂かれ喰われた宗教者は最後まで笑っていたという。

それに痛く感銘を受けた画家は、何かに取りつかれたように宗教画の原型となるものを描き続けた。

名もなき画家と、絵は歴史の闇に消えながらも、断片的に存続していた。

絵は突然、古い洞窟や、家の中から出てきた。それは古代の歴史の証となる絵であった。

後の歴史考証者は、これは重大な証となると察し、厳重な保管所となる館を求めた。 これがのちの博物館となる館であった。

理性を尊ぶアポロ神を信仰する集団は、過去の文明の遺物を保管し、何故文明は栄え滅亡したのか議論は尽きなかった。

聖と俗。 醜と美があらゆる対極となすものが混沌と交じり合って坩堝と化す場は、多くの生命と死を抱擁して時の流れで泡の如く、人類の前では聖地やあるいは穢れ地として出現した。


そんな中、調理人は唯、沈黙を守って、食べ物を待つ子供たちに唯与えることに専念した。

全てに恵まれし女・・リアという貴族階級に生まれたお嬢様にも悩みの種はあった。
目上の人 テイポリという伯父は、支配的で、このカンキナ諸島の暗部や、政治でさえも握っている権力者であった。

リアは、彼に従う端女のような者であった。結婚相手さえも彼の望む通りの伴侶だった。 リアは僅かに反抗じみた思いを抱いた。だが、代償に、己の安寧と、恵まれた暮らしを得られるのなら耐えられた。
そして、身勝手にもリアのような一見恵まれた環境に嫉妬する者は後を絶たない。
それは花にたかる蠅や蟻のような者だとリアは冷徹に見ている。
容姿は花のように麗しく、艶やかな金茶色と整った白い容貌、労働をしたことのない柔らかい手
磨きあげられた肢体 まさしく貴族階級の令嬢に相応しくリアは成長したのだ。
リアのような女は貴族として生まれ、貴族として政略の駒になる。 そのほうがリアにとって相応しいのだ。時折、胸に迫る寂寥と切迫感は恐らく脆弱な精神による不安感が増したものであろう。
リアはその度、家の調理人がつくるお菓子を食べた。
嗚呼・・落ち着くわ。 このお菓子は良いわ。 素朴な菓子。粉を甘い蜜と織り交ぜて焼いて精神を落ち着かせる香辛料も振りかける。
そして、身体の熱を冷ます作用のあるお茶を飲む。
リアはあどけなく焼き菓子を咀嚼した。大人の色香が増しながらも、あどけない容貌をしたリアは妖精のような女に成長した。
男を惑わしながらも、純潔を守る潔癖な処女神のような面を持っていた。

「ふう・・なんと卑しい者たちめ。わたくしに嫉妬ばかりして・・わたくしがどれほど苦労しているかも分からずに・・。わたくしが神だったらこの世から消してやったのに・・。」

リアの記憶で、無知で見境なく嫉妬を露わにしてリアを罵った蠅のような男どもを思い出して、憤懣やるかたないという様子で、リアは首をふった。

「わたくしが娼婦のようだと。何と穢らわしい。わたくしには貴族の血が流れ、貴族としての責務があるのよ。わたくしは忠実に仕え、使命を果たしているわ。わたくしはあのような蠅共に、侮蔑されるような者なの?いいえ。そうではない。リアよ。わたくしはリアなのよ。わたくしに惑わされたらそれはその男どもが弱いから悪いのよ。」

傲慢にもリアはそう断言した。リアには自分を侮辱した男どもに情けのかけらもなかった。
そしてそれは皮肉にも正しかった。
蠅のような男だとリアが評価した男たちは、なるほど、確かに気弱な女や男を恫喝してそれを正当化するのが上手い悪党でもあった。リアはその罠には引っかからなかった。
唯、見下げたような目をして、冷ややかに「頭は正気ですかしら。」と婉曲的に問いかえした。

それは貴族の戦いでもあった。上品そうに見えて、お互いを侮辱する手段であった。
リアの強さを見た蠅はしくじったというように唇を噛みしめた。どうやら弱い者ばかり相手にしていたらしい。リアの逆襲に怯んだ蠅は怯えて、冷や汗を流しながらリアとの会話を曖昧に終わらせた。
無様な。愚かな醜態にリアは思わず冷笑する。
侮るな。リアの血を・・。リアを形作るのは、血に塗れた権力闘争を生き延びた生粋の貴族の血と
業なのだ。
蠅であろうと容赦はしない。底光りする目でリアは敵を目で抹殺した。
再び、リアの輝かしい人生を妨害するのなら、今度こそリアは、その肉体ごと滅ぼすつもりだった。リアが一言いうだけで手を穢す忠実なる下僕は多かった。
リアは小さな女王だった。
カンキナ諸島は、豊かな土地と貧しい土地に分れる。リアの先祖は先見の目があって、狡猾な手腕で邪魔な敵対者を滅ぼしていった。それは悪魔とも呼ばれるようであったが、とんでもない。リアの先祖など可愛いものだ。現に禍根の元となりそうな敵対者の妻や子や親族は生きながら追放とか
流刑にした。生温い。古の苛烈な王は、禍根の元を絶やそうと敵対者一族全てを根絶やしにしたそうだ。リアは酷く納得している。
敗者は、容赦なくその命も血も肉も勝者に捧げられる生贄なのだ。リアには今の温情が理解できなかった。しかし、理性を信仰するアポロ神が台頭してきてから微妙に民や人の意識が変化してきた。慈悲や、温情を尊ぶようになったのだ。
皮肉にも、ここカンキナ諸島は、島ゆえの閉鎖的な環境にあり、ほとんどの人はお互いに助け合うことで生き延びてきた由来もある。それは奴隷や平民など下層階級がほとんどでもあった。
そこで、余計な流血を伴う闘争を豊かになるにつれて忌み嫌うようになったのは無理ないだろう。

リアの先祖は勝者だ。しかし下層階級は、敗北者ではない。戦っても、使われるだけの階級だ。
敗者はほどんとは歴史の闇へ消え去ったが、まだわずかに生き延びているだろう・・。
忌々しい事だ。だが敵をも予測し、受容しなければ真の女王とは言えないのだ。

リアは泰然と横になれる椅子に寄り掛かりながら、まだ見ぬ敵を待ち受けた。
周囲には、奴隷が異国の花の株を宮殿を覆い隠すように植林して、見る人の目を奪うような美しい光景を生み出した。海と島の風土にあった大輪の花の楽園・・。様々な原色や薄い色合いを競うように咲き誇る様はどこか誇らしくもある。
ふっとリアは大ぶりの白い花弁を誇っている花に身をよせて匂いを嗅いだ。正にむせ返る様な香気であり、眩暈がしそうだった。
花の王者 アネリアは清冽な白い花弁とえも言われる。上品でありながら艶めかしい香気を放つ両方の魅力を掛け備えていた。
リアの名前はこの花から名付けられたのだ。 この名と花はリアもいたく気に入っている。
ふふ・・。親も良い名を付けたものね。まさしくここの主に相応しい名だわ。

リアの精神は、調理人の創った菓子とお茶と花で正常に穏やかに保たれていた。
しかし、リアの本性は苛烈な何かが眠っている。
獰猛な獣は、裏切り者と、敵を探しさ迷っている。醜悪な涎を垂らしながら牙を剥くときを待ち構えている。
リアは目を伏せて、怪物を眠らせる・・。花の檻にリアはその獣を抱擁して閉じ込めて心地よい微睡みを与える。
いつか目が開かれる時を夢見て・・。



陽が強い光を放っている。暑い。水分補給をしたいなと思い、果物を割って、中には甘い果実と水
が湛えてあり、思う存分男たちは果実ごと飲み干した。
そして、また歩き続けると、匂いがかすかに漂った。
ふんふんと鼻を鳴らして、美味しそうな匂いについお腹を鳴らした・・。しまった。つい腹をさすると、愉快そうに笑い転げた悪友が言った。

「あはあああ・・。そんなに鳴るんだあ。お腹って・・。凄い。なにか食べてくればあ。」

「いや・・せっかく並んでるんだせ。この揚げ菓子パンは有名なんだよ。珍しく甘みもあってさ上品なのにコクがある味なんだ。」

「へえ・・有名な調理人なの?誰だい。作ったの。」
「いや・・それはそこまでわからないけどな・・。」
「ふうん。あんたの目的はパンなんだ・・。」

考えて見たら調理人って不思議だよね。だれが作ったのかも分からない食べ物目当てに長い長い行列に並ぶ群衆もいれば、創った張本人にはあまり興味を示さないし・・。

調理人は似たり寄ったりの服を着ている。ここカンナキ諸島では、調理人はほとんど同じ制服を着ている。
汚れてもいい頑丈なしかし清潔な制服だ。
しっかりした生地はほんの僅かの石鹸でも綺麗に洗えるようになっている。調理人の生き方に沿った服だ。
しかし顔だけは凡庸で奴隷よりも寡黙で特定の人は気持ちが悪がっていた。
本当に人間なのか?と疑念を抱いていたのだ。

どれも同じような服装で似たような顔立ちにも思えるからだ。 どこにでもいるのに何故かその素性は分からないからだ。
複製?お人形?のように非人間的な調理人は、我関せずに唯、調理をすることに専念している。

手早く、調理人は、叩いて丸めた菓子パンの種を伸ばし真中に切れ目を入れて生地パンをその中に
入れて一捩じりする。そうすると通常のパンより、味が染み込んでより揚げパンらしくなる。
揚げた後には、甘味のある蜜を絡める。香ばしい匂いがする。
ほらちょっとした高級品だ。

「うわあ・・待ったかいがあったよ。これは物凄い美味しい・・。そう思わないか・・友よ。」

「ふーん。なかなかの味ですねえ。いいですねえ。」

悪くないと友と呼ばれた者は、一口食べて感想をいった。なんだよ。こいつはいつも難癖つけてなかなか褒めないんだから。嗚呼でも割と気に入っているってことかそれは・・。

長年付き合っていると、悪友の思考や、ちょっと気難しいところもある面を把握していた。

はくはくと嬉しそうに無邪気に少しずつ食べた。食べると口内にふあっと柔らかくカリッとした揚げ菓子パンの感触と熱さ、絶妙な香辛料と蜜のハーモニーの複雑な味が舌全体に広がる。 美味しい美味しい。凄いもっと食べたい。

これは病みつきになりそうだと男は確信した。これなら並んだ価値は或る。


悪友がとんとんと肩を叩いた。なんだというんだ。
「お前なあ・・今度はなんだ。」
少し腹が立ちながら悪友に顔を向けると、見ろよあれと指さした。
悪友の指さしたところへ目を向けると、揚げパンを大量に買い占めている体格が異様に大きい男がいた。
とても大きいがそれだけじゃない。どこか威圧感があってはっと硬直しそうだった。

「あれさあ・・もしかしたら戦闘奴隷に関する者かもしれないよ。あの体は戦闘に特化した身体だよ。どこか異様だろう。」

少し、悪友は眉を寄せた・・。戦闘奴隷など関する者を悪友は忌避している。
猛獣のような威圧感もあるが、それ以上に染みついた残虐な戦闘の匂いがするのだ。
血で血を洗うような地獄の匂い・・。そういうやつらはどこか奥底で壊れて居たり、濁った眼をしたり、焦点が合わない目をしている。

一歩間違えれば何をしてかすかわからない人種だ。 敏感に悪友は気づいて嫌厭するようになった。悪友の感は鋭い。
その感は男も信じていた。
なるほど確かに、目の奥が光が無い。生ける屍のようだ。仲間のために買いに来たのだろうか?
男たちなどひとたまりもないだろう。その重い存在に男はぞっとなり、後すざった。
不吉だ。 明確に本能が語っていた。
黒い亡霊のような大男は、信じがたいことに足音があまりしなかった。なんだそれは?
本当に生きているのか?首をひねりながらも大男はふらりと、大量の菓子パンを入れた袋を抱えて
悠々と、目的地へと向かった。
コロッセウム・・戦闘奴隷たちがいる闘技場だ。円形の石垣でできた城は内部の闘士たちの血で
染みついていた。匂いも熱気も異常なぐらいあった。本来なら異臭でくらむだろうが、コロッセウムは人々を闘志と血に駆り立てられる魔力があった。

時の皇帝は、民衆と、時代の要請に応じてこのコロッセウムを作ったのだ。なるほど野蛮で悍ましい面もあるが、しかし闘志と活気を生み出す場でもあった。

「あのような不吉なものを纏っている男だ・・余程殺したのだろうな・・。業はしみついている。」
嫌そうに悪友は呟いた。もっともだと男は頷いた。
そのような場は、あんな幽鬼のような者も生み出すのだ。うんざりとした。うっかり人を踏み外したケダモノのようなやつらに殺されたくない。

素晴らしいとは思うが、早くコロッセウムが無くなってほしいと内心善良で小心な男は思わずにはいられなかった。コロッセウムは理性を解き放った獣性や、悍ましいなにかを生み出す母体のように思えた。

嗚呼アポロ神よ・・理性の神よ・貴方が早くこの地にも現れてあのような男を生み出さないようにしてくれないものかと思わず男は天を仰いだ。

このように、コロッセウムは賛否両論あったが、民衆の人気もあり、100年は続いた。
コロッセウムで華やかに活躍する戦闘奴隷は多かったが、ほとんどがこの闘技場で死亡した。
所詮は奴隷だ。 ここで飼われ死ぬ定めにあった。勝者のみが生き残るシンプルな理に満ちた
世界でもある。
僅かだが生き延びて奴隷から解放された者達は、幸運の人と呼ばれた。

その僅かな人ターニャ クライ ルドラ・・彼らにはある共通点があった。
素直で、正直であり、己の運命を享受する能力があり、今なすべきことを把握し、生き延びるために修行と試練を積み重ねていた。彼らは地獄の底でも腐ることはなく唯、生きることに一生懸命だった。勿論周囲の奴隷仲間にも心を閉ざすことはなく常に、どうやったら勝てるか、何故負けたのか戦略を話しあった。彼らの心は青空のように開放的で無垢で心地よいものであった。
その魅力に惹かれた奴隷たちは、彼らの影響で生きることを諦めずに果敢に立ち向かうようになった。
そしてターニャは先見の目もあり、ほんの僅か未来のために準備することもあった。
ターニャは女のため、月のものがある。この時は不安定で弱体化する。
その弱点を補うように、彼女は疼痛を抑える薬を所望し、なるべく制御できるように肉体と精神を鍛練した。
努力の甲斐があってターニャは月のものがあっても、辛うじて敵を打ち倒すことができた。
ターニャは短剣使いだった。ターニャにとっては時間が重要だった。長引けば長引くほど女の身体の持久力の弱さが目立つ。
ターニャはどんな隙も見逃さず死角を狙って、急所を攻撃した。ターニャの強みは瞬発力と急所を知り尽くしていることだ。

「ごめんね・・。あたし。死にたくないんだ。」

ぽつりとターニャは呟いて生きると目を強くして己の弱さを排除した。
敵の断末魔が聞こえても、血しぶきがターニャの柔らかい頬にかかってもターニャは唯生きることを考えて無造作に短剣を敵にかけた。
【嗚呼目が痛いわ、嫌だわ。あたしにそんな痛い目にあわせるなんで・・酷い人だわ・・。でも
向こうも苦しみながら死んだから良しとしてあげるわ】
ターニャはふっと笑った。無邪気で無垢な笑み。残酷な女神の笑みだ。
それに魅了されたものは後を絶たない。

ターニャにはファンが多かった。食べ物や、宝石、金貨など 稀に奴隷小屋から一時解放され
貴族の家に招かれることもあった。
ターニャは素直に感謝をいった。しかしどこかで線引きをしていた。奴隷は所詮奴隷。きまぐれで
なにかあるか分からない身だ。
ターニャにはその分別や思慮もあった。

それを見抜いた老いた貴族は目を眇めた。野心ある老いた貴族は何を思ったか、ターニャを奴隷から養女へと迎えた。表向きは夢のような出世と思うだろうが、汚い泥を嫌と言うほど喰らった者たちはそんなに甘いものじゃないと思い知っている。
恐らく暗殺者としての捨て駒として使われるかもしれない。
ターニャにとってはどうでもいいことだった。ターニャには未来も過去もない。唯今を生き、試練を乗り越えることしか考えていなかった。
ターニャは、貴族としての嗜みと、教養、容姿も磨かれ、ある程度は普通の貴族の娘とはわからないように溶け込んでいった。しかし手の剣の蛸や、足や肢体の引き締まった闘士としての筋肉がそれを裏切っていた。勘が鋭い者や、観察力がある者ならわかっただろう。

物好きな。何を考えておられるのか?
嘲笑とともに、真実を見破っている上の人たちは見下げた目でターニャを見ていた。
ターニャはなんだか暗い暗い穴の底で彼らを見ている気分だった。
光はあるが、ターニャはそこに行きたくなかった。うんざりするような腐臭も感じたからだ。

ターニャは銅貨をもってじっと見つめた。
表には見知らぬ女神の顔が乗っている。裏には端正な男神の顔が乗っている。
何かしら? どうやら時の皇帝に似せた男神らしい。
ふん・・。どうせ。何倍も美しくしているに違いない。
本人は目も当てられぬ醜男かもしれないわ。それともみっともなく肥えているのかしら?貴族だもの。暴飲暴食はよくあることだわ。
ターニャは、女神の名が分からなかった。何を司るのもわからなかった。
だから勝手にターニャは祈った。
嗚呼女神様。あたしは幸運を祈ります。今まで運だけで生きてきた。あたしのような無知な女は運だけが頼り。
女神よ。あなたの顔が出たらあたしは止めましょう。この奴隷競技場で生きていく運命を享受します。でも裏の男神が出たらあたしは養女となりましょう。
ターニャは目をしばらく伏せて、ピーンと硬貨を高く上げてクルクルと硬貨は回っていった。硬貨が落ちてもターニャは無視した。しばらく目を閉じて、そっとターニャは目を開けた。
その硬貨をみると、ターニャははっと息を呑んだ。
裏だった。端正な男神だった。嗚呼女神よ。養女になれと・・あたしに新しい道を歩めと・・。
殺されるかもしれない・・。だがこれがターニャの選んだ道なのだ。
ターニャは覚悟を決めた。
落ちた硬貨を見ながらターニャは拾わずに踵を返した。
しばらく歩いていると甘い匂いがした。なんだこれは?
「ターニャ!ターニャ!有名なお菓子よ!やっと来たのよ。一緒に食べよう!」
親しい戦友アルマが甘い匂いがする菓子パンを持っていた。
ああ・・これか。
アルマ・・親友の笑顔と甘い匂い・・ターニャにとって生涯忘れえぬ記憶となった。










































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