水底の恋 天上の花

栗菓子

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第1章 よく或る娼婦の話

ある娼婦の恋の話

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昔々、或るありふれた娼婦がいました。
娼婦はあまり恵まれず、両親運も悪く、借金のかたに娼館に売られた時も、女にとっては安堵するしかなかったのです。
これで、実の父親にも無料の娼婦として扱われずに、殴られもしない。実の母親に若い女として嫉妬されることもないからです。両親は、親ではなく最悪の搾取者でした。
ここよりはましだと思っていたのです。既に、女は最悪の人生を歩んでいました。
娼婦は子どものころから既に両親によって娼婦として育てられました。
粗悪で最低な親から人生とはそんなものだと思い知らされていました。彼女は上手く世界を遮断して鈍感に生きる術を身につけました。

それでも娼館で働いているとき、彼女は醜くはないが地味な容姿をしていました。そんな彼女にも若いというだけで妬む年季の入った娼婦たちに水をかけられたり、煙草の火を腕につけられそうになった時には閉口しました。

何故、女は妬むのか?
醜い顔をしている老婆がまだ女の顔をしているのにはぞっと戦慄しました。
彼女らは貪欲で満たされることを知りませんでした。
人格も心も既に男や大人たちから痛めつけられ、崩壊していました。なのに肉体は本能は生きようと足掻き続けています。そんな様を見る度に女は娼婦は嗚呼、生きるって・・何で惨たらしいんだろうと思いました。


男の本性や、醜い心、たくさん汚い心をこれでもかという位、娼婦は娼館で見せつけられました。
女の醜悪さと悲惨さ、悲哀もたくさん見てきました。でもいつかは終わりが来るのだと娼婦は最後まで生きてみようと娼館で働き続けました。

そんなひっそりとした娼婦にも運命の転機が訪れました。

気軽に求愛をした気障な色男がいたのです。華やかな花達には食傷気味だったので、口直しに地味な花を食べて気分転換をしようとしたのでしょう。

でも地味な娼婦にとっては、これが初めての恋かもしれません。手軽な女と思われても良かったのです。
一生を娼館で消耗して過ごすよりは、何もしないよりましだったからです。
恋とはどのようなものかと男の思惑に気づいていても、その誘惑に乗りました。だって既に娼婦は女は現実の醜悪さを嫌というほど味わってきたのですから。弱者は弱者を痛めつけます。

女も怖くて強い女に逆らえずいじめに加担したことがあります。
女も決して綺麗なものではありません。唯、夢を見たかったのです。

男は幸いにも顔だけは良かった。女は辛い現実から逃れるように男の求愛を受けました。
男といるとどきどきしました。これが恋の鼓動だろうかと女は自分の体を客観的に把握しました。

女は知らないけど、無意識に女は男の前だけに質の悪い娼婦みたいに妖艶に誘いかけました。
その時だけ地味な女は、男の前だけに誰よりも妖艶な娼婦になりました。

柔らかな白い乳房。まだ若い肌。高級娼婦にも劣らぬなまめかしい姿態。地味な顔が、時折誰よりも美しく可愛く
妖艶に見えるように、無意識に本能で男にだけ見せました。

初めてで最後の恋。女はそう決めていたので女としての本能、娼婦としての才能を最大限に無意識に恋人に披露しました。
好いた男には、女の一番良いところを見せたい。地味な女はそういう本能が強かったのです。

男は始めは軽侮していた女が、すこぶる良い女だと気づき、そのギャップに惹かれ、愛欲に溺れました。
女は男にとって不可思議な女であり、地味でとりえのない女が時折誰よりも妖艶で可愛く見える時があって、まるで
魔女に化かされているみたいだなと自分でも思いながら柔らかな身体にむしゃぶりつきました。

くすりと女は笑いました。性急な男を笑いながら受けいれる様子は、手慣れた娼婦そのものでした。

少女のような顔をみせるときもあれば、手慣れた女の顔も見せる。 ここまで多面性を見せる女はいないなと数えきれない女を抱いた男でさえも翻弄されました。

時折、女の細首を締めたら、誰とも寝なくなるなと子どものように残酷な心が芽生えました。
男にもまだ子供のような独占欲が残っていたようです。
女をたくさん抱いて女を知ったと思っている男でさえも不可思議な感情が芽生えました。
執着と愛着。恋慕。男は初恋のような貴婦人に抱いた淡い思いより、女には激しい独占欲と欲望が強い思いでした。

この女とはずっと付き合うかもしれない。戯れに抱いた女に溺れた男は、自分を自嘲しながらも、ずっと居たいと思うようになった。

しかし、数年後男にとっては女の裏切りがあった。女がかすかな声で「あの・・お父様がいらっしゃって別れてくれ
と言われました。ですので・・その私たちはもう・・」

俯いて震えながら別れの言葉を告げた女を男は冷ややかに見つめた。
男の父親は貴族階級で、それなりに名のしれた紳士だった。
放蕩息子がこれ以上遊びをするぐらいなら、政略結婚させようと図ったようです。それには女との交際は邪魔だったようです。

女は嗚呼潮時だと思ったようです。親の心にはかなわない。女はもう若くはありません。そろそろ女の賞味期限が過ぎて枯れる寸前です。女は男にだけは女の一番良いところを見せたかった。嫉妬や醜悪な老婆の女の顔だけは見せたく無かった。女の秘めた心です。
男には未来がある。しかし女にはないのだ。枯れるだけだ。
既に女は悟っていた。
男には感謝していた。戯れであろうと女の中で一番輝いていたのは男と交際した時だけだ。
その時だけ女も光の中にいるようだった。
その思い出だけを大事にしようと女は決めて男の父親の願いを叶えることにした。
彼の前だけは良い女でいたい。

女は気づかなかった。男のこどものような執着。愛欲。いつの間にか女が思う以上に男は女に溺れ執着していたことに気づかなかった。だって地味なとりえのない女。もう若くない女がいつまでもこの色男を繋ぎとめるわけがないではないか。女は自分を過小評価していた。

女は男にとって運命の女だったということに気づかなかった。
いつの間にか男は狂気に満ちていた。親に言われた位で別れる弱い女。情けないどうしようもない女。愚劣な女。
淫売。その身体を別れたら別の男にも曝け出すのか?許せない。

男は貴族特有の冷酷さで、裏切りにも近い女の行動を罰しようと思った。

男は黙って別れる寸前、女の背中に許さないよと声をかけた。
まるで地底の声のように冷たくて女はぞっとした。振り向きたいが振り向けなかった。
何か男は怖い人になってしまった。

きっと、女に見せる男の顔は別の顔だったのかもしれない。本当はとても怖い人だったのでは・・

女はそう感じた。ひやりと首に纏いつく何かを感じた。

女は知らないうちに最悪の選択をしてしまったのかもしれない。男にとっても良い事だと思ったが・・

数日後、女は娼館の女将によって、悪質な客に売られた。
女でも知っている。女を嬲って壊すのか好きな客だ。異常性癖を持った人だ。
蒼白な顔で女は女将を見た。女将は無表情で、あんたが悪いんだよ。あの人を裏切るからあんたは罰を受けるんだ。
あの人・・恋人の事?
女は混乱した。だって恋人の父親が言ったではないか。彼には将来があるって・・私にはないから諦めて別れることにしたのに・・その理由は女将にも伝えたはずだ。
彼女は情けない女や哀れな女を見るように女を見た。
あんたは分かっていない。男にとっては確かにあんたは戯れに遊んだ女だ。でも女が別れを言っちゃいけない。
男のほうが力もある。権力もある。幾ら男の親に言われたからってはいはいとあんたは頷くのかい。あんたは男のどうしようもない心がわかっていない。それは男の自尊心を傷つける行為だよ。増してや、あの男は恵まれた血と地位を持っている。そんなやつにとってはあんたの別れは裏切りに等しい行為だ。あんたは男が飽きるまで待てば良かったんだよ。

あんたは男を解っていない。なのにあんたは男と子どものような恋をした。
その結果はこれだよ。
あんたは、自分から最悪の結果を引いたんだ。あんたは愚かな愚かな女だ。
哀れみながら女将はさっさと連れていってと男に命じた。

悪質な客に髪を引きずられながら、女は更なる奈落に落ちたことを感じた。

女は死ぬまで悪質な客に嬲られた。これ以上の地獄はないと思っていたが、まだあったとは・・と女は他人事のように思った。
「もう許して・・」何度も女は懇願した。だれに?悪質な男に?女将に?こんな罰を与えた恋人に?

懇願は聞き届けられることはなかった。
女は半殺しの目にあった。息も絶え絶えになったごろ、かつての元恋人が無表情に無惨な女を見た。
とても冷徹な顔だった。無表情で怖い顔。嗚呼これが彼の本性なんだ。
私は大馬鹿だ。 内心侮蔑している女から別れをいったら男はこうなるんだ。
女はもはや生贄に過ぎなかった。戯れに愛され、罰される浅はかな愚劣な女に過ぎなかった。

今まざまざと女は自分の境遇を把握した。
半ば意識のない女は人影のない崖まで連れていかれた。嗚呼突き落とされるんだ。
女はもう何も言えなかった。情けない女。愚かな女として殺されるんだ。

そこまで男は怖い人だったとは・・
恋は甘くはなかった。甘くて怖かった。

女は最後にかつての恋人を見ながら落ちて行った・・

恋人の顔が良く見えなかった。最後に彼はどんな顔をしたのか。嘲笑したのだろうか?
下賤な女が、対等な者として別れをいったからだろうか?
女にはもう何も分からなかった。

深い深い海の底に突き落とされて意識は闇の中に消えた。


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