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第40話・徒花の実②
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不機嫌に踏み鳴らされる階段の音に、私たちはハッと目を覚ました。その主が誰かを察して、慌てて身なりを整える。そしてすぐさま、予想したとおりに女将さんが寝床の襖を開け放って、吐き捨てた。
「この商売も、もうじき潮時だよ。あんたたち、今までご苦労だったね」
と、床に叩きつけたのは徴兵検査の通知だった。
幸か不幸か前科がないし、家長でなければ家督も継がない、そもそも私たちには家がないから、免除されない。高額な代人料など、細々と営む陰間茶屋には支払えない。
山吹兄さんは仕事に励んだ甲斐あって、痔が酷いからと徴兵検査に落ちていた。
桔梗兄さんも、別れを惜しんだ後家と添い遂げることになったとかで、家長の地位を手にして兵役を免れた。
逃げられなかったのは、私ひとりだけだった。
入営は年明けで、それまでは山吹兄さんと茶屋を支えていたが、それもあっという間に過ぎ去った。
山吹兄さんは女将さんの家に身を寄せて、ひとりの男娼として働いて、恩を返していくそうだ。
私の入営をきっかけに、江戸の日陰に咲き誇った陰間茶屋は、跡形もなく消えた。
女将さんと山吹兄さんに別れを告げて、練兵場への道のりを踏みしめる。そのたびに私の不安は膨れ上がった。新政府と同じで、帝国陸軍は薩長を中心に作られている。上野で戦った東征軍の、そのうちの何人かは偉くなっていると思われたからだ。
東征軍を斬った二回とも、女の格好をしていた。だから、きっと、大丈夫。そう自分に言い聞かせていたが、募る不安はどうすることも出来なかった。
私を知っている上官がいたら、ただでは済まないはずだ。男だらけの陸軍だ、いざとなったら陰間の本領を発揮しようと、密かに後ろを意識した。
訛りの強い指示に従い整列をして訓示を受けて、均等に班分けするからと、ひとりひとり名前を呼ばれる。
あやめ、ではない戸籍の私の名前を待って、ただひたすら待って、最後の最後にようやく呼ばれた。
こんなに待たされるなんて、やはり私を知る上官の嫌がらせなのか、それともただの偶然で末尾の班に相応しい上官なのか。そう悶々とする私の心が、一瞬にして晴れ渡った。
「私が、君たちを預かることになった。徴兵ということもあり、様々な思いがあるだろうが、それは私にも理解が出来る。何せ、上野から函館まで政府に楯突いたうちの、ひとりだからだ。本来ならばここには立てない死に損ないの私が、このような地位を賜ったのは、そういった意味があるのだろう。もし思いや考えがあるなら、遠慮なく私に言ってくれ。ともに新しい時代へと、進んでいこうではないか」
軍隊には似つかわしくない穏やかな訓示を述べたのは、私が愛した彼だった。
互いに敬礼をして視線を交わすと、その温かさが胸の奥まで沁み渡って、くすぐったい。
ひと通りのことが終わって散開するなり、弾む胸を押さえ込み、踊る足取りを地に足つけて、上官となった彼のもとへ歩み寄る。そして胸に秘めていた想いに霞をかけて、少し大きくなった彼に伝えた。
「争いのない世を祈念したく思います。近傍の神社仏閣を存じませんので、案内をしてくださいませんでしょうか」
軍人らしからぬ申し出を、軍人らしい態度でしてきた私に、彼は噛み殺した苦笑いを口の端からこぼして、はにかんでいた。
「それは妙案。しかし私も、この辺りに明るくなくてな。君の願いに相応しいかはわからないが、不忍池の弁天堂ではどうだろうか」
「ありがとうございます。とても礼には足りませんが、私が賽銭を出しますので、どうかご一緒に願います」
不忍池で交わした約束を、ようやく果たせるときがきた。再開が叶ったこの瞬間は偶然ではなく奇跡だと、運命なのだと確信していた。
私たちは練兵場をあとにして、人目を盗んで手を重ね合わせて、不忍池へと並んで向かった。
「この商売も、もうじき潮時だよ。あんたたち、今までご苦労だったね」
と、床に叩きつけたのは徴兵検査の通知だった。
幸か不幸か前科がないし、家長でなければ家督も継がない、そもそも私たちには家がないから、免除されない。高額な代人料など、細々と営む陰間茶屋には支払えない。
山吹兄さんは仕事に励んだ甲斐あって、痔が酷いからと徴兵検査に落ちていた。
桔梗兄さんも、別れを惜しんだ後家と添い遂げることになったとかで、家長の地位を手にして兵役を免れた。
逃げられなかったのは、私ひとりだけだった。
入営は年明けで、それまでは山吹兄さんと茶屋を支えていたが、それもあっという間に過ぎ去った。
山吹兄さんは女将さんの家に身を寄せて、ひとりの男娼として働いて、恩を返していくそうだ。
私の入営をきっかけに、江戸の日陰に咲き誇った陰間茶屋は、跡形もなく消えた。
女将さんと山吹兄さんに別れを告げて、練兵場への道のりを踏みしめる。そのたびに私の不安は膨れ上がった。新政府と同じで、帝国陸軍は薩長を中心に作られている。上野で戦った東征軍の、そのうちの何人かは偉くなっていると思われたからだ。
東征軍を斬った二回とも、女の格好をしていた。だから、きっと、大丈夫。そう自分に言い聞かせていたが、募る不安はどうすることも出来なかった。
私を知っている上官がいたら、ただでは済まないはずだ。男だらけの陸軍だ、いざとなったら陰間の本領を発揮しようと、密かに後ろを意識した。
訛りの強い指示に従い整列をして訓示を受けて、均等に班分けするからと、ひとりひとり名前を呼ばれる。
あやめ、ではない戸籍の私の名前を待って、ただひたすら待って、最後の最後にようやく呼ばれた。
こんなに待たされるなんて、やはり私を知る上官の嫌がらせなのか、それともただの偶然で末尾の班に相応しい上官なのか。そう悶々とする私の心が、一瞬にして晴れ渡った。
「私が、君たちを預かることになった。徴兵ということもあり、様々な思いがあるだろうが、それは私にも理解が出来る。何せ、上野から函館まで政府に楯突いたうちの、ひとりだからだ。本来ならばここには立てない死に損ないの私が、このような地位を賜ったのは、そういった意味があるのだろう。もし思いや考えがあるなら、遠慮なく私に言ってくれ。ともに新しい時代へと、進んでいこうではないか」
軍隊には似つかわしくない穏やかな訓示を述べたのは、私が愛した彼だった。
互いに敬礼をして視線を交わすと、その温かさが胸の奥まで沁み渡って、くすぐったい。
ひと通りのことが終わって散開するなり、弾む胸を押さえ込み、踊る足取りを地に足つけて、上官となった彼のもとへ歩み寄る。そして胸に秘めていた想いに霞をかけて、少し大きくなった彼に伝えた。
「争いのない世を祈念したく思います。近傍の神社仏閣を存じませんので、案内をしてくださいませんでしょうか」
軍人らしからぬ申し出を、軍人らしい態度でしてきた私に、彼は噛み殺した苦笑いを口の端からこぼして、はにかんでいた。
「それは妙案。しかし私も、この辺りに明るくなくてな。君の願いに相応しいかはわからないが、不忍池の弁天堂ではどうだろうか」
「ありがとうございます。とても礼には足りませんが、私が賽銭を出しますので、どうかご一緒に願います」
不忍池で交わした約束を、ようやく果たせるときがきた。再開が叶ったこの瞬間は偶然ではなく奇跡だと、運命なのだと確信していた。
私たちは練兵場をあとにして、人目を盗んで手を重ね合わせて、不忍池へと並んで向かった。
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