ひとひらの花びらが

山口 実徳

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第31話・本郷①

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 医者が目を丸くするのも、無理はない。明日から仕事だから女の気分に変えなければと、女将さんに頼み込んで島田に結ってもらい、薄化粧をして町娘に扮したからだ。
「いやはや、見違えたな。っと、見惚れている場合ではない。痛めた筋を診ようじゃないか」
 手首から肘、足首から膝を診てもらったが、これといった異常はない。着物を脱いで痕がないか診てもらったが、幸いなことに残っていない。

 明日から陰間として働ける。そう素直に喜ぶと、もし陰間ではいられなくなったらと、訪れなかった明日が思い浮かんだ。
 年季が明けていないから、また人買いに売られるんだろうか。見た目に気を配り、入るように広げた身体、力仕事には向いていない。誰にも買われず、棄てられるのかも知れない。

 もしそうなったら、彼は拾ってくれるのかな。
 男同士だから輿入れは出来ないけれど、小姓なら家に入れるのかな。
 医者に礼を告げてから叶わぬ夢を見続けて、彼が待っている不忍池へと向かっていった。

 池の畔で、蓮の葉をぼんやり眺める待ち人の背中が目に入る。そっと後ろから近づいてみたが、すぐに気配を悟られた。が、目当ての人が見つからないと、辺りをキョロキョロと見回していた。
「お待たせ、驚いた?」
「あっ、今日は……その格好か」
 娘に扮しているとは思いもよらず、彼は目を丸くしてから吹き出る汗を立ち上らせた。

 うつむく真っ赤な顔を覗き込み、悪戯っぽい笑みを送った。すると彼は顔を逸らしたが、それでも目だけは私だけを見つめていた。
「どうだい?」
「ああ、よく似合う。しかし何故……」
「明日から仕事なんだ。こうやって出歩けるのは、当分ないよ……」

 呟いた事実に向き合い、互いの表情が曇る。今日も金剛が見張っているが、逃げ出さなければ自由が保証されている。しかし明日からは茶屋と料理屋の往復のみで、そぞろ歩きはもちろんのこと逢引などは年季が明けるまで許されない。
 どんよりと塞いだ気持ちに、彼がわずかな光明を差した。
「また逢える日まで心に残る思い出を、今日一日で作ろうではないか」
 私は、力いっぱい頷いた。年季が明けるまで逢えないかも知れない、だからこそ今日という日の限られた時間を、生涯の思い出にするのだと。

 すると彼は手を引いて、不忍池の真ん中に浮かぶ弁天堂へと渡った。池に映ったふたりの姿は許婚いいなづけ夫婦めおとに見えるだろうか、そんなことがつい過ぎり足が軽やかに弾んでしまう。
 住職様と訪れた折、弁天様に彼との再会をお願いしたな。それがこうして叶ったのだから、ちゃんとお礼を伝えないと。
「どうした? 含み笑いなどして」
「ううん、何でもないよ。あっ……ごめん、お賽銭を貸してくれる?」
「ああ、そうか、そうだったな。気長に待つよ」

 私の境遇を察した彼は、またの再会を願って小銭を貸した。それに気づかされた私は、差し出された手にそっと手を重ね合わせた。
 私は、この人が好きだ。心の底から、この人が大好きだ。今日という日のこの瞬間に、未来のはてまで続く永遠を、心から願った。
「ありがとう、必ず返す」
「うん、待っている。さぁ、願いを伝えよう」

 ふたり並んで賽銭を投げ、弁天様に願いを託す。
 私たちが、末永く一緒にいられますように──。
 そのために、彼が生き長らえますように……。
 強く強く願った末に顔を上げたが、彼はまだ手を合わせていた。きっと彰義隊の勝利も、公方様の世が戻ることも祈っているのだろう。
 ぷはっと彼は顔を上げ、祈りの余韻を残した笑みを浮かべて尋ねた。

「待たせた、どこへ行こうか」
 そう尋ねられても籠の鳥には、この界隈は茶屋と料理屋の道すがらか、谷中の住職様の寺しかわからない。困っていると、彼も一緒に悩んでしまった。
「雁鍋屋は……駄目か、明日から仕事だ。隊の顔が利く料理屋で、君が行けるところがあるだろうか」
「いいよ、私が食べなきゃいいんだから」
「いや、行けば食べさせたくなってしまう」

 残りわずかな時間に気がはやる中、私が苦し紛れに出した答えは、これだった。
「住職様は、また庫裏くりを貸してくれるかな」
 これには彼も眉をひそめて空の端に目をやった。私が愛を伝える術は身体を重ねるだけだから、これしか思いつかない。
「話すだけならば、貸してくれよう」
 そう言った彼の袖を引いて、身を寄せ口元を耳に寄せ、誰にも聞かれぬようにと囁いた。

「……したくなっちゃうよ……」
「そのときは……そのときだ」
 彼は固くした顔を真っ赤にした。まんざらではないと知り、私は身を寄せたまま腕を絡めてしまう。
 それでは十日前と同じ道だと、弁天堂から本郷へ渡っていった。弾む気持ちが視線を上げると、正面から物々しい気配を感じて、ふたりの空気が凍ったように張り詰める。

「加賀藩上屋敷だ、東征軍の陣となるだろう」
 彰義隊が拠点としている寛永寺の森とは、不忍池を挟んだ向かい側。戦となれば、彼が言うとおりになるのは明らかだ。
 一触即発、彰義隊と東征軍の緊張感は、そこまで高まっていた。
 人目を憚り裏道から根津に抜けよう、坂を登れば目指す谷中。そう踏み出したふたりの脚を、厳しい声が引き止めた。
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