ひとひらの花びらが

山口 実徳

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第27話・そぞろ歩き①

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 日の高いうちにまた来なさい、と医者に言われたので朝餉のあと、男の格好をして茶屋を出た。この格好なら襲う輩もいないだろうから、金剛の世話にならなくて済む。解いた髪を後ろで縛る、それだけだから久しぶりに頭が軽い。
 そんな格好なものだから、医者は誰だかわからずポカンと間抜けな顔をした。
「ああ、昨日の晩にきた子だね? 痕になる傷などないようだったが、改めて診させてもらおうか」

 着物を脱いで、生まれたままの姿になる。医者は少し驚いていたが、商売柄当然なのだと思い直して横になるよう布団を指した。
 寝っ転がって、身体をくまなく診てもらう。客とは見る目が違うから、ほんの少し恥ずかしい。それが変な気分だな、床入とこいりのほうが恥ずかしいだろうにと笑えてしまう。
「触ってもいないのに、くすぐったいのか?」
「違うよ、陰間って変な仕事だなって思っただけ」

 そんなことはちっとも気にせず、表も裏も脇から内股までも、念のためにと商売道具のところも医者は診た。悪くないよな、まさか入れやしないよな、と痛いくらいに胸が鳴る。
「もういい、直りなさい」
 身体を起こして着物を羽織ると、真正面に医者が座って感想のような結果を述べた。

「骨は折れていない。外の傷やあざはないが、ところどころ筋が傷んでいる。咄嗟に受け身を取ったようだが、何かにぶつかったんだね? 十日ほど休みをもらうといい、女将宛の文をつけよう」
 傷や痣がない、身体を売る身としては、それだけで十分だった。ほっと安堵を漏らしていると、医者は別な心配があると、怪訝に顔を歪めていった。

「商売だから仕方ないが、だいぶ広がっているね。日頃、不都合はないかい?」
「気をつけてるから、ないよ。……切れてない?」
「それは大事ない、でも無理はいけないよ。通和散は足りているかい?」
「今はお金がないから、女将さんに聞いておくよ」

 肩透かしを食らった医者に礼を告げ、また十日後に来ると約束をつけてあとにする。しかし髪の軽さのせいなのか、それとも暇が出来たせいだろうか、足取りの軽さに誘われて、そぞろ歩きに興じようと不忍池を行く。
 男の格好で、仕事ではない。気兼ねなく街を歩くのは、いつ以来だろうかと弁天堂を遠目に眺める。
 まったく、仕事の最中に馬鹿なお願いをしたものだ。と住職様に買い切られた日を思い出し、ひとりで自嘲をふふっと漏らした。

「今日は男の格好なのか?」

 求めた声が唐突に、耳から胸を掴み取る。驚きのあまり咄嗟に身体を翻したが、傷んだ筋が身体の軸を狂わせて、背中が肩が不忍池へと──
「おっと! 危ないところだった。池に真っ逆さまでは、水も滴るとはならぬだろうな」
 彼は掴んだ手をぐいと引き寄せ、身体をハシッと抱きとめた。早鐘を押さえるために視線を落としてみたものの、厚みのある胸板が凄く近くて息苦しいほど胸を打つ。

 断ち切るように身体を剥がし、顔が見えぬように深々と頭を下げる。どうか早く立ち去ってくれ、と痛む胸の奥底で呟いた。
「お武家様、ありがとうございました」
「この姿ならば、見紛うことない。互いに剣の修行に勤しんだ日々を、忘れたとは言わせぬぞ」
「覚えておりません、人違いです」
「突然いなくなった君に、今一度会いたいと願っていたのだ!」

 不忍池に響き渡った必死な叫びに、もう嘘は通らないのだと観念したが、それでも彼と断ち切れないかと、こちらも必死にもがいてみせた。
「先を急ぎます」
「どこへ行く。同じならば、一緒しよう」
 彼の声が弾んでいるから、どこへ行こうとついて行くつもりだろう。しかし寛永寺から離れていれば諦めるだろうと、不忍池を挟んだ向かいを指した。

「本郷です」
「うむ、同じだ」
「そこから根津へ」
「寛永寺のほうだな」
「……谷中へと回ります」
「一緒だ、ともに参ろう」

 彼は、私の手を引いた。突然のことによろめいたので、すぐ足を止めて小さく焦った顔を覗いた。
「どうした?」
「いえ、その、筋を痛めまして」
「すまなかった。池に落ちそうになったのも、そういうわけか」
 私が歩みを進めるまで、彼は待った。行く当てのない道を歩きはじめると、ひとひらの花びらを摘み取るように、出会った日からを一日また一日と語りはじめた。

 それを黙って聞いていたが、根津の坂を登る頃に
「手合わせは竹刀でやりたいと駄々をこねたから、あれにはどうしたものかと参ったよ」
「そんなことは言っていません!」
 記憶違いをムキになって是正すると、彼はニッと歯を見せて悪戯っぽく笑ってみせた。
「やっと認めてくれたね?」
「ああっ! カマをかけましたね!?」
「そうでもしなければ、君が君に戻らないと、そう思ってね」

 胸に灯る小さな炎は、爽やかな風が吹き消した。ハッとして向き合うと、お天道様みたいな微笑みが私だけを見つめていた。
「君に、会いたかったよ」
「私も……会いたかった」
 彼は小さく首を傾げると、ほんの少しだけの昔を思い返した。
「俺っていうのは、やめたんだね。そうか、茶屋の趣向か。しかし茶や菓子を出していないが、あれはどういう茶屋なんだ?」
「ちょっと、話すと長くなるんだ。ついてきて」

 ありもしなかった用件がたった今、私に出来た。覚悟を決めて彼を伴い、谷中へと向かっていった。
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