18 / 40
第18話・買い切り①
しおりを挟む
客の望みに従って島田を解き、稚児髷に結い直し着物も合わせて階段を降りる。玄関先では、谷中の住職様が迎えにきていた。
「いつかの詫びをさせてもらうよ。しかしあやめ、稚児装束もなかなかいいじゃないか。いっそ、うちの寺に入らないか?」
「陰間の身請けだなんて、幾らになるのか……」
苦笑いをして首を傾げてみたものの、頭の上で髪を纏めてしまっているので、どうも首が座らない。その慣れない様に女将さんが、居合わせた金剛までもが苦笑した。
「それもそうだ、そこいらの遊女とはわけが違う。今日一日は買い切り二両で我慢しようじゃないか」
住職はからからと笑い、袂から財布を出して小判を二枚、女将さんに手渡した。驚きのあまり言葉を失い、木像のように固まった手の平に、住職様は手を重ねて掴んで引いた。
「さて、これで義理を果たせたし、あやめとゆるりと過ごせるな。近頃この辺りも物騒だが、日の高いうちならいいだろう。不忍池を回って、うちの寺に向かおうじゃないか」
雲が切れ、光が差していくようだった。住職様の手を胸板に寄せ、女将さんと金剛に見送られて湯島を出る。目と鼻の先、不忍池をぐるりと周って弁天堂へと渡っていく。
「夏になれば蓮が見事だ。見たことはあるかい?」
「いいえ、まだ見てはおりませんが、朝早くに咲くのでしょう? 私の夜は長いので、目にすることが出来るかどうか」
「ならば、朝まで買えばいいな。夜明けとともに目を覚まし、ともに湯島へ帰ればいい。それまで金を貯めておかねばならんな」
まったくこの生臭坊主は、どうして陰間遊びなどする金を蓄えているのだろう。しかしどんなに汚い金であろうと、こうして買ってくれるのだから冗談であっても咎められない。
「嫉妬深い弁天様も、坊主と稚児ではどうすることも出来まい。賽銭をやるから、お祈りしなさい」
住職様は小銭を渡し、はたとして稚児髷を結った私と弁天様と見比べた。
「いやはや、ここにも弁天様がおったとは」
「観音様ではございませんか?」
「そうか、観音様までついておった。それは何ともありがたい、是非とも当寺にお迎えせねばならん」
住職様は高らかに笑って、賽銭を投げて弁天様にお祈りをした。破戒坊主が必死になって願うのは何か、そう考えると怪訝な笑みを浮かべてしまう。
と、こちらもお願いをしなければ。もらった賽銭を投げ入れて、合掌して何を願うか考える。
弁天様への願いなど、あっただろうか。
陰間茶屋を出る?
決して楽な仕事ではないが、兄さんたちと離れてしまうのは寂しいし、それからどう暮らしていけばいいのだろう。
親元へ帰る?
もう縁を切ったのだから、死んでも会えない覚悟など、とうに決まっている。私を売って立ち直れたなら、それで十分。もしそうでないとしたら、なおさら会いたくない。
──彼に、もう一度、会いたい──。
身体が芯から熱くなった。うつむいたまま目を見開いて、真っ赤に染まってしまった顔を、ぴったり合わせた手の平で隠した。
浮世とも親とも縁を切り、過去を捨てて陰に咲く花になったのに、彼と過ごした日々がどうして忘れられないのだろう。振り払っても袖にしても、胸の内に蓋をした彼が大きくなってくる。
「そんなに熱心に、何を拝んでいるのかい?」
住職様の問いかけに、現世へと引き戻された。何と答えようか迷っていたが、秘密にしてはせっかくの興が冷めてしまう。一日も買い切ってくれた住職様を楽しませるのが陰間の務めだと、微笑みかけて耳触りのよい言葉を選んだ。
「今日という日を、目一杯楽しめますように。そうお願いしたのです」
「そうかいそうかい、これは張り切らなければな」
ころころと笑った住職様は、池の端に建つ茶屋に寄った。店先ではかまどから、もうもうと煙が立ち上っている。
「これでも寺を預かる僧侶だからな。魚や鳥、葱も食えぬ。稚児であるお前も一緒だな?」
客が来た、と茶屋の主人がかまどに載せた焙烙の蓋を持ち上げた。甘い香りを放つ湯気が晴れると、そこには藤色の甘藷が並んでいる。
「住職様、申し訳ございません。芋も食べられないのです」
何だ陰間か客ではないのかと主人が眉間にしわを寄せたので、住職様は自身の分をと買って千切り、小さいほうを手渡してきた。
「今日は一日ある、少しくらいはいいだろう」
胸踊り、瞳が開いて輝いていくのが感じられた。食うにも困った幼い日々に芋の世話にはなっていたが、ただ煮たり焼いたりしただけで、こんなに手をかけたものではなかった。しっとりとした黄金色、ふわりと放たれる芳醇な香りが期待を高める。
禁忌と欲求の狭間に身を置き、恐る恐るありがたがって、ほんの一口だけをついばんだ。
「美味しゅうございます!」
掛け値なく述べた感動に、住職様は朗らかに笑い頭上の稚児輪の根元を撫でた。あれが目当ての買い切りだろうに、これではまるで親子であると、はにかみ笑いを照れ臭く噛み締めた。
住職様の細めた瞼は、次第に慈しみを含んで垂れ下がっていった。
「まったく、陰間とは僧侶より厳しい日々を送っておるな。あやめは真に弁天様か、観音様だ」
その声色を耳にして、不忍池に身を沈めるような気になって、池の端へと足が向いた。
「いつかの詫びをさせてもらうよ。しかしあやめ、稚児装束もなかなかいいじゃないか。いっそ、うちの寺に入らないか?」
「陰間の身請けだなんて、幾らになるのか……」
苦笑いをして首を傾げてみたものの、頭の上で髪を纏めてしまっているので、どうも首が座らない。その慣れない様に女将さんが、居合わせた金剛までもが苦笑した。
「それもそうだ、そこいらの遊女とはわけが違う。今日一日は買い切り二両で我慢しようじゃないか」
住職はからからと笑い、袂から財布を出して小判を二枚、女将さんに手渡した。驚きのあまり言葉を失い、木像のように固まった手の平に、住職様は手を重ねて掴んで引いた。
「さて、これで義理を果たせたし、あやめとゆるりと過ごせるな。近頃この辺りも物騒だが、日の高いうちならいいだろう。不忍池を回って、うちの寺に向かおうじゃないか」
雲が切れ、光が差していくようだった。住職様の手を胸板に寄せ、女将さんと金剛に見送られて湯島を出る。目と鼻の先、不忍池をぐるりと周って弁天堂へと渡っていく。
「夏になれば蓮が見事だ。見たことはあるかい?」
「いいえ、まだ見てはおりませんが、朝早くに咲くのでしょう? 私の夜は長いので、目にすることが出来るかどうか」
「ならば、朝まで買えばいいな。夜明けとともに目を覚まし、ともに湯島へ帰ればいい。それまで金を貯めておかねばならんな」
まったくこの生臭坊主は、どうして陰間遊びなどする金を蓄えているのだろう。しかしどんなに汚い金であろうと、こうして買ってくれるのだから冗談であっても咎められない。
「嫉妬深い弁天様も、坊主と稚児ではどうすることも出来まい。賽銭をやるから、お祈りしなさい」
住職様は小銭を渡し、はたとして稚児髷を結った私と弁天様と見比べた。
「いやはや、ここにも弁天様がおったとは」
「観音様ではございませんか?」
「そうか、観音様までついておった。それは何ともありがたい、是非とも当寺にお迎えせねばならん」
住職様は高らかに笑って、賽銭を投げて弁天様にお祈りをした。破戒坊主が必死になって願うのは何か、そう考えると怪訝な笑みを浮かべてしまう。
と、こちらもお願いをしなければ。もらった賽銭を投げ入れて、合掌して何を願うか考える。
弁天様への願いなど、あっただろうか。
陰間茶屋を出る?
決して楽な仕事ではないが、兄さんたちと離れてしまうのは寂しいし、それからどう暮らしていけばいいのだろう。
親元へ帰る?
もう縁を切ったのだから、死んでも会えない覚悟など、とうに決まっている。私を売って立ち直れたなら、それで十分。もしそうでないとしたら、なおさら会いたくない。
──彼に、もう一度、会いたい──。
身体が芯から熱くなった。うつむいたまま目を見開いて、真っ赤に染まってしまった顔を、ぴったり合わせた手の平で隠した。
浮世とも親とも縁を切り、過去を捨てて陰に咲く花になったのに、彼と過ごした日々がどうして忘れられないのだろう。振り払っても袖にしても、胸の内に蓋をした彼が大きくなってくる。
「そんなに熱心に、何を拝んでいるのかい?」
住職様の問いかけに、現世へと引き戻された。何と答えようか迷っていたが、秘密にしてはせっかくの興が冷めてしまう。一日も買い切ってくれた住職様を楽しませるのが陰間の務めだと、微笑みかけて耳触りのよい言葉を選んだ。
「今日という日を、目一杯楽しめますように。そうお願いしたのです」
「そうかいそうかい、これは張り切らなければな」
ころころと笑った住職様は、池の端に建つ茶屋に寄った。店先ではかまどから、もうもうと煙が立ち上っている。
「これでも寺を預かる僧侶だからな。魚や鳥、葱も食えぬ。稚児であるお前も一緒だな?」
客が来た、と茶屋の主人がかまどに載せた焙烙の蓋を持ち上げた。甘い香りを放つ湯気が晴れると、そこには藤色の甘藷が並んでいる。
「住職様、申し訳ございません。芋も食べられないのです」
何だ陰間か客ではないのかと主人が眉間にしわを寄せたので、住職様は自身の分をと買って千切り、小さいほうを手渡してきた。
「今日は一日ある、少しくらいはいいだろう」
胸踊り、瞳が開いて輝いていくのが感じられた。食うにも困った幼い日々に芋の世話にはなっていたが、ただ煮たり焼いたりしただけで、こんなに手をかけたものではなかった。しっとりとした黄金色、ふわりと放たれる芳醇な香りが期待を高める。
禁忌と欲求の狭間に身を置き、恐る恐るありがたがって、ほんの一口だけをついばんだ。
「美味しゅうございます!」
掛け値なく述べた感動に、住職様は朗らかに笑い頭上の稚児輪の根元を撫でた。あれが目当ての買い切りだろうに、これではまるで親子であると、はにかみ笑いを照れ臭く噛み締めた。
住職様の細めた瞼は、次第に慈しみを含んで垂れ下がっていった。
「まったく、陰間とは僧侶より厳しい日々を送っておるな。あやめは真に弁天様か、観音様だ」
その声色を耳にして、不忍池に身を沈めるような気になって、池の端へと足が向いた。
10
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

幕府海軍戦艦大和
みらいつりびと
歴史・時代
IF歴史SF短編です。全3話。
ときに西暦1853年、江戸湾にぽんぽんぽんと蒸気機関を響かせて黒船が来航したが、徳川幕府はそんなものへっちゃらだった。征夷大将軍徳川家定は余裕綽々としていた。
「大和に迎撃させよ!」と命令した。
戦艦大和が横須賀基地から出撃し、46センチ三連装砲を黒船に向けた……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる