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第18話・買い切り①
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客の望みに従って島田を解き、稚児髷に結い直し着物も合わせて階段を降りる。玄関先では、谷中の住職様が迎えにきていた。
「いつかの詫びをさせてもらうよ。しかしあやめ、稚児装束もなかなかいいじゃないか。いっそ、うちの寺に入らないか?」
「陰間の身請けだなんて、幾らになるのか……」
苦笑いをして首を傾げてみたものの、頭の上で髪を纏めてしまっているので、どうも首が座らない。その慣れない様に女将さんが、居合わせた金剛までもが苦笑した。
「それもそうだ、そこいらの遊女とはわけが違う。今日一日は買い切り二両で我慢しようじゃないか」
住職はからからと笑い、袂から財布を出して小判を二枚、女将さんに手渡した。驚きのあまり言葉を失い、木像のように固まった手の平に、住職様は手を重ねて掴んで引いた。
「さて、これで義理を果たせたし、あやめとゆるりと過ごせるな。近頃この辺りも物騒だが、日の高いうちならいいだろう。不忍池を回って、うちの寺に向かおうじゃないか」
雲が切れ、光が差していくようだった。住職様の手を胸板に寄せ、女将さんと金剛に見送られて湯島を出る。目と鼻の先、不忍池をぐるりと周って弁天堂へと渡っていく。
「夏になれば蓮が見事だ。見たことはあるかい?」
「いいえ、まだ見てはおりませんが、朝早くに咲くのでしょう? 私の夜は長いので、目にすることが出来るかどうか」
「ならば、朝まで買えばいいな。夜明けとともに目を覚まし、ともに湯島へ帰ればいい。それまで金を貯めておかねばならんな」
まったくこの生臭坊主は、どうして陰間遊びなどする金を蓄えているのだろう。しかしどんなに汚い金であろうと、こうして買ってくれるのだから冗談であっても咎められない。
「嫉妬深い弁天様も、坊主と稚児ではどうすることも出来まい。賽銭をやるから、お祈りしなさい」
住職様は小銭を渡し、はたとして稚児髷を結った私と弁天様と見比べた。
「いやはや、ここにも弁天様がおったとは」
「観音様ではございませんか?」
「そうか、観音様までついておった。それは何ともありがたい、是非とも当寺にお迎えせねばならん」
住職様は高らかに笑って、賽銭を投げて弁天様にお祈りをした。破戒坊主が必死になって願うのは何か、そう考えると怪訝な笑みを浮かべてしまう。
と、こちらもお願いをしなければ。もらった賽銭を投げ入れて、合掌して何を願うか考える。
弁天様への願いなど、あっただろうか。
陰間茶屋を出る?
決して楽な仕事ではないが、兄さんたちと離れてしまうのは寂しいし、それからどう暮らしていけばいいのだろう。
親元へ帰る?
もう縁を切ったのだから、死んでも会えない覚悟など、とうに決まっている。私を売って立ち直れたなら、それで十分。もしそうでないとしたら、なおさら会いたくない。
──彼に、もう一度、会いたい──。
身体が芯から熱くなった。うつむいたまま目を見開いて、真っ赤に染まってしまった顔を、ぴったり合わせた手の平で隠した。
浮世とも親とも縁を切り、過去を捨てて陰に咲く花になったのに、彼と過ごした日々がどうして忘れられないのだろう。振り払っても袖にしても、胸の内に蓋をした彼が大きくなってくる。
「そんなに熱心に、何を拝んでいるのかい?」
住職様の問いかけに、現世へと引き戻された。何と答えようか迷っていたが、秘密にしてはせっかくの興が冷めてしまう。一日も買い切ってくれた住職様を楽しませるのが陰間の務めだと、微笑みかけて耳触りのよい言葉を選んだ。
「今日という日を、目一杯楽しめますように。そうお願いしたのです」
「そうかいそうかい、これは張り切らなければな」
ころころと笑った住職様は、池の端に建つ茶屋に寄った。店先ではかまどから、もうもうと煙が立ち上っている。
「これでも寺を預かる僧侶だからな。魚や鳥、葱も食えぬ。稚児であるお前も一緒だな?」
客が来た、と茶屋の主人がかまどに載せた焙烙の蓋を持ち上げた。甘い香りを放つ湯気が晴れると、そこには藤色の甘藷が並んでいる。
「住職様、申し訳ございません。芋も食べられないのです」
何だ陰間か客ではないのかと主人が眉間にしわを寄せたので、住職様は自身の分をと買って千切り、小さいほうを手渡してきた。
「今日は一日ある、少しくらいはいいだろう」
胸踊り、瞳が開いて輝いていくのが感じられた。食うにも困った幼い日々に芋の世話にはなっていたが、ただ煮たり焼いたりしただけで、こんなに手をかけたものではなかった。しっとりとした黄金色、ふわりと放たれる芳醇な香りが期待を高める。
禁忌と欲求の狭間に身を置き、恐る恐るありがたがって、ほんの一口だけをついばんだ。
「美味しゅうございます!」
掛け値なく述べた感動に、住職様は朗らかに笑い頭上の稚児輪の根元を撫でた。あれが目当ての買い切りだろうに、これではまるで親子であると、はにかみ笑いを照れ臭く噛み締めた。
住職様の細めた瞼は、次第に慈しみを含んで垂れ下がっていった。
「まったく、陰間とは僧侶より厳しい日々を送っておるな。あやめは真に弁天様か、観音様だ」
その声色を耳にして、不忍池に身を沈めるような気になって、池の端へと足が向いた。
「いつかの詫びをさせてもらうよ。しかしあやめ、稚児装束もなかなかいいじゃないか。いっそ、うちの寺に入らないか?」
「陰間の身請けだなんて、幾らになるのか……」
苦笑いをして首を傾げてみたものの、頭の上で髪を纏めてしまっているので、どうも首が座らない。その慣れない様に女将さんが、居合わせた金剛までもが苦笑した。
「それもそうだ、そこいらの遊女とはわけが違う。今日一日は買い切り二両で我慢しようじゃないか」
住職はからからと笑い、袂から財布を出して小判を二枚、女将さんに手渡した。驚きのあまり言葉を失い、木像のように固まった手の平に、住職様は手を重ねて掴んで引いた。
「さて、これで義理を果たせたし、あやめとゆるりと過ごせるな。近頃この辺りも物騒だが、日の高いうちならいいだろう。不忍池を回って、うちの寺に向かおうじゃないか」
雲が切れ、光が差していくようだった。住職様の手を胸板に寄せ、女将さんと金剛に見送られて湯島を出る。目と鼻の先、不忍池をぐるりと周って弁天堂へと渡っていく。
「夏になれば蓮が見事だ。見たことはあるかい?」
「いいえ、まだ見てはおりませんが、朝早くに咲くのでしょう? 私の夜は長いので、目にすることが出来るかどうか」
「ならば、朝まで買えばいいな。夜明けとともに目を覚まし、ともに湯島へ帰ればいい。それまで金を貯めておかねばならんな」
まったくこの生臭坊主は、どうして陰間遊びなどする金を蓄えているのだろう。しかしどんなに汚い金であろうと、こうして買ってくれるのだから冗談であっても咎められない。
「嫉妬深い弁天様も、坊主と稚児ではどうすることも出来まい。賽銭をやるから、お祈りしなさい」
住職様は小銭を渡し、はたとして稚児髷を結った私と弁天様と見比べた。
「いやはや、ここにも弁天様がおったとは」
「観音様ではございませんか?」
「そうか、観音様までついておった。それは何ともありがたい、是非とも当寺にお迎えせねばならん」
住職様は高らかに笑って、賽銭を投げて弁天様にお祈りをした。破戒坊主が必死になって願うのは何か、そう考えると怪訝な笑みを浮かべてしまう。
と、こちらもお願いをしなければ。もらった賽銭を投げ入れて、合掌して何を願うか考える。
弁天様への願いなど、あっただろうか。
陰間茶屋を出る?
決して楽な仕事ではないが、兄さんたちと離れてしまうのは寂しいし、それからどう暮らしていけばいいのだろう。
親元へ帰る?
もう縁を切ったのだから、死んでも会えない覚悟など、とうに決まっている。私を売って立ち直れたなら、それで十分。もしそうでないとしたら、なおさら会いたくない。
──彼に、もう一度、会いたい──。
身体が芯から熱くなった。うつむいたまま目を見開いて、真っ赤に染まってしまった顔を、ぴったり合わせた手の平で隠した。
浮世とも親とも縁を切り、過去を捨てて陰に咲く花になったのに、彼と過ごした日々がどうして忘れられないのだろう。振り払っても袖にしても、胸の内に蓋をした彼が大きくなってくる。
「そんなに熱心に、何を拝んでいるのかい?」
住職様の問いかけに、現世へと引き戻された。何と答えようか迷っていたが、秘密にしてはせっかくの興が冷めてしまう。一日も買い切ってくれた住職様を楽しませるのが陰間の務めだと、微笑みかけて耳触りのよい言葉を選んだ。
「今日という日を、目一杯楽しめますように。そうお願いしたのです」
「そうかいそうかい、これは張り切らなければな」
ころころと笑った住職様は、池の端に建つ茶屋に寄った。店先ではかまどから、もうもうと煙が立ち上っている。
「これでも寺を預かる僧侶だからな。魚や鳥、葱も食えぬ。稚児であるお前も一緒だな?」
客が来た、と茶屋の主人がかまどに載せた焙烙の蓋を持ち上げた。甘い香りを放つ湯気が晴れると、そこには藤色の甘藷が並んでいる。
「住職様、申し訳ございません。芋も食べられないのです」
何だ陰間か客ではないのかと主人が眉間にしわを寄せたので、住職様は自身の分をと買って千切り、小さいほうを手渡してきた。
「今日は一日ある、少しくらいはいいだろう」
胸踊り、瞳が開いて輝いていくのが感じられた。食うにも困った幼い日々に芋の世話にはなっていたが、ただ煮たり焼いたりしただけで、こんなに手をかけたものではなかった。しっとりとした黄金色、ふわりと放たれる芳醇な香りが期待を高める。
禁忌と欲求の狭間に身を置き、恐る恐るありがたがって、ほんの一口だけをついばんだ。
「美味しゅうございます!」
掛け値なく述べた感動に、住職様は朗らかに笑い頭上の稚児輪の根元を撫でた。あれが目当ての買い切りだろうに、これではまるで親子であると、はにかみ笑いを照れ臭く噛み締めた。
住職様の細めた瞼は、次第に慈しみを含んで垂れ下がっていった。
「まったく、陰間とは僧侶より厳しい日々を送っておるな。あやめは真に弁天様か、観音様だ」
その声色を耳にして、不忍池に身を沈めるような気になって、池の端へと足が向いた。
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