ひとひらの花びらが

山口 実徳

文字の大きさ
上 下
16 / 40

第16話・雁鍋①

しおりを挟む
 一刻一分の仕事が入った。金剛に伴われ向かった料理屋は寛永寺黒門そば、広小路に面した雁鍋屋。それもまだ日が高く往来が多い時間であったから、どんな客だろうかと首を傾げずにはいられない。
 女中に導かれる直前に、眉をひそめた金剛が耳を寄せ、ひと言だけと忠告をした。
「ここは、不貞な輩が出入りする店と噂されております。一刻過ぎても明るいうちです、万一のことがあれば躊躇わずお逃げなさい」

 それは、いつかの暴漢が使っているのか。しかし大通りに面しているし、追い剥ぎをするような連中だから座敷に上がる金などない。ならば何を指して不貞な輩というのかと、悶々としながら女中のあとをついていった。
 襖の前で女中が膝をついたので、その正面で同じようにし、三つ指をつく。襖がスーッと鳴ったので島田を下げて、か細い声を絞り出す。
「本日はお呼びくださり、ありがとうございます。あやめと申します」

 挿した櫛が示した先がハッとして、息を呑んだ。その呼吸には張りがあり、瑞々しくて、今日の客はまだ歳若いのだと気づかされた。
 若い坊主であったなら、入れるほうではなく庫裏くりで入れられるほうであるし、一分金など触れることさえ叶わない。
 大店おおだなの坊ちゃんが戯れに呼んだのか、だとしたら取り巻きのひとりでもいるはずだが、座敷の気配が寂しすぎる。

 そうだ、金剛が不貞な輩と言っていた。若い男が座敷にひとり、場所と料理に陰間の代金まで払えるのだから、後ろ暗い金であるに違いない。
 そうに違いないと信じ込もうとしたものの、面を上げよと言うのを躊躇い、息が詰まりそうなほど胸を高鳴らせている、この清廉な佇まいがそれをバッサリ否定した。
 痺れを切らした女中に促されて、ようやく慌てて島田を上げるようにと告げられた。

 暖かい空気にふわりと包まれ、私は身動きがとれなくなった。
 かつてともに研鑽した若侍が、煮えた雁鍋をよそにして、こちらを呆然と見つめていたのだ。

 はたと我に返った彼は言葉に困ってはにかんで、まだ落ち着かない月代さかやきを指先で掻いていた。
「急に呼び立てて、すまなかった。こうしなければ話も出来ぬと知ったものでな」
 襖を閉めても、近くには寄らないでおいた。頭の中では聞きたいことが目まぐるしく渦巻いており、それが決まるまでは彼を直視出来なかった。

 どうして座敷に呼んだのか。座敷に上げて、何を話すと言うのだろうか。そもそも座敷、料理、陰間まで買ったその金は、どう工面したというのか。
 そして陰間という商売が、何をするのかわかっているのか。

 固く小さく縮こまり、だんまりりしている様子に気を遣ってか、それらは彼の口が紐解いた。
「この雁鍋屋は、我ら彰義隊の馴染みの店だ。顔が利くのを上手く使わせてもらったのさ。それに元服すれば、多少なりとも遣う金の自由は利く。安くはないが、君に会えるのなら高くはないさ」

 さぁ近くにと寄せられて、渋々と唇を少し噛んでそばに座る。と、わかりやすいほど驚いた彼は身を逸らせ、伏せた目を惚れ惚れと見つめていた。
「……見違えたな、しかし紛れもなく君だ」
「長く煮ると、鳥が硬くなってしまいます」
 箸を取り、煮えた鳥と葱を小皿に盛って、そっと彼に手渡した。すると彼は、それを食べようとせず
「君もどうだ? 一緒にやろう」
「鳥も葱も、臭いがするので禁じられております」
 普段であれば、気分を害さないよう言葉を選んで断っていた。だが今は、何も知らず座敷に上げた彼に苛立ち、それをする気が起きなかった。

 そうか、と寂しそうに箸で突っつき、放り込む。やや硬くなった鳥を噛み、嚥下するともう十分だと皿を置いた。
「女に扮し、あやめと名乗っておられるか。寛永寺にも今時分、咲いておる。手の平ほどで白に目弾めはじきのような紫に、ちょんと黄を差した花だ」
 そう、その花から女将さんは、あやめという名を与えたのだ。茶屋の裏、日の当たらない陰を好んで咲いている。ああこれかと見て、自分にぴったりな名をつけられたという気になった。

 男を捨てて、女にもなれず、ひっそりと咲いて実を結ばずに、あっという間に萎れる花。他の店では陰間だとわかるよう菊の一字を入れているが、あの花も陰間に相応しい。
「あやめではなく、射干シャガというそうです」
「射干、射干か。よし、覚えた。君の花だな」
 花の名を覚える彼が子供のようで憎めなくって、口元に当てた袖の下で笑ってしまった。この無邪気な純粋さが、彼の強さの秘訣であって、それを包み隠してもいた。

 そんな彼は子供っぽいまま前のめり、過ぎ去った日々を掘り起こそうと身を乗り出した。
「覚えているか? 君が私を打ち負かした日のことを。こう見えて道場では負けなしだった、それが」
「人違いにございます。縁もゆかりもないと申したはずです」
 蓋をして奥へ深くへ埋めた過去を、必死に隠そうと身体で塞いだ。しかし彼は肩を抱き、戸惑う瞳を真っ直ぐ見つめた。
「おやめください。浮世とも、親とも縁を切った身にございます」
「見紛うものか。あの日、私は──」
 そのとき、閉ざした襖は蹴破られ、言葉の続きは泡となって消えていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

忘却の艦隊

KeyBow
SF
新設された超弩級砲艦を旗艦とし新造艦と老朽艦の入れ替え任務に就いていたが、駐留基地に入るには数が多く、月の1つにて物資と人員の入れ替えを行っていた。 大型輸送艦は工作艦を兼ねた。 総勢250艦の航宙艦は退役艦が110艦、入れ替え用が同数。 残り30艦は増強に伴い新規配備される艦だった。 輸送任務の最先任士官は大佐。 新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。 本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。    他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。 公安に近い監査だった。 しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。 そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。 機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。 完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。 意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。 恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。 なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。 しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。 艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。 そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。 果たして彼らは帰還できるのか? 帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?

処理中です...