ひとひらの花びらが

山口 実徳

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第16話・雁鍋①

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 一刻一分の仕事が入った。金剛に伴われ向かった料理屋は寛永寺黒門そば、広小路に面した雁鍋屋。それもまだ日が高く往来が多い時間であったから、どんな客だろうかと首を傾げずにはいられない。
 女中に導かれる直前に、眉をひそめた金剛が耳を寄せ、ひと言だけと忠告をした。
「ここは、不貞な輩が出入りする店と噂されております。一刻過ぎても明るいうちです、万一のことがあれば躊躇わずお逃げなさい」

 それは、いつかの暴漢が使っているのか。しかし大通りに面しているし、追い剥ぎをするような連中だから座敷に上がる金などない。ならば何を指して不貞な輩というのかと、悶々としながら女中のあとをついていった。
 襖の前で女中が膝をついたので、その正面で同じようにし、三つ指をつく。襖がスーッと鳴ったので島田を下げて、か細い声を絞り出す。
「本日はお呼びくださり、ありがとうございます。あやめと申します」

 挿した櫛が示した先がハッとして、息を呑んだ。その呼吸には張りがあり、瑞々しくて、今日の客はまだ歳若いのだと気づかされた。
 若い坊主であったなら、入れるほうではなく庫裏くりで入れられるほうであるし、一分金など触れることさえ叶わない。
 大店おおだなの坊ちゃんが戯れに呼んだのか、だとしたら取り巻きのひとりでもいるはずだが、座敷の気配が寂しすぎる。

 そうだ、金剛が不貞な輩と言っていた。若い男が座敷にひとり、場所と料理に陰間の代金まで払えるのだから、後ろ暗い金であるに違いない。
 そうに違いないと信じ込もうとしたものの、面を上げよと言うのを躊躇い、息が詰まりそうなほど胸を高鳴らせている、この清廉な佇まいがそれをバッサリ否定した。
 痺れを切らした女中に促されて、ようやく慌てて島田を上げるようにと告げられた。

 暖かい空気にふわりと包まれ、私は身動きがとれなくなった。
 かつてともに研鑽した若侍が、煮えた雁鍋をよそにして、こちらを呆然と見つめていたのだ。

 はたと我に返った彼は言葉に困ってはにかんで、まだ落ち着かない月代さかやきを指先で掻いていた。
「急に呼び立てて、すまなかった。こうしなければ話も出来ぬと知ったものでな」
 襖を閉めても、近くには寄らないでおいた。頭の中では聞きたいことが目まぐるしく渦巻いており、それが決まるまでは彼を直視出来なかった。

 どうして座敷に呼んだのか。座敷に上げて、何を話すと言うのだろうか。そもそも座敷、料理、陰間まで買ったその金は、どう工面したというのか。
 そして陰間という商売が、何をするのかわかっているのか。

 固く小さく縮こまり、だんまりりしている様子に気を遣ってか、それらは彼の口が紐解いた。
「この雁鍋屋は、我ら彰義隊の馴染みの店だ。顔が利くのを上手く使わせてもらったのさ。それに元服すれば、多少なりとも遣う金の自由は利く。安くはないが、君に会えるのなら高くはないさ」

 さぁ近くにと寄せられて、渋々と唇を少し噛んでそばに座る。と、わかりやすいほど驚いた彼は身を逸らせ、伏せた目を惚れ惚れと見つめていた。
「……見違えたな、しかし紛れもなく君だ」
「長く煮ると、鳥が硬くなってしまいます」
 箸を取り、煮えた鳥と葱を小皿に盛って、そっと彼に手渡した。すると彼は、それを食べようとせず
「君もどうだ? 一緒にやろう」
「鳥も葱も、臭いがするので禁じられております」
 普段であれば、気分を害さないよう言葉を選んで断っていた。だが今は、何も知らず座敷に上げた彼に苛立ち、それをする気が起きなかった。

 そうか、と寂しそうに箸で突っつき、放り込む。やや硬くなった鳥を噛み、嚥下するともう十分だと皿を置いた。
「女に扮し、あやめと名乗っておられるか。寛永寺にも今時分、咲いておる。手の平ほどで白に目弾めはじきのような紫に、ちょんと黄を差した花だ」
 そう、その花から女将さんは、あやめという名を与えたのだ。茶屋の裏、日の当たらない陰を好んで咲いている。ああこれかと見て、自分にぴったりな名をつけられたという気になった。

 男を捨てて、女にもなれず、ひっそりと咲いて実を結ばずに、あっという間に萎れる花。他の店では陰間だとわかるよう菊の一字を入れているが、あの花も陰間に相応しい。
「あやめではなく、射干シャガというそうです」
「射干、射干か。よし、覚えた。君の花だな」
 花の名を覚える彼が子供のようで憎めなくって、口元に当てた袖の下で笑ってしまった。この無邪気な純粋さが、彼の強さの秘訣であって、それを包み隠してもいた。

 そんな彼は子供っぽいまま前のめり、過ぎ去った日々を掘り起こそうと身を乗り出した。
「覚えているか? 君が私を打ち負かした日のことを。こう見えて道場では負けなしだった、それが」
「人違いにございます。縁もゆかりもないと申したはずです」
 蓋をして奥へ深くへ埋めた過去を、必死に隠そうと身体で塞いだ。しかし彼は肩を抱き、戸惑う瞳を真っ直ぐ見つめた。
「おやめください。浮世とも、親とも縁を切った身にございます」
「見紛うものか。あの日、私は──」
 そのとき、閉ざした襖は蹴破られ、言葉の続きは泡となって消えていった。
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