ひとひらの花びらが

山口 実徳

文字の大きさ
上 下
1 / 40

第1話・湯島①

しおりを挟む
 玄関先で後光を放ち仁王立ちする侍に、女将さんがまぁまぁこれはと膝を折り、三つ指ついて島田髷を沈めていった。侍はそわそわしながら胸を張ると、それはそれは厳しく女将さんに問いかけてきた。
「ここは如何なる茶屋であろうか」
 面を上げた女将さんは、口元を袖で押さえて目尻を侍に撫でつけていた。
「珍しくもない、ただの茶屋でございます。どうかお上がりになって、お確かめください」
 侍が草履を脱いだので、控えていた陰から玄関先の隅に寄り、膝を折って腰のものを預かった。下げた頭が結ったばかりの島田でくらくらするので、すぐさま身を引こうとすると女将さんに「ちょいと」と引き止められた。
「あやめ、あんたがお上がんなさい」
 もうそのときが回ってきたかと、引きつった笑みを青く浮かべた。

 侍を二階に導いて、このためだけに空けた畳間に通して襖を閉める。それから向かいの襖を空けて、兄さんたちが寛いでいる板間へ転がり込んだ。縋るような俺の目は、不忍しのばずを撫でた風を浴びている桔梗兄さんだけを捉えた。
「どうしよう、お役人様の接待を頼まれちまった」
 しかし桔梗兄さんは、艶めかしいおくれ毛を風に遊ばせて嘲笑っているだけだった。
「お武家様の相手なんぞ、手ほどきしたじゃあないか。教えたとおりにやるまでよ」
 でも、と口を噤んでいると、桔梗兄さんは板間を滑ってそばに寄る。いきなり近づくものだから、息が出来ないくらいに脈が早くなって、周りの兄さんたちは胸に白波をざわざわ立てた。

 涼しげな目元に影を差す長いまつ毛、薄っすらと微笑んでいる唇が、早鐘が薄い胸板を殴りつける。
「いいかい? あちらから誘ったりはしないから、あやめがシナを精一杯つくるんだ。お武家さんには務めと矜持があるからね」
「そうさ、公方様がひとりで逃げ帰ったってぇときに、茶屋の手入をするような小せえ下っ端役人さ」
 けらけらと簪を揺らしていたのは、齢十八になる古株の牡丹兄さん。桔梗兄さんよりひとつ下、年季が明けたら蚤取り侍でもしようかね、が口癖だ。

 これには桔梗兄さんも驚いて、身体を捩って問いただす。胸の高鳴りを奪われた気がして、大人の話をつまらなそうな仕草で聞いた。
「公方様が逃げたって?」
「座敷で小耳に挟んだのさ、錦の御旗が翻っちゃあ公方様も堪らないね」
 食いついた桔梗兄さんはもちろんのこと、同い年の山吹までそれを聞いて呆けてしまった。関係ないね、と抱えた膝の先に見える指でひとり遊びをしていると、ピシャリと襖が開かれた。

 お茶の支度を済ませた女将さんだ、こめかみには稲妻が走っている。立ち込める暗雲から逃れるように、兄さんたちは口を結んで背筋を伸ばした。
「あやめ。遊んでいないで、もてなしてさしあげなさい」
 慌てて立ち上がろうとすると、桔梗兄さんが袖を引いて女将さんに目配せをした。
「だめだよ、備えがまだじゃあないか」
 すると裾をまくり上げ、粉薬を口に含んでとろけさせ、割れ目を開いて舌を入れて塗りつけた。そうされて、堪らず声が漏れそうになる。

「あやめ、これも忘れちゃあならないよ」
「嫌だよ、それ痒いんだもの」
「痛いよりかは、いいだろう? じきよくなるよ」
 牡丹兄さんが割って入り、指先につけた山椒の粉を割れ目に塗った。とろとろに濡れたものだから、指を奥へ奥へと飲み込んでしまう。
「ん……」
 我慢出来ずに声を漏らすと、行っておいでと景気をつけられたので、観念して女将さんから盆を受け取り、閉ざした襖の前で膝をつく。兄さんたちが襖を閉めたら、お役人様の接待だ。
 喉を絞って、か細い声を弾かせる。
「失礼します、お茶をお持ちしました」

 絹が擦れるような音を鳴らすと、お役人様は床の間に飾った掛軸を目に映すでもなく見つめていた。風が吹いても動きそうにはなかったが、どことなくそわそわしており、桔梗兄さんが言ったとおりだと安堵した。
「ようこそ、おいでくださいました」
 三つ指をついて、島田を下げる。まとめ上げた髪を下ろすも上げるも、止めているのも赤子のように定まらず難儀する。
 膝を浮かせて、役人のそばにピタリとついて茶を淹れる。と、これは務めと自身に言い聞かせているのだろうか、軸に視線を釘刺したまま問いただす。

「まだ若いな」
「十四にございます」
「入ったばかりか」
「左様にございます」
「この茶屋は、娘が茶を勧めるのか」
「あら、お確かめになられますか?」

 膝の上で岩のように握られた手に触れて、そっと撫で回してからふわりと掴む。お役人様の握り拳が羽より軽くなったので、気づかれないように溜め息をついて、両足のつけ根に触れさせた。
 お役人様は丸く剥いた目をこちらに向けて、驚く素振りをしてみせた。

 そうと知って来たくせに──。

 顎を引いて、細めた目を流してみせて、フフッと悪戯っぽく笑って返した。
「男か」
「左様にございます」
 兄さんたちに備えをされたところから、むずむずと熱いものがこみ上げてきた。うるさいくらいに脈が鳴り、内から胸がはち切れそうに膨れ上がって、息が荒くなってきた。
「梅がほころんだばかりというのに、熱くはございませんでしょうか」
 手持ち無沙汰な手の平を、お役人様の足のつけ根へと伸ばしていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ふたりの旅路

三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。 志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。 無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

忘却の艦隊

KeyBow
SF
新設された超弩級砲艦を旗艦とし新造艦と老朽艦の入れ替え任務に就いていたが、駐留基地に入るには数が多く、月の1つにて物資と人員の入れ替えを行っていた。 大型輸送艦は工作艦を兼ねた。 総勢250艦の航宙艦は退役艦が110艦、入れ替え用が同数。 残り30艦は増強に伴い新規配備される艦だった。 輸送任務の最先任士官は大佐。 新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。 本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。    他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。 公安に近い監査だった。 しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。 そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。 機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。 完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。 意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。 恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。 なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。 しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。 艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。 そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。 果たして彼らは帰還できるのか? 帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?

処理中です...