椰子の実ひとつ -電車の女学校-

山口 実徳

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昭和二十年

第65話・呉②

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 京橋川で釣り糸を垂れる美春のそばに、千秋が並んで腰を下ろした。ぼんやりと川面を見つめるふたりは、どちらも浮かない顔である。
「釣りしとんの、久しぶりじゃねぇ」
「釣りでもやらなぁ、やっておれんわ」
 川を撫でる夏の風に、ふたりの髪が遊ばれた。寄り添い合った丸い背中は寂しく映り、道行く人もチラリと見ては目を背けて通り過ぎた。

「竹槍の竿とは、変わっているね」
 寂寞せきばくを破ったのは、ラジオのように整然とした覚えのある声だった。ふたりはハッと振り返り、傾く陽射しに輝いた笑みを見つめて、脚へと視線を落としていった。
「赤井先生!」
 丸くした目の先に気づいた赤井先生は、理由を解して自嘲した。
「ああ、これか。義足を作ったんだ、松葉杖では難儀するからね」
 そう言ってから赤井先生は慎重に、失った脚をかばいつつ、落ちるように尻餅をついた。ぐらぐらと揺れる広い背中を千秋が支えて、何とか姿勢を整えた。

 長く息を吐いてから千秋を労い、暮れゆく空をぼんやりと仰いだ。それを見計らった美春が声を落として、赤井先生に問い掛ける。
「東京は……」
 憚られ、それだけしか言えなかったが、それで十分でもあった。赤井先生は川面を向いて、視線だけを辺りに配った。
「……酷いものさ」
 ひと言ひとこと言葉を選んで呟く様に、ふたりは息を呑んでいた。固められた夏風に古傷を撫で回されて、赤井先生は痛々しく言葉を放った。
「全部、燃えたよ」
「……ご家族は……」
「全部だ、全部……」

 喋りすぎたと言わんばかりに、赤井先生は口をつぐんだ。しかし、一度堰を切ってしまえば思いを留めることなど出来なかった。
「義足の練習を兼ねて、あちこちに寄ったんだ。理由をつけての途中下車は、難儀したけどね」
「どちらに寄られたんですか?」
「横浜、名古屋、大阪、神戸……」
 美春と千秋は、うっかり開いてしまわぬよう口を結んだ。どこもかしこも空襲に遭ったと聞いた街だったから、どうなってしまったのかと元の姿を知らなくても尋ねたかった。

 それは赤井先生とて同じこと、口蓋で軽々しく跳ねる言葉を咀嚼した。語っていいのか聞かせていいのか自問自答を繰り返し、ようやくポトリと口にした。
「本当に、全部なんだ……」
 ふたりは拒んでしまいたい真実を留飲し、喉に刺さった棘に顔を歪めた。周りが立ち直らせるより早く、空襲に遭い焼け野原になっていく。この真実に、美春はおのれの甘さを恥じた。

「呉には寄られましたか」
「呉? 山陽線に乗ってきたから、呉は通らない──」
 赤井先生は言葉の意味を理解した。開いた堰に引っ掛かり、尋ねる時機を探った問いに形を持たせた。
「それじゃあ、安田君は……」
「今、呉におります」

 迷いが生じた。今すぐ呉に向かいたい、しかし家の場所など知らないので当てどなく探すことになり、わかったところで行き違いになるかも知れない。旅行が制限される時局柄、夕暮れ時の思いつきで汽車に乗るなど到底出来ることではない。
 川面に刺さる釣り糸に待つしかないと言われた気がして、ざわめく心を鎮ませた。

「君たちは、こうして待っていたのか」
 美春は黙って頷いた。
 そう、森島さんと吉川さん、そして安田さんの三人は、いつだって一緒だった。
 当たり前だった毎日を尊く思い、そんな日々を忘れたことを後悔し、教師だった頃が遠くなってしまったと、残酷な時の流れに打ちのめされた。

「安田君が呉に行ってから、どれくらい経つんだい?」
「もう、二週間になります」
「そうか……。長いな」

 言葉が絶たれた。長く帰らないということは、無事では済まなかったという意味だ。呉は、夏子の家は、夏子の家族は、どれだけの被害を受けたのか、想像するのも恐ろしいことを、ただ待って案ずるだけというのが口惜しい。

 重くどんよりとまとわりついた空気を、美春が払った。ほんの少し声を高くし、赤井先生に話し掛けた。
「今日、広島に着いたんですか?」
 赤井先生は呼応した。逃げるようで悔しかったが、同時に救われたような気さえした。
「ああ、電鉄と女学校に挨拶しようと思ったんだけど、もう遅いね。明日にするよ」
 千秋も、ふたりの真似をして続いた。心の隅に夏子を残したまま。
「ほんなら、今日は宿にお泊まりですか?」
「復員したときに泊まった宿の世話になるんだ。中島の──」

 赤井先生が指し示した先、川の向こうに視線を投げた三人は、時が止まった。
 対岸の土手道を、夏子がひとりで歩いていた。これといった持ち物はなく身軽であったが、その足取りは重かった。
「夏子ちゃん!!」
 美春が代用竿を投げ捨てて、三人並んで土手道を駆け、御幸みゆき橋のたもとで抱きとめた。重ねた瞳は光がすっかり失われ、焦点が合っているのかわからない。茫然自失の夏子を呼び戻すため、美春は肩を揺さぶり名前を必死に叫び続けた。

「夏子ちゃん! 夏子ちゃん! 夏子ちゃん!」

 赤井先生が、美春の手にそっと触れた。夏子はそちらを向いて、黒い瞳に彼だけを映した。
「赤井先生……」
 鮮明な輪郭を持ったその瞬間、像が滲んで瞼を閉じずにはいられなかった。ぽろぽろと溢れる雫があまりに熱く、嗚咽を漏らさずにはいられなくなった。

 夏子は、すべてを失っていた。
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