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昭和二十年
第62話・飛行機
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いつもの朝は、空襲警報が中断させた。美春がすぐさま電車を停めて、夏子が扉を開いて乗客を避難させる。乗務員の避難は一番最後、空の電車を路上に残し、防空壕へと走っていった。
野太い轟音が腹の底まで震わせて心臓を掴む。銀翼が朝日を照り返し、真っ逆さまに振り下ろされる。
光が美春の目を突いた。天を仰ぎ、息を呑む。悠々と空に浮かぶ掌は美春の足に枷をかけ、鷲掴みにして知らないどこかへ連れ去ろうとした。
「美春ちゃん!」
防空壕の入口で異変に気づいた夏子が棒立ちの美春へ向かおうとする。が、踏み出した足は周りの大人に止められた。
「いかん! 来るぞ!」
「離して! 美春ちゃんが!」
ひとりの男が美春の元へ駆け出した。だらりと弛んだ身体を抱え、防空壕へと放り込む。そして男は怒号を飛ばす。
「目ぇ閉じろ! 口で息せい! 耳塞げ!」
扉が閉ざされた次の瞬間、爆発音が辺り一帯を揺るがした。炎の雨が降り注ぎ、漏れた光が燃えている。流れる空気が焦げ臭い。届かないと知りながら、遥か上空に対して息をひそめる。
しばらくして、警報解除のサイレンが鳴った。大人たちが美春と夏子を押しのけて、恐る恐る扉を開いて様子を伺う。
「家が燃えておる」
「水を持ってこい」
「バケツリレーの成果を見せたるわ」
大人たちが消火に向かい、防空壕は呆然とする美春と夏子だけを残した。夏子が我を取り戻し、瞳を潤ませ美春の肩を強く掴んだ。
「アホ! 死ぬ気か!」
「ごめん、夏子ちゃん……あんな大きな飛行機、はじめて見たけぇ」
「一機でよかったのう。本物の爆撃じゃったら、今ごろ丸焦げじゃ」
懐かし声だった。抱えられた感触にも、覚えがあった。美春はハッと扉のほうに目を向けた。
「師匠……」
深く被った帽子から覗く、鋭い目つきがニヤリと垂れた。美春の車掌の師匠が復員したのだ。
美春は堪らず飛びついた。子猫のように師匠に甘え、心の底から喜んでいた。
「おいおい、乗務員なら電車の心配をせんかい」
「そうじゃった! 夏子ちゃん、早う行こう!」
「ありゃ、安田君が運転士かいな?」
不思議そうにひそめた眉を、美春は師匠そっくりにニヤリと嘲笑った。
「師匠、運転士はうちじゃ」
「ありゃ、そうなんか。ほんじゃあ、ポール回しの兎跳びは見れんのかいな? 楽しみにしとったんじゃがのう」
「師匠と組んだら、特別に見せたるわ。ちょうど電鉄前行きに乗っとるんよ、うちの電車に乗ってつかあさい」
美春は師匠に引き出され、電車の無事にそっと胸を撫で下ろした。それと同時に、燃える家屋を案じて呼吸が詰まった。
「まだ終わっとらん、消火が先じゃのう」
「うちも加勢します」
「ええわ、ここはわしらに任せんかい。君たちは電車を走らせて、広島の日常を取り戻してくれ」
師匠はふたりに背を向けて、バケツリレーに加わった。美春と夏子は苦々しく唇を噛んで、担当電車に戻っていった。
* * *
美春は乗務を終えて寄宿舎に帰るなり、師匠の復員を興奮気味に語っていた。
「早う師匠と組めんかねぇ。うち、楽しみでしょうがないわ」
しかし、相部屋の少女たちは曇り顔。爆撃機が飛来する中、空を仰いで棒立ちになったと聞けば一緒に喜べる気にならない。
「それより、警報が鳴ったら防空壕に逃げ込まんといかんよ? やられてしまったら師匠と組めんのよ?」
「アホなことして……。うちがどんだけ心配したか、わかっとるん?」
「うう、返す言葉もないわい……ごめんなさい」
夏子と千秋は、しおしお萎む美春に呆れながらも放っておけない妹のように慈しんだ。
穏やかな空気は、突然の羽音に引き裂かれた。高速で迫るエンジン音に、女学校が緊迫する。
「戦闘機や!」
少女たちは一斉に蚕棚へと飛び込んだ。布団を被り丸まって、耳を塞いで息をひそめる。
「美春ちゃん、顔を出したらいかんよ」
「……何でわかったん?」
美春がすごすごと布団に潜って視界を塞ぐと、夏子がぽつりと声を掛けた。
「ほんで、どんな飛行機やった?」
「銀色で……尖っとった」
「夏子ちゃん、顔を出したらいかんよ?」
「バレとったか……」
千秋の忠告は遅かった。夏子はこっそり窓辺に寄って、敵情視察と決め込んでいた。飛散防止に貼られた紙で見えないからと、ほんの少しだけ窓を開けていた。
「あ、何か落とした」
「爆弾じゃ! 夏子ちゃん、逃げて!」
「違うで? 紙が降っとる」
布団に潜った少女たちがのっそり起きて、どうしたのかと外に目を向けた。青空の下、何枚もの紙ペラがひらひら舞って、そのうちの一枚が部屋の中へと滑り込んだ。
それをハシっと夏子が掴むと、寝床の少女たちがにじり寄り、食い入るように覗き込んだ。
「アメリカ軍の伝単や」
「はじめて見たわ」
「何が書いてあるん?」
「日本語で書いてあるわ」
「そりゃあ、うちらに向けとるからな」
「えらいたくさん書いてあるけど……」
「戦争はやめぇ、ちゅうことやな。アホか、今更あとに引けるかい」
そのとき、消防団が校庭に飛び込んだ。わけもわからず拾い上げた女学生を叱りつけ、散らばる伝単を拾い集めた。
「いかん! こんなん持っとったら、憲兵さんに捕まってしまうわ。早う渡しに行こう」
すると夏子は伝単を手早く畳んで、紙飛行機にして外へと飛ばした。
「日本の空は、日本のものや。アメリカの勝手にさせるかい」
紙飛行機は風に乗り、校庭を何度も何度も旋回していた。消防団はそれが伝単だと気づき、空を仰いで両手を伸ばして追い回す。
春風に窓がカタカタ鳴ると紙飛行機はふわりと舞って、どこか遠くへ消え去ってしまった。
野太い轟音が腹の底まで震わせて心臓を掴む。銀翼が朝日を照り返し、真っ逆さまに振り下ろされる。
光が美春の目を突いた。天を仰ぎ、息を呑む。悠々と空に浮かぶ掌は美春の足に枷をかけ、鷲掴みにして知らないどこかへ連れ去ろうとした。
「美春ちゃん!」
防空壕の入口で異変に気づいた夏子が棒立ちの美春へ向かおうとする。が、踏み出した足は周りの大人に止められた。
「いかん! 来るぞ!」
「離して! 美春ちゃんが!」
ひとりの男が美春の元へ駆け出した。だらりと弛んだ身体を抱え、防空壕へと放り込む。そして男は怒号を飛ばす。
「目ぇ閉じろ! 口で息せい! 耳塞げ!」
扉が閉ざされた次の瞬間、爆発音が辺り一帯を揺るがした。炎の雨が降り注ぎ、漏れた光が燃えている。流れる空気が焦げ臭い。届かないと知りながら、遥か上空に対して息をひそめる。
しばらくして、警報解除のサイレンが鳴った。大人たちが美春と夏子を押しのけて、恐る恐る扉を開いて様子を伺う。
「家が燃えておる」
「水を持ってこい」
「バケツリレーの成果を見せたるわ」
大人たちが消火に向かい、防空壕は呆然とする美春と夏子だけを残した。夏子が我を取り戻し、瞳を潤ませ美春の肩を強く掴んだ。
「アホ! 死ぬ気か!」
「ごめん、夏子ちゃん……あんな大きな飛行機、はじめて見たけぇ」
「一機でよかったのう。本物の爆撃じゃったら、今ごろ丸焦げじゃ」
懐かし声だった。抱えられた感触にも、覚えがあった。美春はハッと扉のほうに目を向けた。
「師匠……」
深く被った帽子から覗く、鋭い目つきがニヤリと垂れた。美春の車掌の師匠が復員したのだ。
美春は堪らず飛びついた。子猫のように師匠に甘え、心の底から喜んでいた。
「おいおい、乗務員なら電車の心配をせんかい」
「そうじゃった! 夏子ちゃん、早う行こう!」
「ありゃ、安田君が運転士かいな?」
不思議そうにひそめた眉を、美春は師匠そっくりにニヤリと嘲笑った。
「師匠、運転士はうちじゃ」
「ありゃ、そうなんか。ほんじゃあ、ポール回しの兎跳びは見れんのかいな? 楽しみにしとったんじゃがのう」
「師匠と組んだら、特別に見せたるわ。ちょうど電鉄前行きに乗っとるんよ、うちの電車に乗ってつかあさい」
美春は師匠に引き出され、電車の無事にそっと胸を撫で下ろした。それと同時に、燃える家屋を案じて呼吸が詰まった。
「まだ終わっとらん、消火が先じゃのう」
「うちも加勢します」
「ええわ、ここはわしらに任せんかい。君たちは電車を走らせて、広島の日常を取り戻してくれ」
師匠はふたりに背を向けて、バケツリレーに加わった。美春と夏子は苦々しく唇を噛んで、担当電車に戻っていった。
* * *
美春は乗務を終えて寄宿舎に帰るなり、師匠の復員を興奮気味に語っていた。
「早う師匠と組めんかねぇ。うち、楽しみでしょうがないわ」
しかし、相部屋の少女たちは曇り顔。爆撃機が飛来する中、空を仰いで棒立ちになったと聞けば一緒に喜べる気にならない。
「それより、警報が鳴ったら防空壕に逃げ込まんといかんよ? やられてしまったら師匠と組めんのよ?」
「アホなことして……。うちがどんだけ心配したか、わかっとるん?」
「うう、返す言葉もないわい……ごめんなさい」
夏子と千秋は、しおしお萎む美春に呆れながらも放っておけない妹のように慈しんだ。
穏やかな空気は、突然の羽音に引き裂かれた。高速で迫るエンジン音に、女学校が緊迫する。
「戦闘機や!」
少女たちは一斉に蚕棚へと飛び込んだ。布団を被り丸まって、耳を塞いで息をひそめる。
「美春ちゃん、顔を出したらいかんよ」
「……何でわかったん?」
美春がすごすごと布団に潜って視界を塞ぐと、夏子がぽつりと声を掛けた。
「ほんで、どんな飛行機やった?」
「銀色で……尖っとった」
「夏子ちゃん、顔を出したらいかんよ?」
「バレとったか……」
千秋の忠告は遅かった。夏子はこっそり窓辺に寄って、敵情視察と決め込んでいた。飛散防止に貼られた紙で見えないからと、ほんの少しだけ窓を開けていた。
「あ、何か落とした」
「爆弾じゃ! 夏子ちゃん、逃げて!」
「違うで? 紙が降っとる」
布団に潜った少女たちがのっそり起きて、どうしたのかと外に目を向けた。青空の下、何枚もの紙ペラがひらひら舞って、そのうちの一枚が部屋の中へと滑り込んだ。
それをハシっと夏子が掴むと、寝床の少女たちがにじり寄り、食い入るように覗き込んだ。
「アメリカ軍の伝単や」
「はじめて見たわ」
「何が書いてあるん?」
「日本語で書いてあるわ」
「そりゃあ、うちらに向けとるからな」
「えらいたくさん書いてあるけど……」
「戦争はやめぇ、ちゅうことやな。アホか、今更あとに引けるかい」
そのとき、消防団が校庭に飛び込んだ。わけもわからず拾い上げた女学生を叱りつけ、散らばる伝単を拾い集めた。
「いかん! こんなん持っとったら、憲兵さんに捕まってしまうわ。早う渡しに行こう」
すると夏子は伝単を手早く畳んで、紙飛行機にして外へと飛ばした。
「日本の空は、日本のものや。アメリカの勝手にさせるかい」
紙飛行機は風に乗り、校庭を何度も何度も旋回していた。消防団はそれが伝単だと気づき、空を仰いで両手を伸ばして追い回す。
春風に窓がカタカタ鳴ると紙飛行機はふわりと舞って、どこか遠くへ消え去ってしまった。
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