椰子の実ひとつ -電車の女学校-

山口 実徳

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昭和二十年

第60話・授業

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 どの学校でも授業がなくなり、その時間は軍需工場での勤労奉仕や校庭での畑仕事に費やされていた。
 だから、家政女学校だけが半分授業を継続するのは体裁が悪いし、実際に男性社員が次々と徴兵されて乗務員が足りないのだから、授業が削られ乗務に変わるのは仕方ない。むしろこの状況でも、わずかながら授業があるだけマシだと思えた。

 それでも授業のため校舎に入れば、ついつい口から歓喜が溢れてしまう。
「久しぶりの授業じゃね!」
 美春は廊下で身体を伸ばし、故郷にでも帰ったような笑みを浮かばせた。夏子も千秋も、同じ顔をして並んでいる。
「せっかくの授業でも、お花やねんな。生け花は苦手やねん」
「夏子ちゃんは、お花をたくさん生けたいんじゃね? 花束みたいにしよるけぇ、生けた花が窮屈になってしまうんよ」

 千秋に痛いところを突かれた夏子は、はにかむほかなく頭を掻いた。すると美春はくるりと身体をひるがえし、ふたりの行く手を嬉々として阻んだ。
「うち、夏子ちゃんのお花が好きじゃ! 余ったら、うちのをあげる!」
 美春が生けると、どういうわけだかゆわいた髪と同じようにザンバラになってしまう。野に咲く姿そのままだったが、間引きしたほうが丁度いい。
「ありがとう、美春ちゃん。でも、やりすぎたら一輪挿しになってしまうで?」
「それは寂しくて嫌じゃ、三つは欲しいわ」
「美春ちゃんと夏子ちゃん、うちの三つね?」
 弾むような千秋の言葉に、美春も夏子も満開の花を咲かせた。教室の前で笑みを交わす三人は、寄り添い合って風に踊るあやめ、菖蒲、杜若かきつばた
 季節柄、今日の花もそれのどれかと思わせた。

 しかし、教室の扉を開いて視界に飛び込んだのは、萎れた花道の先生だった。
「ごめんねぇ、花がないんよ」
 晴れやかだった三人の身体に満ちた潤いが、瞳に集ってあっという間に萎れてしまった。教室を覗くと、同じように枯れてしまった同級生がどんより席についている。
 花はなくとも花道の授業はあるのだと、しょんぼりしたまま三人娘も席につく。しかし一体、何を学ぶというのだろう。その疑問は先生にとっても同じことで、戸惑う生徒を前にして詮無く考えあぐねいた末
「それじゃあ今日は、バケツリレーでもしようかねぇ。花の種が飛んでおったら、学校に根づいて咲くかもしれんよ」
 少女たちは落胆を抱き、花咲き誇る女学校を夢見て校庭へと向かっていった。

 *  *  *

 次の授業は音楽だ。出勤時の行進で思い思いの歌を楽しんでいたが、ア・カペラなので気持ちを鼓舞するだけである。
 音楽室ならピアノの伴奏に合わせて歌えるし、先生にお願いすればピアノを弾かせてもらえる。
 歌を愛する女学生にとって、楽しみにしている授業のひとつであった。

 いそいそと音楽室へ向かっていると、引き戸が外されているのが目に入った。何があったのかと眉をひそめて観察すると、ピアノが廊下へと運び出されて、それを先生が名残惜しそうに見送っていた。
「先生、ピアノが……」
「接収されたんよ。ピアノは金属を使っておるでしょう? 鉄砲の弾にでもなるんかねぇ」
 少女たちも、お国のために出征していくピアノをじっと見つめた。姿が消えて、時が動くと千秋が悲哀を露わに先生へ詰め寄った。
「それじゃあ、もうピアノは弾けんのですか?」
「そうねえ……吉川さん、上達しとったけぇ……残念じゃねぇ」

 しょんぼりしたのは、千秋だけではない。美春はうつむき、噛んだ唇を小さく開いた。
「千秋ちゃんのピアノ、優しくて好きじゃったんに……」
「お国のためや。『欲しがりません勝つまでは』、勝ってアメリカから取り返そう」
 夏子は美春の肩を抱き、父もピアノも奪われた千秋を人垣越しに慈しんだ。
 先生は重たい空気を払うように手を叩き、痛々しく声を弾ませた。
「今日は、みんなが好きな歌を歌いましょう! 軍歌でも流行歌でもええ、出勤のときに歌っとる歌を先生に聴かせてください!」

 *  *  *

 最後の授業は、この家政女学校を志すきっかけとなったタイプライターである。裕福な家であっても、そうそう置いているものではないし、タイプライターを扱えると聞けば名の知れた大企業から引く手数多あまた。卒業したらタイピストになりたいと夢見る少女も多くいた。
 ピアノがなくなった時点で想定はしていたものの、教室のガランとした光景を目にして悲壮感に苛まれずにはいられなかった。
「出征してしもうたんか……」
「ピアノと一緒に接収されてしまったんよ。先生がタイプを書き写したけぇ、これで我慢してね」

 不揃いのペラペラなタイプがひとりひとり配られた。お国を守る船や戦車に生まれ変わるのだ、接収されると聞いてから先生ひとりで書き写したのだ、そう考えると滲む口惜しさを掻き消すしかない。
 席についた女学生がそれを机に広げると、先生が例文を黒板に書きつけた。それは、望郷の想いに溢れた親へ送る手紙だった。
「これをタイプしてもらおうと思うとったんよ。タイプライターで打った手紙をもろうたら、親御さんも喜ぶと思うてね」

 トントントン……。
 細い指が机を叩く。いくら打っても印字された手紙は出ず、空虚だけが机の上から広がった。
「みんな! 手を止めて!」
 先生が、悲痛な叫びを上げた。少女たちは一心不乱に動かしていた指を止め、教壇に落とされた視線を見つめた。
「もう……やめよう。書かれん手紙を書いても、意味なんかないわ」
 押し殺していた虚しさが膨れ上がり潰されて、少女たちは光の届かぬ水底みなそこへ沈んでいった。

 しかし、美春が光を差した。
「先生、やらせてください! タイプライターを覚えたいし、こんなにええ文章、うちには書けません! タイプが終わったら、うちにこの手紙を書かせてください!」
 先生は顔を覆った白い指の隙間から、一筋の雫をしたたらせた。少女たちは紙のタイプを指先でトントントン……と叩き続けた。
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