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昭和十九年
第53話・千秋②
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女学校に帰った千秋は方々に礼を尽くして、息つく間もなく電鉄本社に向かっていった。美春と夏子は校門で寂しそうに見送るのみである。
「大丈夫かねぇ、千秋ちゃん。気ぃ落としとるんと違うんかね」
「千秋ちゃんの家の話や、うちらが着いていっても多勢に無勢やで」
ふたりの憂いが後ろ髪を絡め取る。千秋はそれを払うように、足早に御幸橋を渡っていった。
正面から轟音が響いた、電車だ。よっこらしょっと橋を登ると警鐘が一回だけ鳴らされた。
千秋の師匠だ。真っ直ぐ前を見据えているが、視線が一瞬だけ交わされた。千秋はその場で立ち止まり、電車に向かって深々と頭を下げた。
再び鐘が一回だけ鳴り、黄色い声が千秋の鼓膜を突いた。
「師匠ー! お帰りなさーい!」
千秋の弟子、幸子だ。師匠と弟子が組んでいるのが可笑しくて、喪に服しているのも忘れたように手を振った。電車が橋を乗り越えて、見えなくなるまで手を振り続けた。
「ただいまー!」
電車が街角に潜り込んで姿を消すと、入れ替わりに対向電車が現れた。降ろした手を胸に当て、過ぎゆく電車を目で追った。
瞬間、火花が散った。
車掌を勤めるのは、挺身隊の少女。千秋の過去まで見透かして薄ら笑いを浮かべていた。
電車が街に呑まれると千秋の時計が動き出し、唇を固く結んで一歩、また一歩と御幸橋を踏みしめていった。
「吉川君、もう帰ってきたんか!」
「初七日が済んどらんじゃろう?」
「ええんか、戻ってきてしまって」
事務所に入るなり、乗務員も監督さんも驚きを露わにして千秋を囲んだ。寄り添うような憂慮とともに微かな喜びも感じ取れ、申し訳ない気持ちと居場所がある安心感が溶けることなく混じり合い、どんな顔をすればいいのか困ってしまった。
「家のことは、母がやると言ってました。うちの務めは、お国のために働くことです」
「大変なときに、すまんのう。ただしばらく休みにしとったけぇ、吉川君の次の乗務は……」
「監督さん、四十九日があるじゃろう? 日取りを聞いとかんと」
「待て待て焦るな、一ヶ月以上先じゃないんか。まずは順を追ってじゃのう……」
騒がしい男たちの垣根を割って、少女が千秋の前に躍り出た。そのただならぬ雰囲気に、男たちは固唾を呑んで見守るしかない。
「吉川さん、帰ってきたんね?」
棘があった。千秋は指に刺さったように、一瞬だけ顔を歪めた。
「はい、今さっき……」
「ご尊父様は、お国のために尽くされたそうで。お悔やみ申し上げます」
少女は、ふたりにしかわからない針のむしろを覆いかぶせた。怯んだように身体を縮める千秋であったが、内なる炎が燻っていた。
「お話があります、ここでは憚られるので外へ」
ふたりが対峙したのは車庫の裏、変電所の前。ここであれば、乗務員の目に触れない。
先に口を開いたのは千秋だった。
「父の事業で、多大なご迷惑をお掛けしました」
これ以上ないほど頭を下げる千秋であったが、少女は一歩も譲らない。ふたりの間に混沌とした静寂が湧き立ち、漂っている。
「ええわ、もう。うちも特需で立ち直ったけぇ。ほんで吉川さん、何で広島に帰ってきたん?」
千秋は爪先を睨み、唇を噛んだ。少女はそれを目にしても、苛立ちを露わに腕を組み攻めの姿勢を崩さなかった。
「技師さんじゃあ、後方におったんと違うんか? そう攻められやせんじゃろう」
千秋は顔を上げて、噛んだ唇をそっと開いた。熱をもった千秋の瞳に少女は思わずたじろいで、組んだ腕を解いてしまう。
「引き揚げの最中、八路軍の奇襲に遭ったと戦友の方から伺っています」
「へぇ。……そうなん」
少女が#__かげ__#った。亡き父を背負った千秋は、姿勢を一切崩そうとしない。
「通信兵として、身体を張って通信機を守ろうとしたそうです。商売が不得手な父でしたが、技師としての技量と誇りは、誰にも負けておりませんでした」
千秋の瞳が少女を焼き尽くそうとしたときだ、聞き慣れた声が矢のように飛んできた。
「英霊に無礼を働くなや!」
夏子、そして美春だ。千秋は鎮まり、ふたりによって日常へと引き戻された。
「気になって、追ってしまったわ。立ち聞きしてごめんね」
「千秋ちゃん、いつから乗るん? 早う組みたいわ」
「ごめんねぇ、まだ聞いとらんのよ。これが終わったら確認せんとね。それと四十九日は帰らなぁいかんけぇ、それも監督さんに言わんと」
千秋はふたりから離れ、少女を見つめた。熱が冷め、泉のように澄んだ瞳は、空の彼方まで吸い込んでしまいそうだった。
「うちは、広島が好きです。ただそれだけです。お願いです、うちを広島に居させてください」
幼稚にも聞こえる懇願に呆れながらも、千秋の真っ直ぐな瞳を避けるように、美春や夏子と視線を交わさぬようにして、辺りに覆う空虚を少女は泳いだ。
「はぁっ!? そんなん……そんなん、うちが許可することじゃあないわ! 勝手にしたらええ!」
美春と夏子が歩み寄り、千秋の手を無理矢理に掴み取る。
「千秋ちゃん、次の乗務の相談じゃ! 監督さんのところに行こう!」
「法要の日取りは決まっとるん? 早う手ぇ打たなぁ帰れんようになってまうで」
弾むように手を引かれ、千秋はその場をあとにした。恥辱と羨望の眼差しが無数に刺さってきたものの、美春と夏子がそばにいれば他愛もない。かけがえのないふたりと、その向こうに並ぶ線路を千秋はしみじみと噛み締めていた。
「大丈夫かねぇ、千秋ちゃん。気ぃ落としとるんと違うんかね」
「千秋ちゃんの家の話や、うちらが着いていっても多勢に無勢やで」
ふたりの憂いが後ろ髪を絡め取る。千秋はそれを払うように、足早に御幸橋を渡っていった。
正面から轟音が響いた、電車だ。よっこらしょっと橋を登ると警鐘が一回だけ鳴らされた。
千秋の師匠だ。真っ直ぐ前を見据えているが、視線が一瞬だけ交わされた。千秋はその場で立ち止まり、電車に向かって深々と頭を下げた。
再び鐘が一回だけ鳴り、黄色い声が千秋の鼓膜を突いた。
「師匠ー! お帰りなさーい!」
千秋の弟子、幸子だ。師匠と弟子が組んでいるのが可笑しくて、喪に服しているのも忘れたように手を振った。電車が橋を乗り越えて、見えなくなるまで手を振り続けた。
「ただいまー!」
電車が街角に潜り込んで姿を消すと、入れ替わりに対向電車が現れた。降ろした手を胸に当て、過ぎゆく電車を目で追った。
瞬間、火花が散った。
車掌を勤めるのは、挺身隊の少女。千秋の過去まで見透かして薄ら笑いを浮かべていた。
電車が街に呑まれると千秋の時計が動き出し、唇を固く結んで一歩、また一歩と御幸橋を踏みしめていった。
「吉川君、もう帰ってきたんか!」
「初七日が済んどらんじゃろう?」
「ええんか、戻ってきてしまって」
事務所に入るなり、乗務員も監督さんも驚きを露わにして千秋を囲んだ。寄り添うような憂慮とともに微かな喜びも感じ取れ、申し訳ない気持ちと居場所がある安心感が溶けることなく混じり合い、どんな顔をすればいいのか困ってしまった。
「家のことは、母がやると言ってました。うちの務めは、お国のために働くことです」
「大変なときに、すまんのう。ただしばらく休みにしとったけぇ、吉川君の次の乗務は……」
「監督さん、四十九日があるじゃろう? 日取りを聞いとかんと」
「待て待て焦るな、一ヶ月以上先じゃないんか。まずは順を追ってじゃのう……」
騒がしい男たちの垣根を割って、少女が千秋の前に躍り出た。そのただならぬ雰囲気に、男たちは固唾を呑んで見守るしかない。
「吉川さん、帰ってきたんね?」
棘があった。千秋は指に刺さったように、一瞬だけ顔を歪めた。
「はい、今さっき……」
「ご尊父様は、お国のために尽くされたそうで。お悔やみ申し上げます」
少女は、ふたりにしかわからない針のむしろを覆いかぶせた。怯んだように身体を縮める千秋であったが、内なる炎が燻っていた。
「お話があります、ここでは憚られるので外へ」
ふたりが対峙したのは車庫の裏、変電所の前。ここであれば、乗務員の目に触れない。
先に口を開いたのは千秋だった。
「父の事業で、多大なご迷惑をお掛けしました」
これ以上ないほど頭を下げる千秋であったが、少女は一歩も譲らない。ふたりの間に混沌とした静寂が湧き立ち、漂っている。
「ええわ、もう。うちも特需で立ち直ったけぇ。ほんで吉川さん、何で広島に帰ってきたん?」
千秋は爪先を睨み、唇を噛んだ。少女はそれを目にしても、苛立ちを露わに腕を組み攻めの姿勢を崩さなかった。
「技師さんじゃあ、後方におったんと違うんか? そう攻められやせんじゃろう」
千秋は顔を上げて、噛んだ唇をそっと開いた。熱をもった千秋の瞳に少女は思わずたじろいで、組んだ腕を解いてしまう。
「引き揚げの最中、八路軍の奇襲に遭ったと戦友の方から伺っています」
「へぇ。……そうなん」
少女が#__かげ__#った。亡き父を背負った千秋は、姿勢を一切崩そうとしない。
「通信兵として、身体を張って通信機を守ろうとしたそうです。商売が不得手な父でしたが、技師としての技量と誇りは、誰にも負けておりませんでした」
千秋の瞳が少女を焼き尽くそうとしたときだ、聞き慣れた声が矢のように飛んできた。
「英霊に無礼を働くなや!」
夏子、そして美春だ。千秋は鎮まり、ふたりによって日常へと引き戻された。
「気になって、追ってしまったわ。立ち聞きしてごめんね」
「千秋ちゃん、いつから乗るん? 早う組みたいわ」
「ごめんねぇ、まだ聞いとらんのよ。これが終わったら確認せんとね。それと四十九日は帰らなぁいかんけぇ、それも監督さんに言わんと」
千秋はふたりから離れ、少女を見つめた。熱が冷め、泉のように澄んだ瞳は、空の彼方まで吸い込んでしまいそうだった。
「うちは、広島が好きです。ただそれだけです。お願いです、うちを広島に居させてください」
幼稚にも聞こえる懇願に呆れながらも、千秋の真っ直ぐな瞳を避けるように、美春や夏子と視線を交わさぬようにして、辺りに覆う空虚を少女は泳いだ。
「はぁっ!? そんなん……そんなん、うちが許可することじゃあないわ! 勝手にしたらええ!」
美春と夏子が歩み寄り、千秋の手を無理矢理に掴み取る。
「千秋ちゃん、次の乗務の相談じゃ! 監督さんのところに行こう!」
「法要の日取りは決まっとるん? 早う手ぇ打たなぁ帰れんようになってまうで」
弾むように手を引かれ、千秋はその場をあとにした。恥辱と羨望の眼差しが無数に刺さってきたものの、美春と夏子がそばにいれば他愛もない。かけがえのないふたりと、その向こうに並ぶ線路を千秋はしみじみと噛み締めていた。
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