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昭和十九年
第52話・千秋①
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美春と夏子は休日を利用して、女学校裏の道路に建設中の新たな線路を辿って北上していった。
「線路敷いてるわ! 見に行こう!」
「待って、夏子ちゃん!」
堪らず駆け出す夏子の後を、美春が慌てて追いかける。着いた先では電鉄社員が掘り返した道路にレールを敷いて、その頭だけを出すように石畳で蓋をしていた。
「伸びゆく線路、伸びゆく広島電鉄じゃね!」
「兵隊さんを早う運べるで。江波線も造船所まで伸びたらええのになぁ」
惚れ惚れとして見ていると、気づいた社員が声を掛けた。あまり関わりのない保線係に、ふたりは思わず背筋を伸ばした。
「家政女学校の女学生さんかいな、勉強とは感心じゃのう」
「鉄は貴重なんに、よう回ってきましたね!」
「ああ、これは宮島線から剥がしたレールじゃ。遊興よりも兵隊さんを運ぶのが優先じゃけぇ」
ふたりは息が詰まったように顔を歪めた。来年の新入生を宮島まで連れて行くんは、難儀しそうやね……そう視線を交わして、すごすごとその場を離れていった。
そのうち左に京橋川、右には鬱蒼とした緑の丘が迫ってきた。
「比治山公園じゃ! みんなでお花見したとき、ここを歩いたね!? 思い出したわ!」
「来年の春は、電車に乗ってお花見やね!」
桜の花が咲き誇る丘の上、ゴザを敷いて弁当を広げ、花を愛でるいつもの三人が思い浮かぶ。
だが今はふたり、千秋がいない。ふたりの間を薄ら寒い秋風が吹き抜けていった。
暖を取れるわけでもないのに、口をついて出てしまう。たとえそれが寒々しい言葉であっても。
「お花見、三人で行けるよね……」
美春の呟きを夏子は激しく拒絶した、まるで光を通さぬ靄を払うように。
「行けるて! 桜が咲くまで、何ヶ月も先やねんで?」
祈るような夏子の視線が痛くて、美春はふいっと目を逸らした。夏子は小さくなった美春の肩に縋りつき、噛んだ唇を薄く開いた。
「千秋ちゃんは家の話をあんまりせぇへん。広島の家がどこにあったかも、はぐらかしとる。何か言えない事情があるんや。……うちかて、事情があって家政女学校に入った。働いて学費を稼ぐ学校や、うちや千秋ちゃんみたいな娘もおる」
家が貧しい、勉強したい、それだけで家政女学校を志望したことに、美春は後ろめたさを感じていた。察した夏子は笑顔を作って、わざわざ声を弾ませた。
「千秋ちゃんは必ず帰ってくる! 初七日が終わったら、千秋ちゃん帰ってくるわ! ……四十九日かも知れんけど。家政女学校におれば、仕送りが出来んねんで!?」
「……うちはお父さんの腕一本だけが頼りの漁師じゃけぇ。もしうちが同じことになったら、電車の稼ぎだけじゃあ足らんけぇ、学校を辞めて働くかも知れんわ……」
美春が消え入るようにうつむくと、夏子も同じようにした。徴用された父が仕事を失えば、美春の言うとおり学校を辞めて働かなければならないだろう。出来る仕事が限られた立場であるから、それが命取りになるかも知れない。
勉強だけの、学費を収められる家の娘ばかりが通う女学校とは異なる苦悩に、ふたりは苛まれていた。
「……行こうか」
「……うん」
ふたりは背中を丸めて、まだ見ぬ線路に沿って歩き出した。話をしても、ちっとも弾んではくれない。
「真っ直ぐやさかい、見通しがええね」
「そうじゃねぇ……」
「橋のたもとが坂になっとる、これは難所やね」
「ほうじゃねぇ……」
そのうち、ふたりから言葉がなくなった。ようやく口を開いたときには、広島駅がもう近い。
「的場町から線路が別れるんかな」
「そうみたいじゃねぇ……」
「女学校の近くに停留所が出来たら、早う帰って来れるね」
美春は返事をしなかった。早く帰って来れるのは女学校だろうか、それとも家だろうか、と。
突然、美春が総毛立ちして走り出した。動揺しながら追いかけるうち、夏子の期待感が張り裂けんばかりに膨らんできた。
「千秋ちゃん! お帰り!」
そう、千秋だ。広島に帰ってきたのだ。
膝に手をつき息を切らせるふたりを前に、千秋は狼狽えつつも次第に笑みを浮かばせた。
「ただいま、美春ちゃん、夏子ちゃん」
「もう、ええの? 初七日もまだじゃないん?」
呼吸を整えて掛けられた声には、喜びと心配が混じり合っていた。千秋はもう、それだけで嬉しくて嬉しくて、熱くなった目頭から涙がほとばしらぬよう堪えることで精一杯だった。
「お母さんが『行きんさい』って……」
それから千秋は、喉にしこりがあるように言葉を詰まらせた。美春も夏子も掛ける言葉を探しているが、何ひとつ浮かばず見つからない。
行き交う人波に押し出され、夏子が顔を上げて堰を切った。
「千秋ちゃん、帰ろう。うちらの家に」
曇り空のような千秋の瞳に虹が架かった。それはすぐさま閉ざされて、目頭から小さな雨が降りはじめた。
「そうじゃね、帰ろうか。学校にも会社にも挨拶せないかんね」
千秋が帰ってきた。そう噛み締めた美春は蕾がパッと弾けるような笑顔を見せた。
「そうじゃ! 千秋ちゃん聞いて! うち、運転士になったんよ!」
「そうなん!? おめでとう、美春ちゃん!」
千秋は美春の両手を掴み取り、いつもの穏やかさからは想像もつかないほど歓喜した。それは何かを振り払っているようにも映り、夏子は笑みを湛えて慈しんだ。
「ほな、電車で帰ろうか。千秋ちゃん、疲れたんと違う?」
「ううん、自分の脚で行きたいんよ」
「ほんじゃあ、みんなで歩いて行こう! 新しい線路に沿っていけば、学校の裏に出るんよ!?」
三人は互いに微笑み合うと、まだ見ぬ線路を南へ南へ歩いて行った。
「線路敷いてるわ! 見に行こう!」
「待って、夏子ちゃん!」
堪らず駆け出す夏子の後を、美春が慌てて追いかける。着いた先では電鉄社員が掘り返した道路にレールを敷いて、その頭だけを出すように石畳で蓋をしていた。
「伸びゆく線路、伸びゆく広島電鉄じゃね!」
「兵隊さんを早う運べるで。江波線も造船所まで伸びたらええのになぁ」
惚れ惚れとして見ていると、気づいた社員が声を掛けた。あまり関わりのない保線係に、ふたりは思わず背筋を伸ばした。
「家政女学校の女学生さんかいな、勉強とは感心じゃのう」
「鉄は貴重なんに、よう回ってきましたね!」
「ああ、これは宮島線から剥がしたレールじゃ。遊興よりも兵隊さんを運ぶのが優先じゃけぇ」
ふたりは息が詰まったように顔を歪めた。来年の新入生を宮島まで連れて行くんは、難儀しそうやね……そう視線を交わして、すごすごとその場を離れていった。
そのうち左に京橋川、右には鬱蒼とした緑の丘が迫ってきた。
「比治山公園じゃ! みんなでお花見したとき、ここを歩いたね!? 思い出したわ!」
「来年の春は、電車に乗ってお花見やね!」
桜の花が咲き誇る丘の上、ゴザを敷いて弁当を広げ、花を愛でるいつもの三人が思い浮かぶ。
だが今はふたり、千秋がいない。ふたりの間を薄ら寒い秋風が吹き抜けていった。
暖を取れるわけでもないのに、口をついて出てしまう。たとえそれが寒々しい言葉であっても。
「お花見、三人で行けるよね……」
美春の呟きを夏子は激しく拒絶した、まるで光を通さぬ靄を払うように。
「行けるて! 桜が咲くまで、何ヶ月も先やねんで?」
祈るような夏子の視線が痛くて、美春はふいっと目を逸らした。夏子は小さくなった美春の肩に縋りつき、噛んだ唇を薄く開いた。
「千秋ちゃんは家の話をあんまりせぇへん。広島の家がどこにあったかも、はぐらかしとる。何か言えない事情があるんや。……うちかて、事情があって家政女学校に入った。働いて学費を稼ぐ学校や、うちや千秋ちゃんみたいな娘もおる」
家が貧しい、勉強したい、それだけで家政女学校を志望したことに、美春は後ろめたさを感じていた。察した夏子は笑顔を作って、わざわざ声を弾ませた。
「千秋ちゃんは必ず帰ってくる! 初七日が終わったら、千秋ちゃん帰ってくるわ! ……四十九日かも知れんけど。家政女学校におれば、仕送りが出来んねんで!?」
「……うちはお父さんの腕一本だけが頼りの漁師じゃけぇ。もしうちが同じことになったら、電車の稼ぎだけじゃあ足らんけぇ、学校を辞めて働くかも知れんわ……」
美春が消え入るようにうつむくと、夏子も同じようにした。徴用された父が仕事を失えば、美春の言うとおり学校を辞めて働かなければならないだろう。出来る仕事が限られた立場であるから、それが命取りになるかも知れない。
勉強だけの、学費を収められる家の娘ばかりが通う女学校とは異なる苦悩に、ふたりは苛まれていた。
「……行こうか」
「……うん」
ふたりは背中を丸めて、まだ見ぬ線路に沿って歩き出した。話をしても、ちっとも弾んではくれない。
「真っ直ぐやさかい、見通しがええね」
「そうじゃねぇ……」
「橋のたもとが坂になっとる、これは難所やね」
「ほうじゃねぇ……」
そのうち、ふたりから言葉がなくなった。ようやく口を開いたときには、広島駅がもう近い。
「的場町から線路が別れるんかな」
「そうみたいじゃねぇ……」
「女学校の近くに停留所が出来たら、早う帰って来れるね」
美春は返事をしなかった。早く帰って来れるのは女学校だろうか、それとも家だろうか、と。
突然、美春が総毛立ちして走り出した。動揺しながら追いかけるうち、夏子の期待感が張り裂けんばかりに膨らんできた。
「千秋ちゃん! お帰り!」
そう、千秋だ。広島に帰ってきたのだ。
膝に手をつき息を切らせるふたりを前に、千秋は狼狽えつつも次第に笑みを浮かばせた。
「ただいま、美春ちゃん、夏子ちゃん」
「もう、ええの? 初七日もまだじゃないん?」
呼吸を整えて掛けられた声には、喜びと心配が混じり合っていた。千秋はもう、それだけで嬉しくて嬉しくて、熱くなった目頭から涙がほとばしらぬよう堪えることで精一杯だった。
「お母さんが『行きんさい』って……」
それから千秋は、喉にしこりがあるように言葉を詰まらせた。美春も夏子も掛ける言葉を探しているが、何ひとつ浮かばず見つからない。
行き交う人波に押し出され、夏子が顔を上げて堰を切った。
「千秋ちゃん、帰ろう。うちらの家に」
曇り空のような千秋の瞳に虹が架かった。それはすぐさま閉ざされて、目頭から小さな雨が降りはじめた。
「そうじゃね、帰ろうか。学校にも会社にも挨拶せないかんね」
千秋が帰ってきた。そう噛み締めた美春は蕾がパッと弾けるような笑顔を見せた。
「そうじゃ! 千秋ちゃん聞いて! うち、運転士になったんよ!」
「そうなん!? おめでとう、美春ちゃん!」
千秋は美春の両手を掴み取り、いつもの穏やかさからは想像もつかないほど歓喜した。それは何かを振り払っているようにも映り、夏子は笑みを湛えて慈しんだ。
「ほな、電車で帰ろうか。千秋ちゃん、疲れたんと違う?」
「ううん、自分の脚で行きたいんよ」
「ほんじゃあ、みんなで歩いて行こう! 新しい線路に沿っていけば、学校の裏に出るんよ!?」
三人は互いに微笑み合うと、まだ見ぬ線路を南へ南へ歩いて行った。
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