椰子の実ひとつ -電車の女学校-

山口 実徳

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昭和十九年

第49話・ハンドル②

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 ラチェットを踏みつけた爪先を左へずらして、ブレーキハンドルを緩解かんかい直前まで回す。
「車庫は平らじゃけぇ、完全に緩めてしまっても大丈夫よ?」
「これが癖になってしまったら、本線で転がってしまうわい。どんなところでも、ブレーキを残すようにせんといかんわ」
 気持ちや考え方まで、美春はすっかり運転士である。経験を積んだ裏返しの甘さを千秋は静かに反省し、美春を通して初心にかえった。
「いかん……寒気がしてきたわ」
「千秋ちゃん、大丈夫かね?」
「大丈夫よ、続けて」

 美春がコントローラの根本を掴むと、いつでもブレーキをかけられるようにと千秋が身構えた。
「進路はええ? 開いておる?」
「うん、あの空いたところじゃろう? ちゃんと開通しておるわ」
「すぐそこじゃけぇ、1ノッチだけでええよ?」
「うん、速う走ったら追突してしまうね」
「1ノッチ入れたら、すぐにオフするんよ?」
「わかっとる、ほんでブレーキの準備じゃね」
「速度が低いけぇ、ブレーキはあんまり締めんでええんよ?」
「わかっとるよ、軽く当てる程度じゃね?」
 知識だけで運転経験のない美春、運転士としては指導経験のない千秋。そのふたりが立つ運転台は、緊張感で空気までもが固くなっている。

 美春がラチェットを踏みしめて、ブレーキハンドルをしかと握った。
「行くよ、千秋ちゃん」
「何かあったら、うちがすぐ停めるよ」
「わかった。でも、うちが頑張って停めるわ」
 ラチェットを解放し、ブレーキを緩めてコントローラに力を込める。
「……あれ? 回らん」
「カムを直接回すけぇ、重いんよ」
「ほんまじゃ……くっ……硬いわ……」
「そんなに硬かったかねぇ。根本を掴んどるから力が入らんのじゃろうか?」
 美春はぐっと踏ん張り歯を食いしばり、力一杯ハンドルを回した。
「あっ!」
「えっ?」
 勢い余って、直列四段の全段を投入した。

 コントローラが火を吹いた。

 尻餅ついた美春と千秋は海老のように後退あとずさり、燃え上がるコントローラを抱き合ったまま見つめることしか出来なかった。
「千秋ちゃん、電車は爆発せんのじゃないん!?」
「うち、知らんかったんよ!」
「お師匠さんが怒ってたんは、これなんね!?」
「身をもってわかったわ!」
「師匠の教えは絶対じゃねぇ!?」
「そんなん言うてる場合じゃないわ!」

 そのとき、後扉から夏子が車内に飛び込んだ。
「ポールは下げた! あとは火を消すだけや! ふたりとも、下がって!!」
 火に包まれたコントローラに提げていたバケツの水をひと息に浴びせた。断末魔の叫びを上げて炎は消え失せ、シュウシュウと恨み言を繰り返していた。

 空になったバケツを提げた手を腰に当て、夏子はやれやれと眉をひそめた。
「まったく……どないしたんや?」
「全段投入してしもうたんよ……」
「そら、あかん。いきなり大電流を流してしもうたら、コントローラが耐えきれなくなってしまうねん。そんで、今みたいに燃えてしまうんや」
「運転士さんが1ノッチずつカチカチ入れとったのは、ちゃんと意味があるんじゃねぇ……」
「そこまで教えてもらいたかったわ」
 夏子が呆れた溜め息をつくと、美春と千秋からヘナヘナと力が抜けていった。

「どうした! どうした!」
 事務所から監督さんや乗務員、果ては経理までもが飛び出してきた。妙なところで立ち往生する電車を認め、一目散に駆け寄ってくる。
「いかん……えらいことをしてしまったわ……」
 美春は真っ黒焦げになったコントローラに目を向けて、再び戦慄した。さっきよりも青ざめて、歯をガチガチと鳴らすほどに震えている。
「大丈夫か!?」
「誰かおるんか!?」
「森島君! 怪我はないんか!?」

 電車を壊しておきながら、みんなが心配するものだから、美春の胸は息苦しいほどギュッと詰まって、絞り出されるように涙が溢れ、張り裂けんばかりに嗚咽を漏らした。
「ごめんなさい! 電車を壊してしまったぁ!」
「ん? 電車?」
 大人がみんな一斉に、運転台に目を向けた。黒焦げのコントローラが水浸しになっており、意味を解して深い深い溜め息をついた。
「全段投入しよったんか」
「明日、検査する電車じゃないんか?」
「ははぁ、とどめを刺してくれたんかいのう」
 興奮から急転直下、安心して妙な気分になった大人たちは不思議な安堵に包まれていた。

 ともかく怪我がなくてよかったと砕けた笑いを響かせた。わんわん泣きじゃくる美春をなだめ、鎮火させた夏子を労い、それから呆然とする千秋に気づいた。
「ここにおったんか、吉川君……」
 美春は泣くのをピタリとやめて、オロオロしながら千秋の元へと歩み寄った。
「千秋ちゃんと違うんじゃ。電車を壊したんは、うちなんじゃ。千秋ちゃんは、うちに運転させてくれただけじゃけぇ、何も悪く……」
 千秋の無実を訴えながら自首する美春に、監督さんが硬い視線を向けた。美春を咎めようとする目つきではない、もっと重大なことが起きているのだ。

「吉川君、早う知らせられんで申し訳ない」
「……何ですか? 監督さん」
「ええか、落ち着いて聞けよ」
 慎重に言葉を選ぶ監督さんと、唇を固く結んでうつむく大人たちが醸し出す不穏な空気が、受け入れられない覚悟を決めろと千秋に迫った。
「君のお父さんが亡くなったんじゃ」
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