椰子の実ひとつ -電車の女学校-

山口 実徳

文字の大きさ
上 下
48 / 82
昭和十九年

第48話・ハンドル①

しおりを挟む
 午前の授業を終えて昼食を摂り、並んで軍歌を歌って会社へ向かう。勇ましい歌に鼓舞されて、直談判する意気を高めた美春は、事務所に入ってすぐに肩透かしを食らってしまった。
「冬先生は乗務されとるんですか?」
「病欠者が出てしまってのう。言伝ことづてがあるなら、わしが聞いておくが」
 直接話をしなければ意味がない、急いては事を仕損じる、美春はそう思って監督さんの申し出を丁重に断った。

「ええんか? 大事なことじゃないんかい」
「大事なことじゃけぇ、自分の口から言いたいんです。それに、うちと入れ違えで冬先生の乗務が終わります。あんまり待たせてしまうのも申し訳ないんで、忘れてください」
 美春が乗務をはじめてすぐ、冬先生が運転する電車とすれ違った。一瞬だけ覗いた冬先生の顔からは、無事に乗務を終えられそうな安堵が微かに滲み出ていた。

 いきなり乗って、無事に終わったところで気になる話をされてしまっては迷惑じゃけぇ。時機を窺えばええだけじゃ。

 これが気持ちの余裕となって、美春はひとつも失敗をせず乗務が出来た。組んだ運転士からも
「今日の森島君は、ええ仕事しよるのう」
と褒められた。意地の悪い言い方をすれば日頃の失敗が多すぎるのだが、車掌としての自信が運転士への希望の光に繋がって、美春にとって非常に気分のいい一日となった。

 物音少ない夜遅く、本社前で電車を降りて美春の乗務が終わった。車庫に電車を仕舞うのは運転士の仕事、車掌の美春は分岐器ポイントを切り替えてから精算をしに事務所へ向かう。
「うん、合っとるね。森島君、ご苦労様」
 最後の最後まで綺麗に仕事を終えられて、美春はホッと頬を緩めた。乗務中はもちろんのこと、お金を扱う仕事だから精算の時間もなかなか緊張させられる。だから、経理とともに安堵する瞬間には堪えられないものがある。

 これで車掌の仕事はすべて終わり。だが運転士の仕事はまだ終わっていない。仕舞う電車が集中する時間だから、目的の場所に辿り着くまで時間が掛かってしまうのだ。
 せめて分岐器ポイントの切り替えだけでも手伝おうと事務所を出ると、組んでいた運転士がホッとした顔を見せていた。
「終わったんですか? すみません、手伝おうと思うとったんですが」
「ええよ、先が詰まっとっただけじゃけん。今日はご苦労様、また宜しくの」

 やる気の行き場を失って胸の内が寂寞とした、そのときだ。
 車庫入口で電車が停まり、女学生車掌が降りて運転士に挨拶をした。
「先輩、今日はありがとうございました。勉強も教えてくれて、助かりました」
「ご苦労様。わからんことがあったら、また遠慮せんで聞いてね」
 コロコロと鳴る鈴のような声、千秋だ。空虚に侵されていた美春の胸は、花咲く庭を歩くような歓びで埋め尽くされて、駆け寄らずにはいられなくなった。

「千秋ちゃん、お疲れ様! 一緒に帰ろう!」
「美春ちゃん、終わったんね。電車これ仕舞うけぇ、ちょっと待っとってね」
 と、言ったところで疑問が湧いた。自分の運転が、美春に何をもたらしたのかと。千秋は美春を手招きして電車に乗せた。
「冬先生に何を言おうとしとったん?」
 美春は身体を反って息を吸い、空気と自信で胸を膨らませた。
「そりゃあ、うちでも運転出来るいうのを証明したるんじゃ」

 何かあっても対応出来るようにと千秋は身体をブレーキハンドルの脇に避け、美春は期待されたとおり運転台に収まった。ところが美春は収まるばかりではなく、コントローラとブレーキの隙間に身体を押し込んだ。
「窓にピッタリ貼り付いたら、真下が見えるわ」
 ふたつのハンドルに挟まれて得意になる美春を見つめて「なるほどのぅ」と千秋は感心しきっている。
「えらい窮屈そうじゃけど、そんなでハンドルは回せるん?」
 美春は両腕を左右に伸ばし、ふたつのハンドルを掴んでみた。むっ……と唸り、息苦しそうに顔が歪む。
「ごめん、ちょっとしんどいわ」
「停まっとるときとか、非常時じゃったら、ええかも知れんよ? ほんで、どう運転するん?」
 隙間から抜けた美春は呼吸を整えてブレーキ、コントローラの順に手を伸ばす。千秋は、それは盲点だったと目を見張った。

「ノッチオフじゃあコントローラの握り玉は左端じゃ。これがうちには届かんかったが、ハンドルが回ったらええんじゃ、ここを掴んだらええ」
 美春はハンドルの根本と、そこから握り玉まで伸びる腕を掴んだ。確かに、回すだけならどこを掴んでも構わない。またハンドルの長さだけ距離を稼げるから、ブレーキハンドルに近くなる。
「うち、そんなところを掴んどった? 気づかんかったわ」
「普段はしてないよ? たまたまじゃ。小川も、こうやっとったのを思い出したわ。後ろからじゃあ、握り玉だけが回っとるように見えるけぇ、変じゃのう思うとったんよ」

 ハンドルを掴めて嬉しそうな美春を見るうち、悪魔に誘惑されたように千秋の胸がウズウズしてきた。そのうち堪らなくなり、ついに我慢の限界を超えた。
「美春ちゃん、運転してみる?」
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

腐れ外道の城

詠野ごりら
歴史・時代
戦国時代初期、険しい山脈に囲まれた国。樋野(ひの)でも狭い土地をめぐって争いがはじまっていた。 黒田三郎兵衛は反乱者、井藤十兵衛の鎮圧に向かっていた。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

悲恋脱却ストーリー 源義高の恋路

和紗かをる
歴史・時代
時は平安時代末期。父木曽義仲の命にて鎌倉に下った清水冠者義高十一歳は、そこで運命の人に出会う。その人は齢六歳の幼女であり、鎌倉殿と呼ばれ始めた源頼朝の長女、大姫だった。義高は人質と言う立場でありながらこの大姫を愛し、大姫もまた義高を愛する。幼いながらも睦まじく暮らしていた二人だったが、都で父木曽義仲が敗死、息子である義高も命を狙われてしまう。大姫とその母である北条政子の協力の元鎌倉を脱出する義高。史実ではここで追手に討ち取られる義高であったが・・・。義高と大姫が源平争乱時代に何をもたらすのか?歴史改変戦記です

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

よあけまえのキミへ

三咲ゆま
歴史・時代
時は幕末。二月前に父を亡くした少女、天野美湖(あまのみこ)は、ある日川辺で一枚の写真を拾った。 落とし主を探すべく奔走するうちに、拾い物が次々と縁をつなぎ、彼女の前にはやがて導かれるように六人の志士が集う。 広がる人脈に胸を弾ませていた美湖だったが、そんな日常は、やがてゆるやかに崩れ始めるのだった。 京の町を揺るがす不穏な連続放火事件を軸に、幕末に生きる人々の日常と非日常を描いた物語。

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

拾われ子だって、姫なのです!

田古みゆう
歴史・時代
南蛮人、南蛮人って。わたくしはれっきとした倭人よ! お江戸の町で与力をしている井上正道と、部下の高山小十郎は、二人の赤子をそれぞれ引き取り、千代と太郎と名付け育てることに。 月日は流れ、二人の赤子はすくすくと成長した。見目麗しい姿と珍しい青眼を持つため、周囲からは奇異の眼で見られる。こそこそと噂をされるたび、千代は自分は一体何者なのだろうかと、自身の出自について悩んでいた。唯一同じ青眼を持つ太郎と悩みを分かち合おうにも、何かを知っていそうな太郎はあまり多くを語らない。それがまた千代を悶々とさせていた。 そんな千代を周囲の者は遠巻きに見ながらも、その麗しさに心奪われる者は多く、やがて年頃の千代にも縁談話が持ち上がる。 しかし、当の千代はそんなことには興味がなく。寄ってくる男を、口八丁手八丁で退けてばかり。 果たして勝気な姫様の心を射止める者が、このお江戸にいるのかっ!? 痛快求婚譚、これよりはじまりはじまり〜♪

処理中です...