椰子の実ひとつ -電車の女学校-

山口 実徳

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昭和十九年

第47話・暁部隊③

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「うちと同じくらいチビな運転士じゃ。運転士になったそばから招集されたけぇ、ちっとも乗っておらんのじゃ」
 そう説明する美春は、どういうわけだか不機嫌である。その原因を知る夏子と千秋は、プリプリ怒る美春をチラリと覗い、こっそりと苦笑した。

 すると井上は、何かをひらめいたように頭上に灯る電球を見上げた。
「やたらまい、オドオドした奴がおったのう。確か電鉄の運転士じゃ言うとったわ」
「覚えとるの!? どんなじゃったん!?」
 美春はガバッと立ち上がった。井上は目を丸くして、羊羹を手にしたまま固まっている。
「お……おう。あんまりビクビクしよるけぇ、船に乗る前から上官にシバかれとったわ」
 それを聞いて、美春は悪戯っぽく嘲笑った。今すぐにでも「ざまあみろ」と言いそうである。

「ほんで、その小川がどうしたんじゃ?」
 井上が卓に羊羹を置くと、美春はそれに小川を映して、ゆっくりしずしずと語りだした。
「小川はチビでも……うちでも出来る運転を知っとる。ハンドルをどう扱ったらええ、真下の線路をどう見たらええ、電車のおでこについとる電球をどう変えたらええ……小川は、みんな知っとるはずなんじゃ」

 ついさっきまで憤慨しながら小川を語っていたはずなのに、今の美春はまるで──
「会いたいんか? 小川に」
「会いたい! 運転士の話がしたい! チビでも頑張った、運転士になれた、運転士になってどうなんか……。うちは今、小川に会いたい……」

 縋りつく眼差しは、自分に向けられたものではない。そうとわかった井上は、鉤爪でえぐられたように胸が傷んだ。
 それを悟った将校は豪快に笑い声を上げると、井上の垂れ下がった肩を力いっぱい叩いて励ましていた。あまりに強く叩くので、井上の腰はますます曲がる一方だった。
「残念じゃのう、井上! それに見てみい、他のらもおんなじじゃ!」
 破顔する将校が指差したのは、誰かを案ずる目をした夏子と千秋。その思いの丈が手に取るようにわかってしまい、傷口の奥深くにまで沁みた。

 井上は聞こえよがしに深々と溜め息をついた。三人娘は揃いも揃って疑問符を、軍人はみなニヤニヤとした笑みを浮かべている。そのうち、我慢出来ずに将校が含んだ笑いをしみじみとさせて口からこぼした。
「みんな、想い人がおるんじゃのう」

「そんな、うちは……」
 千秋は見えない髪留めに視線を向けて、両手で顔を覆い隠した。耳まで真っ赤に染まっているので、壇ノ浦の芳一でも見ているようだ。
ちゃうねんて、勘違いや……」
 夏子は吊り目を見開いて、息を呑んで仰け反っている。討ち取られたるは生命ではなく胸の内、首ではなく心であった。
「そ、そんなんじゃないわい!!」
 ムキになって怒鳴っているのは、美春である。本人が気づいていないのか、それとも本当に違うのか。しかし立ち上がって拳を握り、目尻を吊り上げ頬を染めて、子猿のように喚いているのが、誰の目からもわかりやすい。

 ガックリと肩を落とした井上は、しょんぼりと萎れて卓の下へと沈んでいった。
「三人ともかいな、男がおらんのがひとりくらいいる思うとったんに……。貴重な休日をフイにしてしもうたわ」
 その隣に立つ将校が、しょぼくれている井上の首根っこを掴んで引き上げた。干したスルメイカのような井上に、誰もが吹き出しそうだった。
「そがいにふろふろしよるけぇ、いつまで経っても成就せんのじゃ」
「まあまあ。わしらが楽しく過ごせたのは、井上の武勲の賜物じゃ。報奨として、今度ええとこに連れて行ったるわい」
 男同士のやりとりに、少女三人は「はてな?」と眉をひそめている。
「ええとこって、どこね?」
と、美春が何の気なしに尋ねたところ
「そっ……それは最重要の軍事機密じゃ!」
と、口を揃えて答えるものだから、謎はますます深まるばかりであった。

 *  *  *

 窓から差し込む日差しが色づいた頃、三人娘は帰路につく井上とともに船舶司令部を後にした。たくさんお喋りした美春は満足し、会社や学校とは違う世界を千秋は堪能していたが、夏子はつまらなそうに空に目をやり口を尖らせ、眉間にしわを寄せていた。
「軍人さんの話を聞ける思うとったのに、ずっとうちらが喋っとったわ」
「それは、すまんのう。何せ、秘密が多いけぇ」
 夏子はパッと思いつき、身を翻して井上と向き合った。行く手を阻まれた井上は、純な瞳に撃ち抜かれて狼狽している。
「井上さん、飛行場に友達はおらんの!? うち、疾風はやてを見たい!」
「おいおい、無茶を言わんでくれ。航空兵に知り合いはおらんし、わしかて見たことないわ」

 突然、美春が海に目を向け耳を澄ませた。遠くに浮かぶ島を背にして、一筋のか細い白波が引かれていく。美春はそれを、細めた目でじっと見つめた。
「えらいまい船じゃねぇ」
「ああ……。ありゃあ連絡艇じゃ」
 井上は美春の背中にそっと手を添え、視界から海を奪っていった。
「忘れたらいかんぞ。ここで見聞きしたものは、口外禁止じゃけん。絶対に、誰にも言うな」
 その忠告には強い意志がありながら寂しげで、誰ということのない誰かを慈しんでいるような気さえした。

 触れてはならない軍事機密、そう思った千秋は話を逸らした。
「美春ちゃん、冬先生のところへ行くん?」
「うち、家を知っとるで! 宮島線の五日市や」
「今日はもう、ええわ。遅いし、遠いし、お菓子の余韻が消えてしまうわい」
 美春が幸せそうに断念したので、夏子も千秋も井上も笑い声を夕焼け空に響かせて、停留所へと向かっていった。
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