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昭和十九年
第45話・暁部隊①
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千秋によると、冬先生は休みであった。今から直談判しに乗り込むならば、会社ではなく自宅である。それは長い戦いになりそうだ、腹ごしらえが先だと決めて、乗務を終えた千秋と落ち合って福屋地下の雑炊食堂に入っていった。
「H形に乗ったんね? すぐに加速せんじゃったろう」
千秋の言葉がピンと来ず、美春と夏子はポカンとした目を見合わせた。
「H形は、ノッチを入れてから床下のカムが回るけぇ、すぐ加速せんのよ。千田車庫まで回送するとき、それが嫌じゃ言う運転士さんが多いんよ」
理解出来たかはともかくとして、美春と夏子は感心しきって目も口も丸くしている。
「何じゃ? 女学生さんがえらい難しい話をしておるのう」
若く軽々しい軍人が、湯気が立つ椀を手にして三人のそばに寄ってきた。揃ってポカンと見上げていると、その軍人はおもむろに、空いた一席に腰掛けた。
「いやぁ混んどるのう、相席させてもらうわ」
「なっ……。こんなん、憲兵さんに見つかったら怒られてしまうわ」
彼を咎めた夏子をはじめ、美春も千秋も狼狽えている。しかし若い軍人は、だから何だと鼻を鳴らした。
「そしたら、憲兵さんに席を探してもらうわい。いかんのじゃったら、雑炊の立ち食いを指南してもらうわ」
憲兵さんに楯突こうとは、三人娘も開いた口が塞がらない。そんなことを意に介さず、若い軍人はひとりで勝手に喋りだした。
「猫舌な上、独り言が多いけぇの、堪忍してな。わしゃあ陸軍船舶司令部、井上貞夫二等兵じゃ」
夏子がふたりにヒソヒソと教える。
「乗務中に袖したことがあるけど、この人の所属は間違いない、嘘は言うてないわ。暁部隊や、宇品にあるやろ?」
井上は目ざとく食いついた。訝しげだった三人娘は目を丸くして固まっている。
「そうじゃ。船舶司令部の別名を、よう知っとるのう。宇品は日本一の輸送拠点、ひっきりなし出入りする陸軍保有の船舶で、兵站から補給から大東亜共栄圏の建設を支えとる」
何と軟派な軍人なのだと、三人ともが閉口している。しかしこれは独り言だと、無視を決め込むことにした。
「せっかくのお好み盛りが冷めてしまうわ、早う食べよう」
夏子が促し、ぬるくなった雑炊に冷たい視線を浴びせて口へと運ぶ。一方、井上はというと独り言だと割り切って、頼まれもしない話を続けた。
「大きい声は憚られるが、物資は軍需が優先じゃけぇ。シラミに悩まされる女学生に石鹸のひとつでも贈りたい、言うておるモンがおったのう」
「石鹸!?」
黄色い声を上げたのは、千秋だった。しばらくすると我に返って、しおしおとして席についた。いかにも怪しい誘いであったが、この好機を逃したくはない。肩をすくめてうつむいて、シラミの痒さを我慢して、ただひたすらに葛藤するばかりである。
これを目にした井上は、もうひと押しだと口角を上げる。
「恥ずかしい話じゃけんど、船舶司令部には菓子が山ほど置いてあるんじゃ。執務中は酒を呑めんし、下戸の上官だっておる。わしらにとって菓子が数少ない楽しみでのう。日頃世話になっとる女学生に、おすそ分けしたい言うとるモンがおったわい」
「お菓子!?」
椅子から跳ねたのは、美春だった。お預け喰らった飼い犬のように目を輝かせて、溢れる生唾を飲み込んだ。尻尾があったら、間違いなく千切れんばかりに振っている。
辟易とした夏子が呆れ気味にふたりを諭した。
「……ふたりとも物に釣られるなんて、みっともないで?」
最後の牙城は彼女かと、井上はとどめを刺しに行く。
「船舶司令部では女学生が乗っとる電車が話題になっとってのう、それが目当てで省線から電車に変えたモンがおるほどじゃ。わしら下っ端二等兵から上官まで口を揃えて、是非ともお招きして話を聞きたいと言うとる。陸軍の重要拠点に入れる好機じゃけぇ、皇国少女には堪らんのう」
痛いところをえぐられた、と笑みを堪えて顔を歪めるのは夏子だった。純粋に好きなだけでも、軍事施設に入ることはおろか覗き見ることだって叶わない。山から遠巻きに眺めるだけでは物足りない、見たい、見たい、高い壁の向こう側を近くで見たい、鼻先にぶら下げられた誘いを受ければその願いは成就する。
怪しい下っ端軍人を信じていいのか悩んでいると、美春が雑炊を搔き込みだした。
「軍人さんのお誘いを断ったら失礼じゃ」
「冬先生に直談判するんは、ええの?」
千秋の口調からは、振り子のような迷いが垣間見える。しかし明らかに、行くほうに大きく振れている。
「美春ちゃんが、ええ言うならお招きされよう」
夏子が美春に続いた。オロオロと狼狽えた末、ついに千秋も一心不乱に雑炊を流し込んだ。
「おい、待たんかい、わしがまだ食っておらん」
止まらぬ匙が「早く食べて連れて行け」とせっついた。やむなく井上は匙で掬った雑炊に細い息をふぅふぅと吹きかけ、恐る恐る口へと運んだ。
「熱っ……ふぅー、ふぅー……アチチ」
「猫舌なんは、ホンマやったんね」
三人娘は匙を下ろし、井上の雑炊が冷めるのを待った。
「H形に乗ったんね? すぐに加速せんじゃったろう」
千秋の言葉がピンと来ず、美春と夏子はポカンとした目を見合わせた。
「H形は、ノッチを入れてから床下のカムが回るけぇ、すぐ加速せんのよ。千田車庫まで回送するとき、それが嫌じゃ言う運転士さんが多いんよ」
理解出来たかはともかくとして、美春と夏子は感心しきって目も口も丸くしている。
「何じゃ? 女学生さんがえらい難しい話をしておるのう」
若く軽々しい軍人が、湯気が立つ椀を手にして三人のそばに寄ってきた。揃ってポカンと見上げていると、その軍人はおもむろに、空いた一席に腰掛けた。
「いやぁ混んどるのう、相席させてもらうわ」
「なっ……。こんなん、憲兵さんに見つかったら怒られてしまうわ」
彼を咎めた夏子をはじめ、美春も千秋も狼狽えている。しかし若い軍人は、だから何だと鼻を鳴らした。
「そしたら、憲兵さんに席を探してもらうわい。いかんのじゃったら、雑炊の立ち食いを指南してもらうわ」
憲兵さんに楯突こうとは、三人娘も開いた口が塞がらない。そんなことを意に介さず、若い軍人はひとりで勝手に喋りだした。
「猫舌な上、独り言が多いけぇの、堪忍してな。わしゃあ陸軍船舶司令部、井上貞夫二等兵じゃ」
夏子がふたりにヒソヒソと教える。
「乗務中に袖したことがあるけど、この人の所属は間違いない、嘘は言うてないわ。暁部隊や、宇品にあるやろ?」
井上は目ざとく食いついた。訝しげだった三人娘は目を丸くして固まっている。
「そうじゃ。船舶司令部の別名を、よう知っとるのう。宇品は日本一の輸送拠点、ひっきりなし出入りする陸軍保有の船舶で、兵站から補給から大東亜共栄圏の建設を支えとる」
何と軟派な軍人なのだと、三人ともが閉口している。しかしこれは独り言だと、無視を決め込むことにした。
「せっかくのお好み盛りが冷めてしまうわ、早う食べよう」
夏子が促し、ぬるくなった雑炊に冷たい視線を浴びせて口へと運ぶ。一方、井上はというと独り言だと割り切って、頼まれもしない話を続けた。
「大きい声は憚られるが、物資は軍需が優先じゃけぇ。シラミに悩まされる女学生に石鹸のひとつでも贈りたい、言うておるモンがおったのう」
「石鹸!?」
黄色い声を上げたのは、千秋だった。しばらくすると我に返って、しおしおとして席についた。いかにも怪しい誘いであったが、この好機を逃したくはない。肩をすくめてうつむいて、シラミの痒さを我慢して、ただひたすらに葛藤するばかりである。
これを目にした井上は、もうひと押しだと口角を上げる。
「恥ずかしい話じゃけんど、船舶司令部には菓子が山ほど置いてあるんじゃ。執務中は酒を呑めんし、下戸の上官だっておる。わしらにとって菓子が数少ない楽しみでのう。日頃世話になっとる女学生に、おすそ分けしたい言うとるモンがおったわい」
「お菓子!?」
椅子から跳ねたのは、美春だった。お預け喰らった飼い犬のように目を輝かせて、溢れる生唾を飲み込んだ。尻尾があったら、間違いなく千切れんばかりに振っている。
辟易とした夏子が呆れ気味にふたりを諭した。
「……ふたりとも物に釣られるなんて、みっともないで?」
最後の牙城は彼女かと、井上はとどめを刺しに行く。
「船舶司令部では女学生が乗っとる電車が話題になっとってのう、それが目当てで省線から電車に変えたモンがおるほどじゃ。わしら下っ端二等兵から上官まで口を揃えて、是非ともお招きして話を聞きたいと言うとる。陸軍の重要拠点に入れる好機じゃけぇ、皇国少女には堪らんのう」
痛いところをえぐられた、と笑みを堪えて顔を歪めるのは夏子だった。純粋に好きなだけでも、軍事施設に入ることはおろか覗き見ることだって叶わない。山から遠巻きに眺めるだけでは物足りない、見たい、見たい、高い壁の向こう側を近くで見たい、鼻先にぶら下げられた誘いを受ければその願いは成就する。
怪しい下っ端軍人を信じていいのか悩んでいると、美春が雑炊を搔き込みだした。
「軍人さんのお誘いを断ったら失礼じゃ」
「冬先生に直談判するんは、ええの?」
千秋の口調からは、振り子のような迷いが垣間見える。しかし明らかに、行くほうに大きく振れている。
「美春ちゃんが、ええ言うならお招きされよう」
夏子が美春に続いた。オロオロと狼狽えた末、ついに千秋も一心不乱に雑炊を流し込んだ。
「おい、待たんかい、わしがまだ食っておらん」
止まらぬ匙が「早く食べて連れて行け」とせっついた。やむなく井上は匙で掬った雑炊に細い息をふぅふぅと吹きかけ、恐る恐る口へと運んだ。
「熱っ……ふぅー、ふぅー……アチチ」
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