椰子の実ひとつ -電車の女学校-

山口 実徳

文字の大きさ
上 下
45 / 82
昭和十九年

第45話・暁部隊①

しおりを挟む
 千秋によると、冬先生は休みであった。今から直談判しに乗り込むならば、会社ではなく自宅である。それは長い戦いになりそうだ、腹ごしらえが先だと決めて、乗務を終えた千秋と落ち合って福屋地下の雑炊食堂に入っていった。

「H形に乗ったんね? すぐに加速せんじゃったろう」
 千秋の言葉がピンと来ず、美春と夏子はポカンとした目を見合わせた。
「H形は、ノッチを入れてから床下のカムが回るけぇ、すぐ加速せんのよ。千田車庫まで回送するとき、それが嫌じゃ言う運転士さんが多いんよ」
 理解出来たかはともかくとして、美春と夏子は感心しきって目も口も丸くしている。

「何じゃ? 女学生さんがえらい難しい話をしておるのう」

 若く軽々しい軍人が、湯気が立つ椀を手にして三人のそばに寄ってきた。揃ってポカンと見上げていると、その軍人はおもむろに、空いた一席に腰掛けた。
「いやぁ混んどるのう、相席させてもらうわ」
「なっ……。こんなん、憲兵さんに見つかったら怒られてしまうわ」
 彼をとがめた夏子をはじめ、美春も千秋も狼狽えている。しかし若い軍人は、だから何だと鼻を鳴らした。
「そしたら、憲兵さんに席を探してもらうわい。いかんのじゃったら、雑炊の立ち食いを指南してもらうわ」
 憲兵さんに楯突こうとは、三人娘も開いた口が塞がらない。そんなことを意に介さず、若い軍人はひとりで勝手に喋りだした。

「猫舌な上、独り言が多いけぇの、堪忍してな。わしゃあ陸軍船舶司令部、井上貞夫二等兵じゃ」
 夏子がふたりにヒソヒソと教える。
「乗務中に袖したことがあるけど、この人の所属は間違いない、嘘は言うてないわ。あかつき部隊や、宇品うじなにあるやろ?」
 井上は目ざとく食いついた。訝しげだった三人娘は目を丸くして固まっている。
「そうじゃ。船舶司令部の別名を、よう知っとるのう。宇品は日本一の輸送拠点、ひっきりなし出入りする陸軍保有の船舶で、兵站へいたんから補給から大東亜共栄圏の建設を支えとる」

 何と軟派な軍人なのだと、三人ともが閉口している。しかしこれは独り言だと、無視を決め込むことにした。
「せっかくのお好み盛りが冷めてしまうわ、早う食べよう」
 夏子が促し、ぬるくなった雑炊に冷たい視線を浴びせて口へと運ぶ。一方、井上はというと独り言だと割り切って、頼まれもしない話を続けた。
「大きい声は憚られるが、物資は軍需が優先じゃけぇ。シラミに悩まされる女学生に石鹸のひとつでも贈りたい、言うておるモンがおったのう」

「石鹸!?」

 黄色い声を上げたのは、千秋だった。しばらくすると我に返って、しおしおとして席についた。いかにも怪しい誘いであったが、この好機を逃したくはない。肩をすくめてうつむいて、シラミの痒さを我慢して、ただひたすらに葛藤するばかりである。
 これを目にした井上は、もうひと押しだと口角を上げる。
「恥ずかしい話じゃけんど、船舶司令部には菓子が山ほど置いてあるんじゃ。執務中は酒を呑めんし、下戸げこの上官だっておる。わしらにとって菓子が数少ない楽しみでのう。日頃世話になっとる女学生に、おすそ分けしたい言うとるモンがおったわい」

「お菓子!?」

 椅子から跳ねたのは、美春だった。お預け喰らった飼い犬のように目を輝かせて、溢れる生唾を飲み込んだ。尻尾があったら、間違いなく千切れんばかりに振っている。
 辟易とした夏子が呆れ気味にふたりを諭した。
「……ふたりとも物に釣られるなんて、みっともないで?」
 最後の牙城は彼女かと、井上はとどめを刺しに行く。
「船舶司令部では女学生が乗っとる電車が話題になっとってのう、それが目当てで省線から電車に変えたモンがおるほどじゃ。わしら下っ端二等兵から上官まで口を揃えて、是非ともお招きして話を聞きたいと言うとる。陸軍の重要拠点に入れる好機じゃけぇ、皇国少女には堪らんのう」

 痛いところをえぐられた、と笑みを堪えて顔を歪めるのは夏子だった。純粋に好きなだけでも、軍事施設に入ることはおろか覗き見ることだって叶わない。山から遠巻きに眺めるだけでは物足りない、見たい、見たい、高い壁の向こう側を近くで見たい、鼻先にぶら下げられた誘いを受ければその願いは成就する。

 怪しい下っ端軍人を信じていいのか悩んでいると、美春が雑炊を搔き込みだした。
「軍人さんのお誘いを断ったら失礼じゃ」
「冬先生に直談判するんは、ええの?」
 千秋の口調からは、振り子のような迷いが垣間見える。しかし明らかに、行くほうに大きく振れている。
「美春ちゃんが、ええ言うならお招きされよう」
 夏子が美春に続いた。オロオロと狼狽えた末、ついに千秋も一心不乱に雑炊を流し込んだ。
「おい、待たんかい、わしがまだ食っておらん」
 止まらぬ匙が「早く食べて連れて行け」とせっついた。やむなく井上は匙で掬った雑炊に細い息をふぅふぅと吹きかけ、恐る恐る口へと運んだ。
「熱っ……ふぅー、ふぅー……アチチ」
「猫舌なんは、ホンマやったんね」
 三人娘は匙を下ろし、井上の雑炊が冷めるのを待った。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

腐れ外道の城

詠野ごりら
歴史・時代
戦国時代初期、険しい山脈に囲まれた国。樋野(ひの)でも狭い土地をめぐって争いがはじまっていた。 黒田三郎兵衛は反乱者、井藤十兵衛の鎮圧に向かっていた。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

悲恋脱却ストーリー 源義高の恋路

和紗かをる
歴史・時代
時は平安時代末期。父木曽義仲の命にて鎌倉に下った清水冠者義高十一歳は、そこで運命の人に出会う。その人は齢六歳の幼女であり、鎌倉殿と呼ばれ始めた源頼朝の長女、大姫だった。義高は人質と言う立場でありながらこの大姫を愛し、大姫もまた義高を愛する。幼いながらも睦まじく暮らしていた二人だったが、都で父木曽義仲が敗死、息子である義高も命を狙われてしまう。大姫とその母である北条政子の協力の元鎌倉を脱出する義高。史実ではここで追手に討ち取られる義高であったが・・・。義高と大姫が源平争乱時代に何をもたらすのか?歴史改変戦記です

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

よあけまえのキミへ

三咲ゆま
歴史・時代
時は幕末。二月前に父を亡くした少女、天野美湖(あまのみこ)は、ある日川辺で一枚の写真を拾った。 落とし主を探すべく奔走するうちに、拾い物が次々と縁をつなぎ、彼女の前にはやがて導かれるように六人の志士が集う。 広がる人脈に胸を弾ませていた美湖だったが、そんな日常は、やがてゆるやかに崩れ始めるのだった。 京の町を揺るがす不穏な連続放火事件を軸に、幕末に生きる人々の日常と非日常を描いた物語。

焔の牡丹

水城真以
歴史・時代
「思い出乞ひわずらい」の続きです。先にそちらをお読みになってから閲覧よろしくお願いします。 織田信長の嫡男として、正室・帰蝶の養子となっている奇妙丸。ある日、かねてより伏せていた実母・吉乃が病により世を去ったとの報せが届く。当然嫡男として実母の喪主を務められると思っていた奇妙丸だったが、信長から「喪主は弟の茶筅丸に任せる」との決定を告げられ……。

処理中です...