椰子の実ひとつ -電車の女学校-

山口 実徳

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昭和十九年

第41話・手紙

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 折り返し準備中、運転台で千秋は美春を案じていた。
 午前の授業で我より先にと手を挙げて、誰よりも大きな声で答え、喋り、笑っていた。ただそれが空回りしており、残像からは運転士になれないのだと落胆しているのが透けて見えた。
 運転士として、ずっと一緒にいる友達として、美春の力になれないか。そう考えていると──

「物憂げな顔も素敵、言うて若い男が寄って来よんで?」 
と、組んでいる夏子にニヤニヤと茶々を入れられ我に返った。 
「美春ちゃんの心配をしとったんよ。夏子ちゃんは心配じゃないん?」
 照れ隠しにむくれてみたが、夏子は不敵な笑みを浮かべたままだ。
「美春ちゃんは大丈夫、兎跳びみたいに自分の力で何とかする。負けない#__こ__#言うのは、ずっと見とったらわかるやろ?」
「そうじゃけど……」

 つぐんだ千秋の口の中で、言葉に出来ない不安の星雲が広がっていった。夏子は眉をひそめて腰に手を当て、呆れたように溜め息をついた。
「それより、自分の心配したほうがええで?」
 夏子が指差す運転台は、夥しい数のラブレターで埋め尽くされていた。千秋に恋する男たちが、折り返し準備の隙を突いて投げ込んだらしい。

「ありゃ、A形電車はいかんねぇ。運転台に扉がないけぇ、走っとる間にも投げ込まれるんよ」
 差出人を確かめないまま、千秋は手紙を拾っては破り捨てた。
「車体を載せ替えた450形なら、こんなことにならんのになぁ……ひょっとして、あっちも?」
「あっ……そうかも知れん。美春ちゃんのことで頭がいっぱいじゃった」
「それはあかん! 仕事にならへん! 憲兵さんに見つかったら、えらいことや!」

 夏子は血相を変えて、反対側の運転台に走っていった。投げ捨てられた苦笑を引き継ぎ、ほとばしる思いの丈を破っていると、一通だけが拒絶した。
 半分だけ切られた手紙を開き、目を落とす。



 拝啓 吉川運転士殿

 貴女は覚えておいででしょうか。私は、貴女を電車で見かけた日から、ひとときも忘れたことはございません。
 車掌の勉強に励んでいる折、不貞な輩から貴女を守ることが出来なかった意気地なしです。後悔の日々を過ごすうち、貴女への想いが狂おしいほどに募って参りました。

 この手紙は二通目です。私がはじめて手渡した手紙を読んでくださいましたでしょうか。
 数えきれないほど便箋を浪費して、流すようにインクを染み込ませ、ひと文字ひと文字に想いを込めてしたためました。

 そんな労苦も、この意気地なしですから切符とともに握り潰して渡してしまいました。その節は大変な失礼をしてしまいました、謝ります。

 あのあと、知人から目の前で手紙を破られたと聞きました。それより先に渡した手紙ですから、読んで頂けたと微かな希望を抱いていました。
 その後の貴女の様子から同じ命運を辿ったのだと肩を落としました。が、誰もが目の前で手紙を破られたと聞き、会社での決まりごとなのだと察しました。

 色恋沙汰にうつつを抜かす時局ではないと理解しております、やむを得ないことです。
 同時に、今にもついえる希望の灯火ともしびが再燃しました。

 しかし春、貴女が運転士になられて、やりとりをすることがなくなりました。
 はじめはみっともなく肩を落としたものですが、前進する貴女に心を揺さぶられました。

 私は、兵隊に志願します。
 残された時間がないので、乱筆となってしまいました。お許しください。

 満州の大地を照らす月に、貴女を映します。
 椰子の木の下で、貴女に思いを馳せます。
 飛行機に乗って、貴女を空から探します。

 私は、貴女をお守りします。
 海の向こう、空の彼方、遥か遠くにそういう男がいるのだと、心の片隅にでも覚えて頂ければ、私は満足です。

 軍隊で意気地なしを叩き直して、貴女の元に帰って参ります。
 その折には、手紙ではなく私の口から思いの丈をお伝えします。

 貴女を愛しています、と。

 草々



 千秋の手を止めたものが、封筒から手紙の破片に音もなく落ちていった。まるで千秋の名を知るような、茜色のとんぼ玉がついた髪留めだった。
 千秋はハッと顔を上げ、辺りを見渡した。手紙の処分を待って並ぶ乗客ばかりで、その中に若い男はどこにもいない。手紙を置いて、すぐに立ち去ってしまったようだ。

「お待たせしました、横川よこがわ行きです」
 夏子の声が辺り一面に響き渡った。手紙を破り終えたと知って、千秋は慌てて開いた手紙を散り散りにした。
「差出人は封筒にあったんかね……」
 ぽつりと呟いたひと言は、後悔だった。せめて名前を見ておけば、と。
 千秋は髪留めを前髪に差し、鉢巻の下にそっと忍ばせた。

 乗車が終わり、出発合図の鐘が鳴る。コントローラを投入すると、板張りの車体によく似合う、しわがれた轟音が床から屋根まで震わせた。
 いつかのように彼に追いつくことはないだろうかと、真っ直ぐ伸びる道を注視した。道行く人はいるものの、見覚えのある背中はどこにもない。
 先々の停留所に誰もいないと気づいた千秋は、夏子に向けて鐘を鳴らした。

 チン、チン、チン。

 呼ばれた夏子は客室を出て、千秋の隣に並んで立った。正面の風雨除けベスティビュールは用をなさず、運転台を風が撫でる。
「どないしたん?」
「夏子ちゃんに『椰子の実』歌ってほしいんよ」
「ええけど……合間合間に案内もするで?」
「うん、仕事はしないといかんねぇ」
 ラブレターは風に乗って歌に乗って、路面電車から尾を引いて吹雪となった。
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