椰子の実ひとつ -電車の女学校-

山口 実徳

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昭和十九年

第40話・車庫

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 美春が兄を見送りした後のこと。午前の乗務組が集められて、冬先生からお説教を賜った。決められた勤務をめちゃくちゃにしたのだから、当然である。女学生は皆、覚悟を決めてシュンとこうべを垂れていた。

 その後のことである。
 散開を命じられ、女学生がトボトボと電鉄本社を立ち去っていく。だがひとりだけ、美春だけがその場に留まりギュッと拳を握っていた。
「森島君、授業に間に合わん。帰りんさい」
 冬先生の諭す声にも、美春は動こうとはしなかった。見上げた瞳に映るのは、自身を焼き尽くすほどの焦燥であり、冬先生もたじろいでしまう。

 ぽつりと放ったひと言は消え入るほどに小さかったが、鉛のような重さがあった。
「うちは、運転士になれんのですか」
 冬先生の眉が歪んだ。美春は追い討ちをかけるように語調を強める。
「お兄ちゃんは、うちが運転する電車で凱旋する言うて出征したんです。うちは、運転士にならないかんのです」
「森島君、兵役は二年じゃ。それまでに君たちは卒業する」
「お兄ちゃんは、あと一年で終わらす言うて戦地に向かいました」
 冬先生の眉間に皺が寄った。それは怒りでも苛立ちでもなく、美春の想いに揺さぶられた染みるような苦悩であった。
 踵を返し、ごつごつとした背中を向けた冬先生は「ついて来い」とだけ呟いて、美春を車庫へといざなった。

 そして、一両の電車の前に立つ。
「森島君、この電車は何ちゅうんじゃ」
 冬先生は、車体に書かれた番号を隠して立っている。つまり車両型式を答えろ、と言うのだ。
 金魚鉢のように丸い前面、雨樋がないつるんとした額、その中央に埋め込まれた前照灯、そして一本ポール。小さくもスッキリとした車体から、美春は型式を即問出来た。
「450形です」
 安堵したのもつかの間、冬先生は容赦なく問いを続ける。
「これがどんな電車か、わかるか」

 美春は、答えに詰まった。質問が漠然とし過ぎて、何と返せばいいのかわからない。
 冬先生は答えを言わず、電車に乗り込む。不穏な空気がまとわりつく中、後に続くと乗ったそばから運転台を顎で差された。
「森島君、何か気づかんか」
 美春には、冬先生の言うことが何ひとつわからない。目に映るものすべてが渦巻いて、自分自身に落胆した。

 冬先生が真正面に視線を移す。美春もつられて線路のほうを向いてみたが、何を見ればいいのかわからず焦点が定まってくれない。
「この電車は、今すぐ走ってええのか」
 運転台に立った美春は、背筋を伸ばして線路を覗く。それでも直前の分岐器ポイントを見るには足りず、額が窓に当たるほど前へと屈んだ。
「いかんです。進路が開通しとりません」

 運転台に美春を残して電車から降りた冬先生は、周囲を見回し転轍器てんてつきのレバーを返す。分岐器が正しく動作して進路が開通しているか、線路を指差しなぞり確かめる。
「線路よし」
 小さくも力強く呟かれる確認喚呼かんこが美春の鼓膜を痺れるほどに震わせる。

 電車に乗る冬先生は、運転士の顔をしていた。美春は思わず運転台を譲ってしまう。空けられた運転台に立った冬先生は、改めて進路を確認して右手を回し、ブレーキを緩めた。
 美春は、わけもわからず見ているだけである。
「森島君、運転士が見るべきは前じゃ」
 そう促され慌てて進路を注視する。それを確認した冬先生は1ノッチを投入し、すぐさまオフ。電車は本線に向けて、ゆっくりと動いた。
「今、時速何キロか、わかるか?」
 路面電車に速度計などついていない。体感だけが頼りであったが──。
「……わかりません」
 美春の返事を聞いて、冬先生は電車を停めた。

「電車を戻すぞ」
 美春より先に冬先生がポールを回し、反対側の運転台に立つ。美春は後をついていくだけ。隣に並ぶと固く重たく、じんわりと熱を帯びた言葉を掛けられた。
「今は、全部わからんでもええ。そのための授業じゃけん」
 ほんのわずかにホッと緩んだその隙に、言葉の糸で締め上げられた。
「しかし、こんなんはじゃ。運転取扱は多岐に渡る。森島君も知っとろうが、車両や線路の癖を覚えないかん。コントローラ、ブレーキ、線路故障への対処も出来ないかん」

 元の位置に電車を停めると冬先生は、ポールを降ろした。息苦しいほどの静寂が漂って、冬先生を見上げる美春を硬直させている。
「森島君、ハンドルを掴みんさい」
 美春は言われるがまま、コントローラとブレーキのハンドルを掴んだ。小さな体躯では、両腕を目一杯伸ばしてようやく届く程度である。

 わかっていた。何故、運転士見習いに選ばれないか、頭ではわかっていた。
 わからなければ覚えればいい。簡単なことではないが、今まで何でもそうやってきた。出来なければ……。

 どうしても出来ないことがあると思い知った。

『知らん出来んは恥』

 拠り所にした父の言葉が、美春を完膚なまでに叩きのめした。自分自身が恨めしく、悔しさを拳に握り、嗚咽を噛み殺し、恥辱を心の奥に沈めても、溢れる涙は閉じた瞼の隙間を縫った。
「お兄さんは、今日ったばっかりじゃ。そんなすぐに帰らんわ。焦らず、時間を掛けたらええ」
 冬先生は、震える肩にそっと触れた。
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