椰子の実ひとつ -電車の女学校-

山口 実徳

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昭和十九年

第32話・指導③

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 第二期生の車掌見習い一週間は、あっという間に過ぎ去ろうとした。
 浅い経験、短い時間、未知の街、はじめて触る電車。
 どの師弟も四苦八苦して文字通り寝る間も惜しんでいる中、順風満帆に見習い期間を終えようとする師弟も、少ないながらいた。

「次は土橋です。お降りの方、己斐こい行きにお乗り換えの方はございませんか」
 教わったとおりに案内出来て、見習いの幸子はチラリと師匠を覗った。すぐそばで寄り添うよう千秋が満足そうに微笑んだので、幸子は目を背け頬を桜色に染めていた。

 幸子は、千秋が師匠で本当によかったと思っていた。軽やかな仕事ぶり、鈴のように澄みきった声、微笑みを絶やさず嫌な顔をひとつせず、繰り返し丁寧に教えてくれた。
 同期からは羨ましがれ、師匠を交換してほしいと懇願されたが、例え冗談だとしても絶対に師匠を譲れなかった。
 いずれ自分がする仕事だから、そうでなければいけないことは、わかっている。それでも、師匠から仕事を削ぐように奪っていくのが、心苦しくてならなかった。
 師匠の仕事を、ずっとそばで見ていたい。
 懸命に教えてくれた師匠の期待に応えたい。
 そんな無意味な葛藤も、いよいよ今日で最後となった。短い間に築き上げた師弟の絆を絶たないようにしていこう、幸子はそう心に決めて最後の見習い乗務を噛みしめていた。

 千秋にとっても、貴重な時間であった。
 努力を絶やさず打てば響く、ひたむきな姿に胸を打たれ、苦しいときは手を差し伸べたくなる、よくついてきてくれる素直な弟子だった。
 どのように教えるか、どうすれば伝わるか師匠同士で話し合えば、いつしか愛弟子自慢になっていたが、千秋は一番優秀なのは幸子だと自負していた。
 中には、弟子に涙させるほど厳しい同期の師匠もいた。
 千秋には、それが出来なかった。弟子は師匠の鏡という、冬先生の言葉を刻んだ胸に手を当て、幸子の失敗から自分自身を見つめ直して
「うちもみんなも、はじめはそうじゃったんよ」
と、わずか一年前を懐かしみ、手を変え策を変え指導していた。

 言葉には出来ないが、幸子が代わりに案内してくれることにも救われていた。この一年間で慣れてきたとは言うものの、客の視線が集まると喉が詰まって息苦しくなってしまう。
 たどたどしくも懸命な幸子が案内していれば、視線は千秋から逸れていく。その姿に励まされ、案内の手本を臆せず見せることが出来、自分自身が驚かされた。
 出来ることならずっと一緒に乗務したいと願うほど、幸子の指導を心の底から楽しめていた。
 それも今日が最後と思うと、寂しさが胸に風穴を空け、霧のような苦しさが胸を吹き抜け全身にまとわりついて、厚い雲が低く重く垂れ込めた。

 土橋で降りる客はいなかったので、幸子は鐘を鳴らさなかったが、運転士はブレーキを掛けた。停留所に客がいるらしい。
 電車が停まって、幸子も千秋も息を呑んだ。
 乗ってきたのは、冬先生ただひとり。
 互いに向かい合って敬礼をした。脇は直角、肘は四十五度、肘から指先まで一直線。定められたとおり、手本のような敬礼だった。
「紙屋町まで添乗する、宜しく頼む」
 冬先生の低く冷たく固い声に、ふたりとも芯が通ったように背筋を伸ばした。

 幸子が鐘を二回鳴らして電車を発車させると、千秋が身を寄せコソッと囁いた。
「普段どおりで、ええんよ? ちゃんと出来とるんじゃけぇ」
 幸子を硬直させた緊張は、弛緩せずに弾むほどの高揚となった。血が沸き上がり、頭のてっぺんから湯気が上ってしまいそうだ。
 千秋が冬先生に聞こえぬように「大丈夫よ」と呟いた。意識を客室に戻した幸子はスッと呼吸を整えて、思いを案内に変えて吐き出した。
「次は左官町です。お降りの方、横川よこがわ行きにお乗り換えの方はございませんか」

 冬先生は、予告どおり紙屋町で降りていった。特に指摘もなかったので、千秋と幸子はそっと胸を撫で下ろし、変わらぬ調子で広島駅前へと向かっていった。
 すれ違った電車の最後部に、夏子と和江の背中を見た。夏子が振り返ったので、立てた人差し指を頭に寄せた。鬼の角から岩鬼、つまり冬先生を指す秘密の合図。
 冬先生が添乗指導するらしい、そう察した夏子は苦い薬でも飲んだように大袈裟に舌を出して顔をしかめた。そのわざとらしい表情と冬先生からの開放感が、千秋をクスッと笑わせた。

 広島駅前から折り返し向宇品むこううじな行き。これに乗務し、電鉄前で交代すれば幸子の見習い期間は終了である。
 事務所に入れば、別れを惜しむ女学生師弟や、訓示を述べる監督さんが目についた。美春は節子の肩を叩いて「うちより優秀じゃ、心配ないわ」と励まして、周りの乗務員を苦笑させた。和江は別れを惜しむあまり、涙を流して夏子を狼狽させている。
 私たちも泣くのかな、互いにそう思って千秋と幸子は寂しげな視線を交わした、そのときだ。

 冬先生が硬い表情を崩さずに、千秋師弟に歩み寄った。
 ふたりは緊張を走らせて、添乗中を思い返してみたものの、指摘事項はひとつとして思い浮かばない。師弟揃って怪訝に眉を寄せると、冬先生が口を開いた。
「一週間という短い期間の仕上がりとは思えん、よう頑張った。明日から頑張ってくれ」
 ホッと緩めた顔を見合わせ、労いとして互いに笑みを送り合う。
 しかしそれもつかの間、続く言葉に千秋は雷撃を受けたように硬直し、頭の中は空虚となって、視界は焦点を失った。

「そんでのう、吉川君。明日から運転士をやってくれんか」
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