椰子の実ひとつ -電車の女学校-

山口 実徳

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昭和十八年

第22話・挺身隊③

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 美春の思わぬ申し出に、少女は理解に苦しんでいる。噛みつかれたのが急転直下、化粧を教えて欲しいとのたまっている。何のために叱責されたのかと思い返しているうちに、ふつふつと怒りが沸き上がってきた。
「あんた、自分が何言うたかわかっとるの?」
「わかっとる! 乗務中のお化粧は禁止じゃ! でも、今は乗務が終わったけぇ……。授業もないし、お化粧しても怒られる義理はないわい」

 威勢が次第にしぼんでいくうち、美春の事情が気になりはじめた。背中を丸めてうつむく美春を、少女は屈んで覗き込んだ。
「何で、お化粧したいん?」
「……うちは、千秋ちゃんみたぁに綺麗じゃないし、夏子ちゃんみたぁに髪を可愛く結えん」
「髪は教わったらええじゃない」
「潮にやられてボサボサじゃけぇ、ちっともまとまってくれんのじゃ!」
 自分の容姿が劣っていると必死になって訴える美春に、少女は呆気にとられてしまった。ほんの少し仰け反って、ポカンと美春を見つめている。

「ほうね……ほんで?」
「そしたら、お化粧したお姉さんが別人みたぁに綺麗だったんじゃ……うちは……その……羨ましかったんよ」
 小さくなって視線を逸らして頬を染め、つぐんだ口先から呟かれた羨望に少女は花が咲くような思いがした。
 そして、肩をすくめる美春の前で忍ばせていた化粧道具を取り出した。
「時間がないけぇ、簡単に済ますよ?」
 前照灯に照らされた美春に一筋の光が差した。瞳は輝き、唇を固く結んで、力強く頷いた。

 肌を塗り、紅を差し、頬を染める。それはまるで月明かりの下、蛹が硬い殻を破ってはねを伸ばす蝶のような気分であった。
「今、どうなっとるん?」
「喋らんで、手元が狂うてしまう。もうじきじゃけぇ、もうちょっと辛抱してぇな」

 少女が頷いたその瞬間、車庫に電車がゴロゴロと音を立てて入ってきた。迫りくる前照灯の光軸は線路に沿って曲がっていって、ふたりの少女に向けられた。
「何じゃ? ポールが上がっとるのがおるぞ」
「忘れたんかいの? ありゃ、前照灯までいとるが」
「灯火管制やっとるのに、なんちゅうことをしとるんじゃ」
「ちょっとお前、ポールを降ろしてこい」
 乗務員に気づかれた! ふたりは壁際を伝って逃げ回り、電鉄本社を飛び出した。膝に手をつき落とした肩を上下させ、切れ切れの吐息で静かに笑い合った。

「うち、花嫁さんみたぁに、なれたかねぇ?」
「よう見えんけど、うちの腕前は知っとろうが」
「ほうね、寮に帰ったらみんな、ビックリするに違いないわ」
「誰だかわからんっちゅうて、つまみ出されても知らんよ?」
 そのとき、本社の扉が開いた。監督さんがプリプリ怒って地面を蹴るように向かってくる。
「何号車じゃ、ちゃんと入庫処置しとらんのは。憲兵さんに見つかったら、えらいどやされるぞ」
 美春と少女は呼吸を止めて、互いの名前も伝えられずに、それぞれの「家」へと帰っていった。

 御幸橋を渡る美春の足取りは軽かった。
 どんな仕上がりかは知らないが、白粉おしろいのようなものを顔全体に塗ったから、浅黒かった肌は千秋のように透き通っているに違いない。紅を差した唇は、想像するだけで胸が踊る。仕上げに頬を桜色に染めてくれたが、きっと素顔も紅潮していることだろう。

 お給金が出たら、紙屋町に行って化粧品を買いに行こう。
 ああ……でも、仕送りだってしたいねぇ。
 お兄ちゃんが出征したら、お父さんはひとりで海に出るようになってしまう。少しでも暮らしが楽になるように、たまにはお母さんと水入らずで楽しんでもらえるように、少しでも多く仕送りがしたい。
 お母さんは少しくらい遊んでもええ言うとったけど、お化粧道具は高そうじゃけぇ。お給金からちょっとずつ貯めて、少しずつ少しずつ買い揃えようかねぇ。

 京橋川沿いの土手道を走り、簡素な校門を通り抜け、真っ暗闇の校庭を駆け抜けた。寮に入り、寝静まっている同級生を起こさぬようにと廊下を進み、爪先をそっと階段に乗せて二階へ上がる。自室の扉を開ける頃には高鳴る胸を抑えきれなくなっていた。
「ただいま!」
「美春ちゃん。明日早いは、もう寝とる……」
 美春を見つめる少女たちはポカンとし、開いた口が塞がらない。

 これに美春は得意になって、小さな鼻をツンと気高く吊り上げた。
「誰だかわからんかね? うちじゃ、美春。森島美春お嬢様じゃ」
「……えらい変わったねぇ」
「ほうじゃろう!? 挺身隊のお姉さんに、お願いしたんじゃ! どうね? どうね?」
 興奮してはしゃぐ美春に呆ける夏子が、霧中に小径こみちを見つけたように呟いた。
「どうって……島には七五三の続きがあるん?」
 呆然としていた少女たちはそれを聞いて、たまらず吹き出し割れんばかりに笑い出した。

「なんねなんね!? 花嫁さんじゃないんかね!?」
 化粧の下で真っ赤になって、火が点いたように怒り出した美春だが、少女たちは腹を抱えて目尻に涙を滲ませるのを止められなかった。
「鏡、見とらんの? ちょっと見てぇな」
 差し出された鏡を奪い、映った顔を睨みつけると、美春は愕然として暗い天井に視線を移した。
 みんなの言うとおりじゃ。幼顔おさながおにお姉さんの化粧じゃあ、七五三にしか見えんわい。
「どこでお化粧したん?」
「車庫で……暗いから前照灯を点けたんよ……」
「それじゃあ暗いし眩しいし、上手くいかんでも仕方ないわ」

 笑いが次第に収まる中、千秋が目尻にそっと指を当て、美春に優しく微笑みかけた。
「うちは、そのままの美春ちゃんがええんよ? 背伸びして花嫁さんみたぁになりたいのはわかるけぇど、うちらから離れるみたいで寂しいわ」
 美春は噛んだ唇をふわっと開いて、潤んだ瞳を輝かせた。
「ほうね、いずれ嫁入りするんじゃけぇ。今は、みんなとの時間を大事にせんと」
 穏やかな笑みを送り合っている少女の輪から、夏子だけが一歩離れて違った笑顔を見せていた。
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