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昭和十八年
第18話・家①
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港に着くなり、ポンポンポンと聞き慣れたエンジン音が近づいてきた。美春は矢も盾もたまらず岸壁に駆け寄って、こちらへ真っ直ぐ向かう船に大きく手を振った。
「お父さぁーん!! ただいまぁー!!」
小さな漁船が接岸すると美春の父が舳先に向かい、はやる気持ちを抑えきれない手つきでロープを掴む。
係留柱にロープを投げるより早く、美春が甲板めがけて飛び跳ねた。父は咄嗟に抱きとめ、豪快な銅鑼声を放って笑い飛ばした。
「美春! 相変わらず小まいのう、ちゃんと食っとるんか!?」
美春は身体を翻し、厚く固い胸板から丸太のような腕へと乗り移ってぶら下がる。
「寮のご飯じゃあ、足りんけぇ。みんなと食べに行ったり川釣りしたり、色々工夫しとるんよ」
甲板に両足ついた美春の肩を、父が膝を折ってハシッと掴んだ。
「島も配給じゃけぇ。米はないが魚じゃったら、いくらでもある。足らんかったら、わしが獲ってくる。早う帰るぞ、たんと食え!」
そして父は慣れた手つきで錨を上げて、船を島へと回頭させた。高鳴る美春の心臓は、エンジンの轟きと同期していった。
それから墓前で合掌するとき以外は話をするか何かを食べるかで、美春の口はまったく止まる気配がない。
その内容が家族全員、一切合切わからないから開いた口が塞がらず、ただただポカンとするだけである。
「終点でポールを回しとったら、お客さんが笑うんじゃ。兎みたぁに跳ねて回しとんのが、面白いらしいんよ。ビューゲルじゃったら勝手に向きが変わるけぇ、火花も飛ばんから敵機に見つからんけぇど、まだまだポールが多いんじゃ」
何とか口を開いても、知らない言葉を問うことが精一杯だ。
「ポールっちゅうのは……何じゃ?」
すると美春は嵐のように返してくるから、たまらない。
「電線から電気を取る竿じゃ、後ろ向きに立てるんよ。ポールの先っぽについた滑車を電線に引っ掛けるのも難儀するし、運転が荒いとよう外れるんよ。バネで電線を押し上げとるけぇ、戻したり回したりするとき、うちは浮いてしまうんじゃ」
わかったような、わからないような顔をした父が、とりあえず食えと菓子を勧めて問いかける。
「ほんで、電車っちゅうのがゲートル巻いとるんか?」
美春は、得意になって呆れてみせる。
「ゲートルじゃないわ、電車には足がないけぇ。ビューゲルいうのを、ポールの代わりに立てるんじゃ。会社は置き換えたい言うとるが、鉄は貴重じゃけぇ、これがなっかなか進まんのじゃ」
美春が喋れば喋るほど、家族の動きが止まっていく。湯呑みのお茶はとっくに冷めて、出された菓子には美春のほかに手をつけない。
これに、どうしてわかってくれないのかと美春が頬を膨らませた。
「お父さんが知らん出来んは恥、言うとったが。そんで教えとるんじゃないか」
「確かに言うたが……知らんことを恥と思わんのは、はじめてじゃ……」
突然、美春は頭を押さえつけられ、膳の下へと沈められた。
「お兄ちゃん、やめぇや! 縮んでしまうわ!」
「うるさい! 知らん人に教えるときは、わかるように話さんかい!」
叱られたことに反論する術がなく、むっつりと口をつぐむ美春に、母がそわそわと尋ねてきた。
「ようわからんが、大変な仕事じゃのう。ところで学校はどうなん?」
美春は縮んだ背筋をピンと伸ばして、宝箱でも開けるようにゆっくりと語りだした。
「うん、楽しいよ。仲のいい娘たちと勉強も仕事も教えあっとる。休みの日は、みんなで広島の街とか宮島とかに行っとるんよ。それにお花もお茶もタイプライターも、家政女学校に入らんと勉強出来んと思う」
母がにこやかに頷くと、父は心配そうに雁首を突き出して、兄は呆れつつ羨望の眼差しを向けていた。
「街で遊びて、どんなじゃ? 悪い連中に拐かされとらんか?」
「まったく……遊んでばっかおるんじゃろう」
「そんなことないわい! 電鉄社員として恥ずかしいことは出来んわ! 仕送りだって、きっちりしとるじゃろう!?」
母は微笑みながら、怒る美春をたしなめた。
「美春? たまの休みくらい、お友達と思う存分遊びんさい? あんたじゃったら悪い遊びはせんじゃろう」
「お母さん、美春のことじゃ。ほいほい騙されてしまうかも知れんわ」
慈愛を受けて緩んだ顔が、憎まれ口を喰らって一瞬にして吊り上がった。再び頭を押しつけられて、美春は子猿のようにキイキイと怒っている。
やめぇ! うるさいチビ! と、いつものやり取りをしている兄妹に、父が前のめり肩肘張って語りかけた。
「甲種合格したんじゃ、もう子供みたぁにすな。それと美春。何かあったら、船を飛ばして広島に駆けつけるけぇ。困ったことがあったら手紙でも電話でもええ、早う報せい」
これには喧嘩をしていたふたりも、母でさえも呆れ顔である。
「お父さん。こっから広島まで、どんだけあると思うとるんじゃ? ポンポン船なんかじゃ、エンジンが焼けてしまうで」
息子に急所を突かれた父は背筋を反らし、そっぽに目をやり上ずった声で策を述べた。
「そ……そしたら、島中のエンジンを載せて行くわい。油も満載にする。それなら広島まで行けるじゃろう」
「そんなんしたら、船が沈んでしまうわ」
ケラケラと笑う兄、クスクスと笑う母をよそに美春は目を細め、温かな微笑みをたたえていた。
「電車に盆暮れ正月はないけぇ。あんまり長くはおれんけど、お父さんがそう言うてくれるなら、うちは広島で頑張れるわ」
すると父は肩を震わせ瞳を潤ませ、ついには膳を飛び越え、美春を潰れんばかりに抱きしめた。
「美春! 島中の魚を渡したる! たくさん食べて大きくなれや!!」
「お父さん……苦し……縮んでしまう……」
美春には甘いんだから……と、母も兄も苦笑いする互いの顔を見合わせた。
「お父さぁーん!! ただいまぁー!!」
小さな漁船が接岸すると美春の父が舳先に向かい、はやる気持ちを抑えきれない手つきでロープを掴む。
係留柱にロープを投げるより早く、美春が甲板めがけて飛び跳ねた。父は咄嗟に抱きとめ、豪快な銅鑼声を放って笑い飛ばした。
「美春! 相変わらず小まいのう、ちゃんと食っとるんか!?」
美春は身体を翻し、厚く固い胸板から丸太のような腕へと乗り移ってぶら下がる。
「寮のご飯じゃあ、足りんけぇ。みんなと食べに行ったり川釣りしたり、色々工夫しとるんよ」
甲板に両足ついた美春の肩を、父が膝を折ってハシッと掴んだ。
「島も配給じゃけぇ。米はないが魚じゃったら、いくらでもある。足らんかったら、わしが獲ってくる。早う帰るぞ、たんと食え!」
そして父は慣れた手つきで錨を上げて、船を島へと回頭させた。高鳴る美春の心臓は、エンジンの轟きと同期していった。
それから墓前で合掌するとき以外は話をするか何かを食べるかで、美春の口はまったく止まる気配がない。
その内容が家族全員、一切合切わからないから開いた口が塞がらず、ただただポカンとするだけである。
「終点でポールを回しとったら、お客さんが笑うんじゃ。兎みたぁに跳ねて回しとんのが、面白いらしいんよ。ビューゲルじゃったら勝手に向きが変わるけぇ、火花も飛ばんから敵機に見つからんけぇど、まだまだポールが多いんじゃ」
何とか口を開いても、知らない言葉を問うことが精一杯だ。
「ポールっちゅうのは……何じゃ?」
すると美春は嵐のように返してくるから、たまらない。
「電線から電気を取る竿じゃ、後ろ向きに立てるんよ。ポールの先っぽについた滑車を電線に引っ掛けるのも難儀するし、運転が荒いとよう外れるんよ。バネで電線を押し上げとるけぇ、戻したり回したりするとき、うちは浮いてしまうんじゃ」
わかったような、わからないような顔をした父が、とりあえず食えと菓子を勧めて問いかける。
「ほんで、電車っちゅうのがゲートル巻いとるんか?」
美春は、得意になって呆れてみせる。
「ゲートルじゃないわ、電車には足がないけぇ。ビューゲルいうのを、ポールの代わりに立てるんじゃ。会社は置き換えたい言うとるが、鉄は貴重じゃけぇ、これがなっかなか進まんのじゃ」
美春が喋れば喋るほど、家族の動きが止まっていく。湯呑みのお茶はとっくに冷めて、出された菓子には美春のほかに手をつけない。
これに、どうしてわかってくれないのかと美春が頬を膨らませた。
「お父さんが知らん出来んは恥、言うとったが。そんで教えとるんじゃないか」
「確かに言うたが……知らんことを恥と思わんのは、はじめてじゃ……」
突然、美春は頭を押さえつけられ、膳の下へと沈められた。
「お兄ちゃん、やめぇや! 縮んでしまうわ!」
「うるさい! 知らん人に教えるときは、わかるように話さんかい!」
叱られたことに反論する術がなく、むっつりと口をつぐむ美春に、母がそわそわと尋ねてきた。
「ようわからんが、大変な仕事じゃのう。ところで学校はどうなん?」
美春は縮んだ背筋をピンと伸ばして、宝箱でも開けるようにゆっくりと語りだした。
「うん、楽しいよ。仲のいい娘たちと勉強も仕事も教えあっとる。休みの日は、みんなで広島の街とか宮島とかに行っとるんよ。それにお花もお茶もタイプライターも、家政女学校に入らんと勉強出来んと思う」
母がにこやかに頷くと、父は心配そうに雁首を突き出して、兄は呆れつつ羨望の眼差しを向けていた。
「街で遊びて、どんなじゃ? 悪い連中に拐かされとらんか?」
「まったく……遊んでばっかおるんじゃろう」
「そんなことないわい! 電鉄社員として恥ずかしいことは出来んわ! 仕送りだって、きっちりしとるじゃろう!?」
母は微笑みながら、怒る美春をたしなめた。
「美春? たまの休みくらい、お友達と思う存分遊びんさい? あんたじゃったら悪い遊びはせんじゃろう」
「お母さん、美春のことじゃ。ほいほい騙されてしまうかも知れんわ」
慈愛を受けて緩んだ顔が、憎まれ口を喰らって一瞬にして吊り上がった。再び頭を押しつけられて、美春は子猿のようにキイキイと怒っている。
やめぇ! うるさいチビ! と、いつものやり取りをしている兄妹に、父が前のめり肩肘張って語りかけた。
「甲種合格したんじゃ、もう子供みたぁにすな。それと美春。何かあったら、船を飛ばして広島に駆けつけるけぇ。困ったことがあったら手紙でも電話でもええ、早う報せい」
これには喧嘩をしていたふたりも、母でさえも呆れ顔である。
「お父さん。こっから広島まで、どんだけあると思うとるんじゃ? ポンポン船なんかじゃ、エンジンが焼けてしまうで」
息子に急所を突かれた父は背筋を反らし、そっぽに目をやり上ずった声で策を述べた。
「そ……そしたら、島中のエンジンを載せて行くわい。油も満載にする。それなら広島まで行けるじゃろう」
「そんなんしたら、船が沈んでしまうわ」
ケラケラと笑う兄、クスクスと笑う母をよそに美春は目を細め、温かな微笑みをたたえていた。
「電車に盆暮れ正月はないけぇ。あんまり長くはおれんけど、お父さんがそう言うてくれるなら、うちは広島で頑張れるわ」
すると父は肩を震わせ瞳を潤ませ、ついには膳を飛び越え、美春を潰れんばかりに抱きしめた。
「美春! 島中の魚を渡したる! たくさん食べて大きくなれや!!」
「お父さん……苦し……縮んでしまう……」
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