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昭和十八年

第12話・車掌見習③

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 ぎゅうぎゅう詰めの車内を掻き分け切符を売りに歩いているが、身体はぺちゃんこに押し潰されて、声を絞り出すのがやっとであった。
「切符、うてない、お客さん、いませんかぁ」
 九メートルしかない電車にも関わらず、師匠とはぐれてしまっていた。そうは言っても切符の売り方は教わっているし、師匠を探してしまっては、お客さんにタダ乗りされてしまう。今は、担った使命を果たすだけだ。
「森島君、どこにおるんじゃ! 電停着くぞ!?」
 師匠だ、そう遠くないところにいるらしい。
「こ……ここですぅ……」
 隙間を縫って手を上げてみるが、小さな身体が災いし、師匠の視界に届いてくれない。 

 わずかな隙間を掻い潜って腕を伸ばすと、師匠が美春を引っ張り出した。肺が元の大きさに戻り「ふぅっ」と溜め息をついた途端、電車が停まって美春は外へと押し流された。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
 降りた客が美春の両手に切符を押し込む。入れ替わりに客が乗り、電車は今にもはち切れそうなほどパンパンになった。
 そこへ美春が鼠のように潜り込む。

 チン、チン。

 運転台のペダルを踏んで出発合図の鐘を鳴らすと、電車は唸りを上げて走りはじめた。
「森島君は、どこにでも潜り込めて、ええのう」
 小柄であることを、はじめて褒められた。が、照れて謙遜するような暇は一分もなく、客に次の停留所を伝えなければいけない。

 ……しもうた。今、どこじゃ?
 切符を受け取る隙に見た停留所の看板、そして景色を必死になって思い出す。
 そうじゃ、山口町じゃ。でも、次はどこだったかいな……。
 夏子ちゃんが言うとったわ、わからんかったら路線図を見たらええんじゃ。人垣を縫って車内の路線図に目を凝らす。
「次は胡町えびすちょうでございます! お降りの方──」
「森島君! 逆じゃ逆、戻っとるわ! 次は的場町です! お降りの方はございませんか!」
 ……やってしもうた。
 と、しょんぼりしている暇などない。すし詰めの車内をすり抜けて、切符を売りに回らなければならない。
「切符を買うてない方……七銭です、ありがとうございます、ありがとうございます」

 的場町では降りる客はなかったが、停留所には人が列を成していた。しかし車内に乗れるようなところはない。やむなく、停留所に声を掛ける。
「すみません、満員です! 次の電車をお待ちください!」
 人垣のわずかな隙間から川が見えた。猿猴えんこう川、もうじき広島駅だ。
「次は本駅前ぇ、お降りの方はございませんか」
「森島君、終点じゃ! みんな降りるに決まっとるわ!」

 電車が停まると、どこに入っていたのかと言いたくなるほど、人が吐き出されていった。足早に広島駅へと向かう人々から切符を受け取る。
「すまんのう、切符を買えなかったんじゃ。革屋町から乗った」
「それは、すみません。軍人さんは半額で……」
 差し出されたのは、十円札だった。
 女学校に入るだけの頭なら暗算など容易いことだが、面食らった美春は固まっていた。
「ほんに、すまんのう」
「えっ……あっ! 今、お釣りを──」
 ハッとして慌てたものだから、乗務鞄から釣り銭をばら撒いてしまう。
 美春と師匠、呆れ返って怒る気が失せた運転士も手伝って、軍人さんに釣り銭を渡し、拾った金を鞄に突っ込む。

「折返しじゃ、準備せい」
とだけ、素っ気なく言って立ち去る運転士。
「釣り銭の整理は、後でゆっくりすればええわ。それより、もうじき発車時刻じゃ」
と、運転士と美春の板挟みになり、ハラハラしている師匠。
 これに美春は脱兎のよう跳ね飛んで、後方下部の救助網を開き、集電ポールから下がる紐を掴み取る。あとは反対側にぐるりと回して架線に引っ掛け、開いていた救助網を畳めば、折返しの準備は完了。だが──
「し……師匠~……」
 小柄な美春は集電ポールを跳ね上げているバネに負け、紐を掴んだままふわふわと浮いていた。

 *  *  *

 背中を丸めて足を引きずり、トボトボ帰る午前組の列に、午後から見習乗務する組は、これからどんな恐ろしいことが待ち受けているのかと、青ざめ震え、戦慄していた。
 結局、ひとつも停留所を言えなかった千秋は、鼻をスンスン鳴らしながら涙をいっぱいに溜めている。
 出勤時に威勢の良かった夏子は、誰よりもこっぴどく叱られて、もう溜め息しか出てこない。
 そして誰よりも多くの失敗をした美春は、最早死人のようである。
はなから出来たら、俺なんかはいらんわい。失敗出来るうちに失敗しておけ』
 そう言った師匠の、ヒクヒクと引きつった顔が脳みそをスッポリ包み込んで、離れてくれない。

 昼食を摂り、午後からの授業に出席しても、重苦しい空気は変わらない。誰も彼もがうつむいており、沈んでいるのか、帳面をつけているのか、それともその両方なのか、教壇からではわからなかった。
 シンと静まり返った教室は、チョークが鳴らす寒々しいタップダンスだけが響いていた。
「そんじゃあ、これを答えてもらうぞ。そうじゃのう……」
 振り返ってみると、少女たちは机に突っ伏し、スゥスゥと安らかな寝息を立てていた。早起きが今になって堪えたらしい。
「コラッ!! 起きんかい!!」
 少女たちは一斉に立ち上がり目を剥いた。それはまるで、舎監さんの鐘を聞いたときのように。
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