12 / 82
昭和十八年
第12話・車掌見習③
しおりを挟む
ぎゅうぎゅう詰めの車内を掻き分け切符を売りに歩いているが、身体はぺちゃんこに押し潰されて、声を絞り出すのがやっとであった。
「切符、買うてない、お客さん、いませんかぁ」
九メートルしかない電車にも関わらず、師匠と逸れてしまっていた。そうは言っても切符の売り方は教わっているし、師匠を探してしまっては、お客さんにタダ乗りされてしまう。今は、担った使命を果たすだけだ。
「森島君、どこにおるんじゃ! 電停着くぞ!?」
師匠だ、そう遠くないところにいるらしい。
「こ……ここですぅ……」
隙間を縫って手を上げてみるが、小さな身体が災いし、師匠の視界に届いてくれない。
わずかな隙間を掻い潜って腕を伸ばすと、師匠が美春を引っ張り出した。肺が元の大きさに戻り「ふぅっ」と溜め息をついた途端、電車が停まって美春は外へと押し流された。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
降りた客が美春の両手に切符を押し込む。入れ替わりに客が乗り、電車は今にもはち切れそうなほどパンパンになった。
そこへ美春が鼠のように潜り込む。
チン、チン。
運転台のペダルを踏んで出発合図の鐘を鳴らすと、電車は唸りを上げて走りはじめた。
「森島君は、どこにでも潜り込めて、ええのう」
小柄であることを、はじめて褒められた。が、照れて謙遜するような暇は一分もなく、客に次の停留所を伝えなければいけない。
……しもうた。今、どこじゃ?
切符を受け取る隙に見た停留所の看板、そして景色を必死になって思い出す。
そうじゃ、山口町じゃ。でも、次はどこだったかいな……。
夏子ちゃんが言うとったわ、わからんかったら路線図を見たらええんじゃ。人垣を縫って車内の路線図に目を凝らす。
「次は胡町でございます! お降りの方──」
「森島君! 逆じゃ逆、戻っとるわ! 次は的場町です! お降りの方はございませんか!」
……やってしもうた。
と、しょんぼりしている暇などない。すし詰めの車内をすり抜けて、切符を売りに回らなければならない。
「切符を買うてない方……七銭です、ありがとうございます、ありがとうございます」
的場町では降りる客はなかったが、停留所には人が列を成していた。しかし車内に乗れるようなところはない。やむなく、停留所に声を掛ける。
「すみません、満員です! 次の電車をお待ちください!」
人垣のわずかな隙間から川が見えた。猿猴川、もうじき広島駅だ。
「次は本駅前ぇ、お降りの方はございませんか」
「森島君、終点じゃ! みんな降りるに決まっとるわ!」
電車が停まると、どこに入っていたのかと言いたくなるほど、人が吐き出されていった。足早に広島駅へと向かう人々から切符を受け取る。
「すまんのう、切符を買えなかったんじゃ。革屋町から乗った」
「それは、すみません。軍人さんは半額で……」
差し出されたのは、十円札だった。
女学校に入るだけの頭なら暗算など容易いことだが、面食らった美春は固まっていた。
「ほんに、すまんのう」
「えっ……あっ! 今、お釣りを──」
ハッとして慌てたものだから、乗務鞄から釣り銭をばら撒いてしまう。
美春と師匠、呆れ返って怒る気が失せた運転士も手伝って、軍人さんに釣り銭を渡し、拾った金を鞄に突っ込む。
「折返しじゃ、準備せい」
とだけ、素っ気なく言って立ち去る運転士。
「釣り銭の整理は、後でゆっくりすればええわ。それより、もうじき発車時刻じゃ」
と、運転士と美春の板挟みになり、ハラハラしている師匠。
これに美春は脱兎のよう跳ね飛んで、後方下部の救助網を開き、集電ポールから下がる紐を掴み取る。あとは反対側にぐるりと回して架線に引っ掛け、開いていた救助網を畳めば、折返しの準備は完了。だが──
「し……師匠~……」
小柄な美春は集電ポールを跳ね上げているバネに負け、紐を掴んだままふわふわと浮いていた。
* * *
背中を丸めて足を引きずり、トボトボ帰る午前組の列に、午後から見習乗務する組は、これからどんな恐ろしいことが待ち受けているのかと、青ざめ震え、戦慄していた。
結局、ひとつも停留所を言えなかった千秋は、鼻をスンスン鳴らしながら涙をいっぱいに溜めている。
出勤時に威勢の良かった夏子は、誰よりもこっぴどく叱られて、もう溜め息しか出てこない。
そして誰よりも多くの失敗をした美春は、最早死人のようである。
『端から出来たら、俺なんかはいらんわい。失敗出来るうちに失敗しておけ』
そう言った師匠の、ヒクヒクと引きつった顔が脳みそをスッポリ包み込んで、離れてくれない。
昼食を摂り、午後からの授業に出席しても、重苦しい空気は変わらない。誰も彼もがうつむいており、沈んでいるのか、帳面をつけているのか、それともその両方なのか、教壇からではわからなかった。
シンと静まり返った教室は、チョークが鳴らす寒々しいタップダンスだけが響いていた。
「そんじゃあ、これを答えてもらうぞ。そうじゃのう……」
振り返ってみると、少女たちは机に突っ伏し、スゥスゥと安らかな寝息を立てていた。早起きが今になって堪えたらしい。
「コラッ!! 起きんかい!!」
少女たちは一斉に立ち上がり目を剥いた。それはまるで、舎監さんの鐘を聞いたときのように。
「切符、買うてない、お客さん、いませんかぁ」
九メートルしかない電車にも関わらず、師匠と逸れてしまっていた。そうは言っても切符の売り方は教わっているし、師匠を探してしまっては、お客さんにタダ乗りされてしまう。今は、担った使命を果たすだけだ。
「森島君、どこにおるんじゃ! 電停着くぞ!?」
師匠だ、そう遠くないところにいるらしい。
「こ……ここですぅ……」
隙間を縫って手を上げてみるが、小さな身体が災いし、師匠の視界に届いてくれない。
わずかな隙間を掻い潜って腕を伸ばすと、師匠が美春を引っ張り出した。肺が元の大きさに戻り「ふぅっ」と溜め息をついた途端、電車が停まって美春は外へと押し流された。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
降りた客が美春の両手に切符を押し込む。入れ替わりに客が乗り、電車は今にもはち切れそうなほどパンパンになった。
そこへ美春が鼠のように潜り込む。
チン、チン。
運転台のペダルを踏んで出発合図の鐘を鳴らすと、電車は唸りを上げて走りはじめた。
「森島君は、どこにでも潜り込めて、ええのう」
小柄であることを、はじめて褒められた。が、照れて謙遜するような暇は一分もなく、客に次の停留所を伝えなければいけない。
……しもうた。今、どこじゃ?
切符を受け取る隙に見た停留所の看板、そして景色を必死になって思い出す。
そうじゃ、山口町じゃ。でも、次はどこだったかいな……。
夏子ちゃんが言うとったわ、わからんかったら路線図を見たらええんじゃ。人垣を縫って車内の路線図に目を凝らす。
「次は胡町でございます! お降りの方──」
「森島君! 逆じゃ逆、戻っとるわ! 次は的場町です! お降りの方はございませんか!」
……やってしもうた。
と、しょんぼりしている暇などない。すし詰めの車内をすり抜けて、切符を売りに回らなければならない。
「切符を買うてない方……七銭です、ありがとうございます、ありがとうございます」
的場町では降りる客はなかったが、停留所には人が列を成していた。しかし車内に乗れるようなところはない。やむなく、停留所に声を掛ける。
「すみません、満員です! 次の電車をお待ちください!」
人垣のわずかな隙間から川が見えた。猿猴川、もうじき広島駅だ。
「次は本駅前ぇ、お降りの方はございませんか」
「森島君、終点じゃ! みんな降りるに決まっとるわ!」
電車が停まると、どこに入っていたのかと言いたくなるほど、人が吐き出されていった。足早に広島駅へと向かう人々から切符を受け取る。
「すまんのう、切符を買えなかったんじゃ。革屋町から乗った」
「それは、すみません。軍人さんは半額で……」
差し出されたのは、十円札だった。
女学校に入るだけの頭なら暗算など容易いことだが、面食らった美春は固まっていた。
「ほんに、すまんのう」
「えっ……あっ! 今、お釣りを──」
ハッとして慌てたものだから、乗務鞄から釣り銭をばら撒いてしまう。
美春と師匠、呆れ返って怒る気が失せた運転士も手伝って、軍人さんに釣り銭を渡し、拾った金を鞄に突っ込む。
「折返しじゃ、準備せい」
とだけ、素っ気なく言って立ち去る運転士。
「釣り銭の整理は、後でゆっくりすればええわ。それより、もうじき発車時刻じゃ」
と、運転士と美春の板挟みになり、ハラハラしている師匠。
これに美春は脱兎のよう跳ね飛んで、後方下部の救助網を開き、集電ポールから下がる紐を掴み取る。あとは反対側にぐるりと回して架線に引っ掛け、開いていた救助網を畳めば、折返しの準備は完了。だが──
「し……師匠~……」
小柄な美春は集電ポールを跳ね上げているバネに負け、紐を掴んだままふわふわと浮いていた。
* * *
背中を丸めて足を引きずり、トボトボ帰る午前組の列に、午後から見習乗務する組は、これからどんな恐ろしいことが待ち受けているのかと、青ざめ震え、戦慄していた。
結局、ひとつも停留所を言えなかった千秋は、鼻をスンスン鳴らしながら涙をいっぱいに溜めている。
出勤時に威勢の良かった夏子は、誰よりもこっぴどく叱られて、もう溜め息しか出てこない。
そして誰よりも多くの失敗をした美春は、最早死人のようである。
『端から出来たら、俺なんかはいらんわい。失敗出来るうちに失敗しておけ』
そう言った師匠の、ヒクヒクと引きつった顔が脳みそをスッポリ包み込んで、離れてくれない。
昼食を摂り、午後からの授業に出席しても、重苦しい空気は変わらない。誰も彼もがうつむいており、沈んでいるのか、帳面をつけているのか、それともその両方なのか、教壇からではわからなかった。
シンと静まり返った教室は、チョークが鳴らす寒々しいタップダンスだけが響いていた。
「そんじゃあ、これを答えてもらうぞ。そうじゃのう……」
振り返ってみると、少女たちは机に突っ伏し、スゥスゥと安らかな寝息を立てていた。早起きが今になって堪えたらしい。
「コラッ!! 起きんかい!!」
少女たちは一斉に立ち上がり目を剥いた。それはまるで、舎監さんの鐘を聞いたときのように。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
上意討ち人十兵衛
工藤かずや
歴史・時代
本間道場の筆頭師範代有村十兵衛は、
道場四天王の一人に数えられ、
ゆくゆくは道場主本間頼母の跡取りになると見られて居た。
だが、十兵衛には誰にも言えない秘密があった。
白刃が怖くて怖くて、真剣勝負ができないことである。
その恐怖心は病的に近く、想像するだに震えがくる。
城中では御納戸役をつとめ、城代家老の信任も厚つかった。
そんな十兵衛に上意討ちの命が降った。
相手は一刀流の遣い手・田所源太夫。
だが、中間角蔵の力を借りて田所を斬ったが、
上意討ちには見届け人がついていた。
十兵衛は目付に呼び出され、
二度目の上意討ちか切腹か、どちらかを選べと迫られた。
異・雨月
筑前助広
歴史・時代
幕末。泰平の世を築いた江戸幕府の屋台骨が揺らぎだした頃、怡土藩中老の三男として生まれた谷原睦之介は、誰にも言えぬ恋に身を焦がしながら鬱屈した日々を過ごしていた。未来のない恋。先の見えた将来。何も変わらず、このまま世の中は当たり前のように続くと思っていたのだが――。
<本作は、小説家になろう・カクヨムに連載したものを、加筆修正し掲載しています>
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・地名とは一切関係ありません。
※この物語は、「巷説江戸演義」と題した筑前筑後オリジナル作品企画の作品群です。舞台は江戸時代ですが、オリジナル解釈の江戸時代ですので、史実とは違う部分も多数ございますので、どうぞご注意ください。また、作中には実際の地名が登場しますが、実在のものとは違いますので、併せてご注意ください。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる