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第48話・RED⑦
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春を迎えて、ようやく線路の敷設を終えた。貨車を連ねた汽車が走り、俺たちが切り出した木を運び出す。辺りのめぼしい木がなくなると、また線路を敷いて伐採をする。
二度目の冬が底冷えした頃、入れ替わりにロシア人がやってきた。結構な人数で、俺たちと同じだけいる。するとソビエト兵のひとりが、彼らを連れてきた貨車に乗れと俺たちに命じた。
「ダモイ、ダモイ」
と、ソビエト兵は尻を叩いた。
しかし、またどこかへ移送されるのだろう。
列車は、夜を走っていた。閉ざされた扉の隙間に差すのは、闇だけだった。この扉が開いたら、すぐに作業を強いられる。ならば少しでも休まなければと、俺たちは壁にもたれかかって眠りについた。
扉の隙間から光が差した。もう朝か、と抜けない疲れに霞んだ目を擦って、ハッとした。
「……東だ、東に向かっているぞ」
朝日は、進行方向から差していた。夜を越えたのだから、ハバロフスクに帰ったのか。ソビエト兵の「ダモイ」は、嘘ではなかった。
壁に目を寄せ、扉の隙間から外の景色を覗った。何も映らなかったが、願いながら自身を疑う香りがほのかに漂ってきた。
海の匂いだ、わずかに潮の香りがする。
俺たちの逸る気持ちに反して、汽車は悠長に減速をした。慎重に進む駅構内、早く止まれ扉よ開けと俺たちの気ばかりが焦っていた。
待ちに待った停車をし、ソビエト兵が扉を開き、俺たちはプラットホームに雪崩落ちた。
辺りを見回し、駅名が書かれていないかを探す。
読める、読めるぞ。ウラジオストクだ。東の果ての港町、ウラジオストクだ。
扉を開けたソビエト兵が駅舎を差して「ダモイ」と言った。
張り裂けそうな胸から感情がこみ上げ、溢れて頬を伝っていった。そして俺は、ポケットの小さな缶にそっと触れた。
班長、日本に帰りましょう、と。
ウラジオストク港から船に揺られて、踏みしめた日本の土は舞鶴だった。検疫を受けると、あまりに痩せていると驚かれたが、町を往来する人々も輪をかけて痩せていた。
日本は敗けて、酷い状況になっている。復員兵に仕事があるのかと、不安ばかりが募っていった。
それより先に、班長殿だ。ご家族が助かっているならば潔い散り際を、班長のお陰で生きて日本の土を踏めたと伝えなければ、死んでも死にきれない。
班長は、東京生まれだと言っていた。
東京行きの復員列車に乗車して、疲弊した車両に眉をひそめた。華々しい満鉄客車とは雲泥の差で、俺が本土にいた頃の見る影もない。
流れる車窓も名古屋や静岡、横浜そして東京は、瓦礫と掘っ立て小屋ばかりだった。焼け残ったビルディングは、GHQが占領したと聞かされた。
班長の家族はご存命で、幸いにも焼け出されていなかった。だが、配給だけでは足りないので痩せている。俺に出来るのは死に様を伝えるだけなのか、と膝の上で握った拳を震わせた。
俺の両親も郊外住まいが幸いし、助かっていた。よく生きていたと涙され、亡き班長と駅長に心から感謝した。
しかし、満州を蹂躙した関東軍にいた俺に、仕事などあるだろうか。中国を我が物として振る舞った後悔が、ソビエトの虜囚となった生き恥が、将校を凍った土に埋めた罪悪感が、俺の前進を阻んだ。
仕事探しを口実に靖国神社を参拝し、当て所なく闇市を歩いていると、掘っ立て小屋の呑み屋が目についた。
酒に溺れて死ぬのも、いいかも知れない。褪せた暖簾を潜ろうとした手は、誰かによって引き止められた。
「そんなところでは、目を潰すぞ。復員したばかりだな? いいところを教えてやる」
見ず知らずの俺を案じるなど、と不審に思った。が、肩にかけられた男の手からは、ツンと鼻をつく臭いがした。機械油だ、労働者ならば信用しようと彼の後をついていった。
同じようなバラックだったが、女将の背後に並ぶ酒は安物とはいえ、ちゃんとした酒だった。美味くはないが、味もある。
あの店では、どんな酒を出しているんだ、と肩をすくめて酒を啜った。
「遅かったな、どこにいた」
「満州だ。それから、シベリアにいた」
「そうか、俺は南方だ。虜囚の恥を享受した」
過酷と聞いた南方だったが、捕虜に対する扱いはよかったのかと羨んだ。それでも、捕虜になるまで噂以上の地獄を見てきたのだろう。虜囚の恥辱は、どこにいても同じだ。羨むのは違うかと、グラスをつまんで傾けた。
「それで、仕事を探しているのか」
彼も、俺を殺してくれない。酒で死ぬという考えは、酔うだけの酒が流してしまった。
「そうだが……一兵卒でしかなかった俺に、仕事があるだろうか」
「シベリアでは、何をしていた」
「林を切り開いて、線路を敷いた」
ずいぶんな違いだと目を丸くして、苦労が絶えなかったのだと俺を慮った。
「鉄道総局に入らないか? 国家機関だ、復員兵を雇ってくれる」
突然の申し出に驚いて、言葉を失っている俺に、彼は今更ながらと自己紹介した。
「驚かせて、すまん。運輸省鉄道総局、大井工場の平木だ。軍需工場にいた経験を買われた。シベリアで線路の敷設をしていたのなら、保線の職員として雇われるだろう」
この縁を……というのが常人の発想だろう。だが俺は、収容所で聞かされた駅長の話を思い出した。
『鉄道は、すべてが揃わなければ走れない』
まさに収容所で読みふけり、議論を交わした末に辿り着いた、理想の社会ではないか。鉄道は駅長が導いてくれた、俺にとっての理想郷だ。
「総局に入れたら、宜しく頼む。俺は呉羽だ」
「そうなれば、なかなか顔を合わさないだろうが。君が総局に加われば、きっと力になるはずだ」
苦笑しながら差し伸べられた手の平を、俺は強く握りしめた。
二度目の冬が底冷えした頃、入れ替わりにロシア人がやってきた。結構な人数で、俺たちと同じだけいる。するとソビエト兵のひとりが、彼らを連れてきた貨車に乗れと俺たちに命じた。
「ダモイ、ダモイ」
と、ソビエト兵は尻を叩いた。
しかし、またどこかへ移送されるのだろう。
列車は、夜を走っていた。閉ざされた扉の隙間に差すのは、闇だけだった。この扉が開いたら、すぐに作業を強いられる。ならば少しでも休まなければと、俺たちは壁にもたれかかって眠りについた。
扉の隙間から光が差した。もう朝か、と抜けない疲れに霞んだ目を擦って、ハッとした。
「……東だ、東に向かっているぞ」
朝日は、進行方向から差していた。夜を越えたのだから、ハバロフスクに帰ったのか。ソビエト兵の「ダモイ」は、嘘ではなかった。
壁に目を寄せ、扉の隙間から外の景色を覗った。何も映らなかったが、願いながら自身を疑う香りがほのかに漂ってきた。
海の匂いだ、わずかに潮の香りがする。
俺たちの逸る気持ちに反して、汽車は悠長に減速をした。慎重に進む駅構内、早く止まれ扉よ開けと俺たちの気ばかりが焦っていた。
待ちに待った停車をし、ソビエト兵が扉を開き、俺たちはプラットホームに雪崩落ちた。
辺りを見回し、駅名が書かれていないかを探す。
読める、読めるぞ。ウラジオストクだ。東の果ての港町、ウラジオストクだ。
扉を開けたソビエト兵が駅舎を差して「ダモイ」と言った。
張り裂けそうな胸から感情がこみ上げ、溢れて頬を伝っていった。そして俺は、ポケットの小さな缶にそっと触れた。
班長、日本に帰りましょう、と。
ウラジオストク港から船に揺られて、踏みしめた日本の土は舞鶴だった。検疫を受けると、あまりに痩せていると驚かれたが、町を往来する人々も輪をかけて痩せていた。
日本は敗けて、酷い状況になっている。復員兵に仕事があるのかと、不安ばかりが募っていった。
それより先に、班長殿だ。ご家族が助かっているならば潔い散り際を、班長のお陰で生きて日本の土を踏めたと伝えなければ、死んでも死にきれない。
班長は、東京生まれだと言っていた。
東京行きの復員列車に乗車して、疲弊した車両に眉をひそめた。華々しい満鉄客車とは雲泥の差で、俺が本土にいた頃の見る影もない。
流れる車窓も名古屋や静岡、横浜そして東京は、瓦礫と掘っ立て小屋ばかりだった。焼け残ったビルディングは、GHQが占領したと聞かされた。
班長の家族はご存命で、幸いにも焼け出されていなかった。だが、配給だけでは足りないので痩せている。俺に出来るのは死に様を伝えるだけなのか、と膝の上で握った拳を震わせた。
俺の両親も郊外住まいが幸いし、助かっていた。よく生きていたと涙され、亡き班長と駅長に心から感謝した。
しかし、満州を蹂躙した関東軍にいた俺に、仕事などあるだろうか。中国を我が物として振る舞った後悔が、ソビエトの虜囚となった生き恥が、将校を凍った土に埋めた罪悪感が、俺の前進を阻んだ。
仕事探しを口実に靖国神社を参拝し、当て所なく闇市を歩いていると、掘っ立て小屋の呑み屋が目についた。
酒に溺れて死ぬのも、いいかも知れない。褪せた暖簾を潜ろうとした手は、誰かによって引き止められた。
「そんなところでは、目を潰すぞ。復員したばかりだな? いいところを教えてやる」
見ず知らずの俺を案じるなど、と不審に思った。が、肩にかけられた男の手からは、ツンと鼻をつく臭いがした。機械油だ、労働者ならば信用しようと彼の後をついていった。
同じようなバラックだったが、女将の背後に並ぶ酒は安物とはいえ、ちゃんとした酒だった。美味くはないが、味もある。
あの店では、どんな酒を出しているんだ、と肩をすくめて酒を啜った。
「遅かったな、どこにいた」
「満州だ。それから、シベリアにいた」
「そうか、俺は南方だ。虜囚の恥を享受した」
過酷と聞いた南方だったが、捕虜に対する扱いはよかったのかと羨んだ。それでも、捕虜になるまで噂以上の地獄を見てきたのだろう。虜囚の恥辱は、どこにいても同じだ。羨むのは違うかと、グラスをつまんで傾けた。
「それで、仕事を探しているのか」
彼も、俺を殺してくれない。酒で死ぬという考えは、酔うだけの酒が流してしまった。
「そうだが……一兵卒でしかなかった俺に、仕事があるだろうか」
「シベリアでは、何をしていた」
「林を切り開いて、線路を敷いた」
ずいぶんな違いだと目を丸くして、苦労が絶えなかったのだと俺を慮った。
「鉄道総局に入らないか? 国家機関だ、復員兵を雇ってくれる」
突然の申し出に驚いて、言葉を失っている俺に、彼は今更ながらと自己紹介した。
「驚かせて、すまん。運輸省鉄道総局、大井工場の平木だ。軍需工場にいた経験を買われた。シベリアで線路の敷設をしていたのなら、保線の職員として雇われるだろう」
この縁を……というのが常人の発想だろう。だが俺は、収容所で聞かされた駅長の話を思い出した。
『鉄道は、すべてが揃わなければ走れない』
まさに収容所で読みふけり、議論を交わした末に辿り着いた、理想の社会ではないか。鉄道は駅長が導いてくれた、俺にとっての理想郷だ。
「総局に入れたら、宜しく頼む。俺は呉羽だ」
「そうなれば、なかなか顔を合わさないだろうが。君が総局に加われば、きっと力になるはずだ」
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