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第43話・RED②
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捕虜となった俺たちは、近くの街に連れられた。
日本が支配していた街の、日本人が経営していた工場の、日本人が操っていた機械を、日本人が運行していた南満州鉄道の貨車に載せる。
その行き先はソビエト領。五族協和を謳った大地から、俺たち日本人の手で日本を消していく。
ただ、建物だけは消せなかった。奪われた土地の発展を横目に見ていた中国人が商社や銀行、そして駅を使っているからだ。そんなつもりはないだろうが、ここで生まれ育った彼らにとっては、高い利子をつけて貸していた、それに似た感覚だろうか。
「結局は、借り物だったということだ」
と、俺の思考を見透かしたように、駅長が駅舎を見上げて呟いた。
ソビエト兵の指示を待つ間、みんなが抱いていた疑問を俺は尋ねた。
「駅長、何故あなたひとりが残ったのですか」
「そりゃあ、列車の出発を監視するのが駅長の務めだからさ。発車の準備が整って、進路が開通したならば、列車を監視するひとりが残っていればいい」
「私は、あなたを尊敬します。駅長に相応しい駅長だ」
よくぞ生かしてくれた、そう思うと同時に、一緒に逃げてほしかった、とも思えてしまい、ぽっかりと空いた穴に風が吹き抜けていく、そんな寂しさが胸に滲みた。
ソビエト兵の指示を受け、中国人の駅員が進路を開通させていた。その様子を駅長は、鉄道従事員の目で見つめていた。
しばらくして、駅に列車が進入した。貨車ばかりを連ねているが、もう運び出すようなものは残っていない。
するとソビエト兵がこちらに向かい、繰り返し声を張り上げてきた。
「ダモイ? ダモイっていうのは、何だ?」
怪訝な顔を浮かべている中、ひとりが飛び跳ねるように立ち上がった。
「……帰る、帰るだ。みんな、日本に帰れるぞ!」
それを聞いて、俺たちは歓喜に沸いた。何故日本に帰れるか、それは日本が敗けたからだと気づいたが、そんなことはどうでもよかった。
敗けて当然の戦いを強いられていた。俺たちは、戦地でそれを肌で感じて、どんな結果でもいいから早く終われと、密かに祈っていた。それが、ついに叶ったのだ。
生き恥が何だ、日本の土を踏めるんだ、切り落とした班長の指を日本の土に還せるんだ。
ソビエト兵に導かれてすぐ、改札口を通過した。ソビエト兵が扉を開いてすぐ、我先にと貨車に乗り込んだ。ソビエト兵が扉を閉めて、真っ暗になった貨車の中で、次々と閉まる貨車の扉の音を聞き、今か今かと発車を待った。
汽車が走る音がした。俺たちが乗った貨車は微動だにしない。汽車の付け替えをしているのだろう、早く連結を済ませてくれと祈っている俺のそばで、駅長は扉の隙間から駅構内を睨んでいた。
「何故、入れ換える。日本に帰るのではないのか」
「駅長、ソビエト兵が『帰る』と言ったんです」
「しかし汽車を付け替えると、北に進路を取ることになる。大連には行かないのか」
「我々はソビエトの捕虜です。ウラジオストクから日本に帰るのではないですか?」
そうだといいが、と呟いてから駅長は腕を組んで唸った。疑り深い駅長と、それを嘲笑った俺たちを乗せた貨物列車はロシアの東、ハバロフスクで扉を開いた。
いつウラジオストクに向かうのだろう、いつ船に乗るのだろう、いつ日本に着くのだろうかと待つ間にも、貨物列車が次々とハバロフスク駅で日本人を降ろしていった。
その数が千に達して、これ以上は船に乗れない、いよいよ日本に帰るのだ、と期待に胸を膨らませたとき、ハバロフスク駅に向かうよう指示された。
ソビエト兵が「ダモイ、ダモイ」と声を上げ、俺たちを貨車に導いていく。すし詰めになった貨車は温かな連帯感で包まれていた。真っ暗になった車内には、眩しいほどの希望が煌々と灯っていた。
駅長だけは汽車が走り出すまでの間、貨車の扉の隙間から駅構内を覗っていた。真面目な人だ、こんなときまで列車を見るなんて、と俺たちは笑い飛ばした。
すべての扉が閉まったのちに、ソビエトの汽車は重々しく走り出した。連結器が伸びる音が、前から順に鳴り響いていく。加速が鈍いのは、俺たち捕虜を満載にしているせいだろう。その間も駅長は、駅構内を扉の隙間から覗いていた。
「駅長、危険です」
「わかっている」
駅長が扉から離れると、乗っている貨車の連結器が伸びて、激しく身体を揺さぶられた。その衝動が次の貨車へと伝わると、バネが軋む音だけが車内に響いた。
動いてくれた、切り離されずに。俺たちはホッと安堵して、貨車の壁にもたれかかり、ふーっと長く息を吐いた。それが心身ともに弛緩させて、思わず笑みがこぼれていった。
「こんなに早く帰れるとはな」
「いや、ずいぶん待たされた」
「さらば、ハバロフスク、か」
「日本に帰ったら、何をする」
「米を食いたい、銀シャリだ」
「駅長は、どうされますか?」
浮ついた質問に、駅長はぽつりと答えた。
「風呂に浸かりたい」
それは妙案、取るに足らないような日々こそ幸せなのだ、と俺たちは騒がしいほどに沸いていた。
だが駅長は、港を見るまで安心出来ない、とでも言うように、硬い表情を崩さずにいた。
長い間、列車は走り続けていた。進路の都合か、上下列車の交換待ちか、ときどき駅に停まったが、この貨車にはロシア語がわかるものがいないから、いいや駅名を読めたところで、土地勘がなくどこかわからないから、海が見えるのをひたすら待った。
そのうち、日が暮れてきた。扉の隙間から差す光が、次第に黄色くなっていく。車内の誰もが、その異変に気がついた。
夕日は、進行方向の隙間から差し込んでいた。
この列車は、西に向かっているのだ。
日本が支配していた街の、日本人が経営していた工場の、日本人が操っていた機械を、日本人が運行していた南満州鉄道の貨車に載せる。
その行き先はソビエト領。五族協和を謳った大地から、俺たち日本人の手で日本を消していく。
ただ、建物だけは消せなかった。奪われた土地の発展を横目に見ていた中国人が商社や銀行、そして駅を使っているからだ。そんなつもりはないだろうが、ここで生まれ育った彼らにとっては、高い利子をつけて貸していた、それに似た感覚だろうか。
「結局は、借り物だったということだ」
と、俺の思考を見透かしたように、駅長が駅舎を見上げて呟いた。
ソビエト兵の指示を待つ間、みんなが抱いていた疑問を俺は尋ねた。
「駅長、何故あなたひとりが残ったのですか」
「そりゃあ、列車の出発を監視するのが駅長の務めだからさ。発車の準備が整って、進路が開通したならば、列車を監視するひとりが残っていればいい」
「私は、あなたを尊敬します。駅長に相応しい駅長だ」
よくぞ生かしてくれた、そう思うと同時に、一緒に逃げてほしかった、とも思えてしまい、ぽっかりと空いた穴に風が吹き抜けていく、そんな寂しさが胸に滲みた。
ソビエト兵の指示を受け、中国人の駅員が進路を開通させていた。その様子を駅長は、鉄道従事員の目で見つめていた。
しばらくして、駅に列車が進入した。貨車ばかりを連ねているが、もう運び出すようなものは残っていない。
するとソビエト兵がこちらに向かい、繰り返し声を張り上げてきた。
「ダモイ? ダモイっていうのは、何だ?」
怪訝な顔を浮かべている中、ひとりが飛び跳ねるように立ち上がった。
「……帰る、帰るだ。みんな、日本に帰れるぞ!」
それを聞いて、俺たちは歓喜に沸いた。何故日本に帰れるか、それは日本が敗けたからだと気づいたが、そんなことはどうでもよかった。
敗けて当然の戦いを強いられていた。俺たちは、戦地でそれを肌で感じて、どんな結果でもいいから早く終われと、密かに祈っていた。それが、ついに叶ったのだ。
生き恥が何だ、日本の土を踏めるんだ、切り落とした班長の指を日本の土に還せるんだ。
ソビエト兵に導かれてすぐ、改札口を通過した。ソビエト兵が扉を開いてすぐ、我先にと貨車に乗り込んだ。ソビエト兵が扉を閉めて、真っ暗になった貨車の中で、次々と閉まる貨車の扉の音を聞き、今か今かと発車を待った。
汽車が走る音がした。俺たちが乗った貨車は微動だにしない。汽車の付け替えをしているのだろう、早く連結を済ませてくれと祈っている俺のそばで、駅長は扉の隙間から駅構内を睨んでいた。
「何故、入れ換える。日本に帰るのではないのか」
「駅長、ソビエト兵が『帰る』と言ったんです」
「しかし汽車を付け替えると、北に進路を取ることになる。大連には行かないのか」
「我々はソビエトの捕虜です。ウラジオストクから日本に帰るのではないですか?」
そうだといいが、と呟いてから駅長は腕を組んで唸った。疑り深い駅長と、それを嘲笑った俺たちを乗せた貨物列車はロシアの東、ハバロフスクで扉を開いた。
いつウラジオストクに向かうのだろう、いつ船に乗るのだろう、いつ日本に着くのだろうかと待つ間にも、貨物列車が次々とハバロフスク駅で日本人を降ろしていった。
その数が千に達して、これ以上は船に乗れない、いよいよ日本に帰るのだ、と期待に胸を膨らませたとき、ハバロフスク駅に向かうよう指示された。
ソビエト兵が「ダモイ、ダモイ」と声を上げ、俺たちを貨車に導いていく。すし詰めになった貨車は温かな連帯感で包まれていた。真っ暗になった車内には、眩しいほどの希望が煌々と灯っていた。
駅長だけは汽車が走り出すまでの間、貨車の扉の隙間から駅構内を覗っていた。真面目な人だ、こんなときまで列車を見るなんて、と俺たちは笑い飛ばした。
すべての扉が閉まったのちに、ソビエトの汽車は重々しく走り出した。連結器が伸びる音が、前から順に鳴り響いていく。加速が鈍いのは、俺たち捕虜を満載にしているせいだろう。その間も駅長は、駅構内を扉の隙間から覗いていた。
「駅長、危険です」
「わかっている」
駅長が扉から離れると、乗っている貨車の連結器が伸びて、激しく身体を揺さぶられた。その衝動が次の貨車へと伝わると、バネが軋む音だけが車内に響いた。
動いてくれた、切り離されずに。俺たちはホッと安堵して、貨車の壁にもたれかかり、ふーっと長く息を吐いた。それが心身ともに弛緩させて、思わず笑みがこぼれていった。
「こんなに早く帰れるとはな」
「いや、ずいぶん待たされた」
「さらば、ハバロフスク、か」
「日本に帰ったら、何をする」
「米を食いたい、銀シャリだ」
「駅長は、どうされますか?」
浮ついた質問に、駅長はぽつりと答えた。
「風呂に浸かりたい」
それは妙案、取るに足らないような日々こそ幸せなのだ、と俺たちは騒がしいほどに沸いていた。
だが駅長は、港を見るまで安心出来ない、とでも言うように、硬い表情を崩さずにいた。
長い間、列車は走り続けていた。進路の都合か、上下列車の交換待ちか、ときどき駅に停まったが、この貨車にはロシア語がわかるものがいないから、いいや駅名を読めたところで、土地勘がなくどこかわからないから、海が見えるのをひたすら待った。
そのうち、日が暮れてきた。扉の隙間から差す光が、次第に黄色くなっていく。車内の誰もが、その異変に気がついた。
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