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第42話・RED①
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北を守れという指示を残して、将校率いる軍勢は八路軍との戦いのため、満鉄に乗って渇いた大地を南進した。
班長以下、取り残された俺たちはトーチカに身を潜め、天皇陛下から賜った銃剣に弾を込め、寒さと恐れに身体を震わせソビエト軍を待ち構えていた。
俺たちの思いは、ひとつだった。
見捨てられた。
銃弾を置いていったのは、荷物になるから。汽車旅に必要な食糧を持っていかれて、俺たちの取り分はその残り。長期戦になれば、持ちこたえられないのは明らかだった。
結局、将校は逃げたのだ。戦局悪化を察知して、詭弁を盾に安全圏へと遁走したのだ。あわよくば、日本へ帰る船に乗るのだろう。
銃を構える金属音が微かに鳴った。俺たちは一斉に身体を伏せて、銃剣をそちら向けた。まるで虎に怯える兎みたいだと、張り詰めた空気の中で不思議と笑いがこみ上げてきた。
兎じゃないな。俺たちは、このトーチカから逃げられない。ソビエト兵は残忍で、略奪や強姦を厭わないと聞いている。
略奪、強姦、関東軍も同じじゃないか。
八路軍に通じていると疑いをかけ、中国人の家に押し入って金品を奪い姑娘を攫い、証拠の品や戦利品だと言って上官に差し出した。
五族協和など、嘘八百だ。世界を敵に回して、何が八紘一宇だ。
そんな疑念は、関東軍の兵士が抱いてはいけないものだった。これが明らかになってしまえば、上官のビンタでは済まされない。リンチされて玉と散るなど、死してなお恥を晒すような真似は出来ない。
苦々しくも一兵卒は、上官に従うほかない。
これは、その報いだ。関東軍が犯した罪は、誰かが償わなければならない。
畜生、将校連中め。罪まで捨てていきやがった。
しかし、自分自身の可愛さで罪に加担したのも、また事実。大陸を荒らした償いとして、渇いた大地を血潮で潤す。このトーチカは、関東軍が用意した俺たちの墓場だ。
覚悟は決まった。ソビエトから日本を守るため、俺は最後の死力を尽くす。だからせめて俺たちを、満州を見捨てた将校を日本で裁いてくれないか。
銃剣の先、なだらかな丘の上に、ひとつの人影が姿を見せた。
ひとりだけ? 何故ひとりだけなんだと、疑問符が俺たちの首を引き上げた。
ひとつの人影が両手を挙げると、無数の銃口が丘の陰から現れて、その一点に突きつけられた。
捕虜? いいや、人質だ。俺たちを投降させようと捕らえた日本人なのだ。
班長が双眼鏡を覗き込んで「撃つな!」と叫ぶ。何故だ、と俺たちに湧いた疑問は、囚われの身に目を凝らして晴れ、厚い雲が被さった。
民間人だ、年老いた、南満州鉄道の駅長だ。
どうして満鉄の駅長が、ソビエト兵に捕らわれている。それもひとり、ほかの駅員はどうしたのだ。まさか殺されたのか、それならば駅があったその町は、ソビエトの手に落ちたのか。
緊迫した渦に取り込まれていく俺たちに、駅長はしわがれ声を張り上げた。
「ほかの者は列車に乗せ、私ひとりが町に残った! 投降すれば生命は取らないと言っている! 満州で名誉の死を選ぶか、恥を晒して日本の土を踏むか、ふたつにひとつだ!」
俺たちは一斉に、遥か遠くの稜線に銃を向けた。すぐさま投降するのではない、全員が決断出来ずにいた。
戦う姿勢を見せたなら、ソビエト兵のライフルが火を吹いて、駅長は木っ端微塵となるに違いない。その隙に一斉射撃を行えば、ソビエトの軍勢に打撃を与えられる。こちらはトーチカ、そうなれば優勢なのは我々だ。
が、見捨てられた俺たちに、駅長を見捨てることなど出来るだろうか。
それでは、我々が恨んだ関東軍の将校と同じではないか。民家を襲い、逃げた将校の罪を負い、更に罪を重ねるというのか。
俺がもたげた銃剣を、仲間が上から押さえつけてきた。早まるな、班長に判断を委ねろと、首を横に振っている。
「駅長は脅されている。あれはソビエトの罠だ」
「しかし、軍人ではない。犠牲にしてもいいのか」
「貴様は、そのために一個隊を犠牲にするのか」
「死する犠牲と生ける犠牲、どちらを選ぶかと問うている」
声を殺したやり取りが、このトーチカを感情の霧に包み込む。息が詰まるほどの濃い霧を晴らそうとして、溺れるようにもがいていた。
班長は、霧の中から首を出した。そこもまた靄の中だが、この先に光明があると信じて踏み出した。
銃剣を立て、真っ白なハンカチーフを結びつけ、高く掲げて大きく振った。
「貴様ら、生きろ! ここで死んでは、骨のひとつも帰れぬぞ! 死ぬなら日本の土で死ね!」
生きる希望は、俺たちにとっては絶望だった。胸をえぐるほどの悔しさに、身体を震わせむせび泣く者さえあった。銃剣を置き、両手を挙げてトーチカから奈落の底へと降りていく。
渇いた大地を踏みしめたとき、抜けるような青空に一発の銃声が鳴り響いた。
ハッとしてトーチカを見上げると、顎から脳天を撃ち抜いた班長が、力なく崩れ落ちていった。銃剣にくくりつけた白旗は、みるみる真っ赤に染まっていった。
「班長殿!」
トーチカを向いた俺たちに、微かな機械音が枷をかけた。ソビエト兵は、丸腰の背中に銃口を向けている。
俺たちは、再び両手を挙げて振り返った。捕虜となり、真っ先にするべきことが、鉛のような足取りを一歩一歩と進めていった。
駅長を通して、みっともなく懇願しよう。
指一本でもいい、班長の骨を拾わせてくれ、と。
班長以下、取り残された俺たちはトーチカに身を潜め、天皇陛下から賜った銃剣に弾を込め、寒さと恐れに身体を震わせソビエト軍を待ち構えていた。
俺たちの思いは、ひとつだった。
見捨てられた。
銃弾を置いていったのは、荷物になるから。汽車旅に必要な食糧を持っていかれて、俺たちの取り分はその残り。長期戦になれば、持ちこたえられないのは明らかだった。
結局、将校は逃げたのだ。戦局悪化を察知して、詭弁を盾に安全圏へと遁走したのだ。あわよくば、日本へ帰る船に乗るのだろう。
銃を構える金属音が微かに鳴った。俺たちは一斉に身体を伏せて、銃剣をそちら向けた。まるで虎に怯える兎みたいだと、張り詰めた空気の中で不思議と笑いがこみ上げてきた。
兎じゃないな。俺たちは、このトーチカから逃げられない。ソビエト兵は残忍で、略奪や強姦を厭わないと聞いている。
略奪、強姦、関東軍も同じじゃないか。
八路軍に通じていると疑いをかけ、中国人の家に押し入って金品を奪い姑娘を攫い、証拠の品や戦利品だと言って上官に差し出した。
五族協和など、嘘八百だ。世界を敵に回して、何が八紘一宇だ。
そんな疑念は、関東軍の兵士が抱いてはいけないものだった。これが明らかになってしまえば、上官のビンタでは済まされない。リンチされて玉と散るなど、死してなお恥を晒すような真似は出来ない。
苦々しくも一兵卒は、上官に従うほかない。
これは、その報いだ。関東軍が犯した罪は、誰かが償わなければならない。
畜生、将校連中め。罪まで捨てていきやがった。
しかし、自分自身の可愛さで罪に加担したのも、また事実。大陸を荒らした償いとして、渇いた大地を血潮で潤す。このトーチカは、関東軍が用意した俺たちの墓場だ。
覚悟は決まった。ソビエトから日本を守るため、俺は最後の死力を尽くす。だからせめて俺たちを、満州を見捨てた将校を日本で裁いてくれないか。
銃剣の先、なだらかな丘の上に、ひとつの人影が姿を見せた。
ひとりだけ? 何故ひとりだけなんだと、疑問符が俺たちの首を引き上げた。
ひとつの人影が両手を挙げると、無数の銃口が丘の陰から現れて、その一点に突きつけられた。
捕虜? いいや、人質だ。俺たちを投降させようと捕らえた日本人なのだ。
班長が双眼鏡を覗き込んで「撃つな!」と叫ぶ。何故だ、と俺たちに湧いた疑問は、囚われの身に目を凝らして晴れ、厚い雲が被さった。
民間人だ、年老いた、南満州鉄道の駅長だ。
どうして満鉄の駅長が、ソビエト兵に捕らわれている。それもひとり、ほかの駅員はどうしたのだ。まさか殺されたのか、それならば駅があったその町は、ソビエトの手に落ちたのか。
緊迫した渦に取り込まれていく俺たちに、駅長はしわがれ声を張り上げた。
「ほかの者は列車に乗せ、私ひとりが町に残った! 投降すれば生命は取らないと言っている! 満州で名誉の死を選ぶか、恥を晒して日本の土を踏むか、ふたつにひとつだ!」
俺たちは一斉に、遥か遠くの稜線に銃を向けた。すぐさま投降するのではない、全員が決断出来ずにいた。
戦う姿勢を見せたなら、ソビエト兵のライフルが火を吹いて、駅長は木っ端微塵となるに違いない。その隙に一斉射撃を行えば、ソビエトの軍勢に打撃を与えられる。こちらはトーチカ、そうなれば優勢なのは我々だ。
が、見捨てられた俺たちに、駅長を見捨てることなど出来るだろうか。
それでは、我々が恨んだ関東軍の将校と同じではないか。民家を襲い、逃げた将校の罪を負い、更に罪を重ねるというのか。
俺がもたげた銃剣を、仲間が上から押さえつけてきた。早まるな、班長に判断を委ねろと、首を横に振っている。
「駅長は脅されている。あれはソビエトの罠だ」
「しかし、軍人ではない。犠牲にしてもいいのか」
「貴様は、そのために一個隊を犠牲にするのか」
「死する犠牲と生ける犠牲、どちらを選ぶかと問うている」
声を殺したやり取りが、このトーチカを感情の霧に包み込む。息が詰まるほどの濃い霧を晴らそうとして、溺れるようにもがいていた。
班長は、霧の中から首を出した。そこもまた靄の中だが、この先に光明があると信じて踏み出した。
銃剣を立て、真っ白なハンカチーフを結びつけ、高く掲げて大きく振った。
「貴様ら、生きろ! ここで死んでは、骨のひとつも帰れぬぞ! 死ぬなら日本の土で死ね!」
生きる希望は、俺たちにとっては絶望だった。胸をえぐるほどの悔しさに、身体を震わせむせび泣く者さえあった。銃剣を置き、両手を挙げてトーチカから奈落の底へと降りていく。
渇いた大地を踏みしめたとき、抜けるような青空に一発の銃声が鳴り響いた。
ハッとしてトーチカを見上げると、顎から脳天を撃ち抜いた班長が、力なく崩れ落ちていった。銃剣にくくりつけた白旗は、みるみる真っ赤に染まっていった。
「班長殿!」
トーチカを向いた俺たちに、微かな機械音が枷をかけた。ソビエト兵は、丸腰の背中に銃口を向けている。
俺たちは、再び両手を挙げて振り返った。捕虜となり、真っ先にするべきことが、鉛のような足取りを一歩一歩と進めていった。
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指一本でもいい、班長の骨を拾わせてくれ、と。
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