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第34話・STATION③
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俺も妻も両親は健在だったが、空襲で焼け出されバラック住まい、転がり込む余地はない。だいたい我々引揚者は日本を捨てて、奪った外地で我が物顔で振る舞っていた裏切り者だと、白い目で見られていた。
総国民が満州建国を祝っていたはずなのに、どうしてそうなったのか。裏切り者は貴様らだ、と声高に訴えたかった。が、日本人が日本人を責め立てる寂しさに押し潰されて、縁を切るつもりでバラックの実家を立ち去った。
流浪する引揚者は、どこへ流れ着けばいいのか。当て所なく彷徨っていると、校庭を耕している大人たちが目についた。
学び舎じゃないか、子供たちが勉強をする場で、大人が何をやっているんだ。
「何をしているんですか、ここは学校ですよ」
「そんなことは、わかっている。満州から追い出されて、家がないんだ」
光が差した、そんな気がした。険しく睨みつけてきた彼らも、俺たち夫婦と同じ引揚者だったのか。
しかし学校を乗っ取るのは憚られた。ただでさえ白い目で見られているのに、これ以上の恨みを買いたくはなかったのだ。
「俺たちも引揚者なんだ。学校のほか、どこを住処としているんだ」
彼らは少し狼狽えていたが、よそへ行けば育てる作物が減らないと思い立ち、行き場のない引揚者が身を寄せている場所を教えてくれた。
「飛行場……は遠いか。捕虜収容所が空いている。運動場もあるから、畑を作れるぞ」
「ありがとう、恩に着る」
簡単に礼を済ませて妻を伴い、世が世なら我が物顔で闊歩しているアメリカ兵を押し込んでいた捕虜収容所に、俺たち日本人が肩を寄せ合い暮らした。
配給品だけでは、飢えてしまう。これでは葫蘆島にいた頃と同じではないか。食わなければならないのだ、食わなければ死んでしまうと、東京生まれで満鉄駅員だった俺が、慣れない鍬を入れていく。
だが運動場の土は、踏み固められていた。雑草が生えないほどに、痩せていた。耕しても耕しても、実りを得られるとは思えなかった。
凍てつく大地を放り出されて、痩せて渇いた土地しか獲られないとは、何という仕打ちだろう。このすべての土を耕そうとも、ここで暮らす引揚者の腹など、とてもじゃないが満たせない。
こんなところにいては、駄目だ。流されていては駄目なんだ。金がいる、いいや金の価値は下がっていく一方だ。食料がなければ俺も妻も、生命を繋げない。引揚者だからと自身を蔑み、芽を摘んでいる場合ではない。俺は、俺の力で立ち上がるんだ。
そう決意して、鉄道総局に縋りついた。
「満鉄の駅員だったのか。それは大変な苦労をしたね」
面接官は俺を労い、寄り添ってくれたが、俺自身は夢見た過去と決別したかった。満鉄勤めは引揚者の証、活かせる経験だけだと割り切っていた。
すると面接官のひとりが丸眼鏡越しに、柔らかく温かい眼差しを俺に注いだ。
「復員兵は、国家機関が世話するよう政府から言われている。国策会社である満鉄の元職員も、それと等しく扱わなければならないと、私は考えている。東洋一と謳われた満鉄の仕事を、鉄道総局に伝えて頂けないだろうか」
全身の血が下から上へと沸き上がり、歓喜に身体が震えるのを抑えきれなかった。飛び跳ねるように立ち上がり、床に鍬を入れる勢いで頭を下げた。
日本は国民を見捨てていなかった。足りないものばかりだから、手が及ばないだけなんだ。敗けても占領されていても、国に出来ることならばこうして手を差し伸べる。時間は要するだろうが、みんなもいずれ救われるんだと伝えるため、俺たち引揚者の住まいへと足早に帰っていった。
漂う空気が重苦しく、異様だった。何かあったとわかったが、何があったのか、とまでは想像が及ばなかった。とにかく、想定を上回る事態があったのだろうと、思考はそこで止まってしまった。
知への責務と恐怖の狭間で、みんなと暮らす建屋に進む。そこで見た光景に異変の理由を解されて、鈍器で頭を殴られたくらいに、俺の意識が遠のいていった。
俺に背中を向けている男たちは、いくら詫びても足りないと諦めながらも詫びを入れ、力なくうなだれていた。
男が輪をなし囲んでいるのは、擦り切れた毛布で引き裂かれた服を、痣だらけの身体を隠す女たち。憔悴しきって髪は乱れ、瞳から光が失われている。その中には、妻もいる。
理解をどれだけ拒んでも、理解しろと脳髄にねじ込まれていく。女たちが犯された。それを男たちは止められなかった。
しかし一体、誰が──。
自他への怒りをたぎらせて、ひとりの男がぼそっと俺に呟いた。
「GIだ。俺たちが力仕事で離れた隙に、押しかけやがった」
その怒りが波及した。隣の男が涙をこぼして床を殴って、締まった喉をこじ開けた。
「日本の兵隊が何をしたか、わかっているのかと。それと妻や娘は……関係ないじゃないか!」
妻や娘を汚されたのに、男たちは膝をついたまま俺の方へと向き直り、額を床に擦りつけた。
彼らの気持ちは理解するが、彼らに謝られても俺の気持ちが晴れるはずもない。膝から力が抜けた俺はただ、思いついたことをぽつりと呟くだけだ。
「病院に行こう。そのあと、GHQに報告しよう。上層部は許さない、はずだ」
もう、ここにはいられない。どれだけ頭を下げてでも、親元で暮らそうと心に決めた。
そして彼らに、希望の光を差すのをやめた。
総国民が満州建国を祝っていたはずなのに、どうしてそうなったのか。裏切り者は貴様らだ、と声高に訴えたかった。が、日本人が日本人を責め立てる寂しさに押し潰されて、縁を切るつもりでバラックの実家を立ち去った。
流浪する引揚者は、どこへ流れ着けばいいのか。当て所なく彷徨っていると、校庭を耕している大人たちが目についた。
学び舎じゃないか、子供たちが勉強をする場で、大人が何をやっているんだ。
「何をしているんですか、ここは学校ですよ」
「そんなことは、わかっている。満州から追い出されて、家がないんだ」
光が差した、そんな気がした。険しく睨みつけてきた彼らも、俺たち夫婦と同じ引揚者だったのか。
しかし学校を乗っ取るのは憚られた。ただでさえ白い目で見られているのに、これ以上の恨みを買いたくはなかったのだ。
「俺たちも引揚者なんだ。学校のほか、どこを住処としているんだ」
彼らは少し狼狽えていたが、よそへ行けば育てる作物が減らないと思い立ち、行き場のない引揚者が身を寄せている場所を教えてくれた。
「飛行場……は遠いか。捕虜収容所が空いている。運動場もあるから、畑を作れるぞ」
「ありがとう、恩に着る」
簡単に礼を済ませて妻を伴い、世が世なら我が物顔で闊歩しているアメリカ兵を押し込んでいた捕虜収容所に、俺たち日本人が肩を寄せ合い暮らした。
配給品だけでは、飢えてしまう。これでは葫蘆島にいた頃と同じではないか。食わなければならないのだ、食わなければ死んでしまうと、東京生まれで満鉄駅員だった俺が、慣れない鍬を入れていく。
だが運動場の土は、踏み固められていた。雑草が生えないほどに、痩せていた。耕しても耕しても、実りを得られるとは思えなかった。
凍てつく大地を放り出されて、痩せて渇いた土地しか獲られないとは、何という仕打ちだろう。このすべての土を耕そうとも、ここで暮らす引揚者の腹など、とてもじゃないが満たせない。
こんなところにいては、駄目だ。流されていては駄目なんだ。金がいる、いいや金の価値は下がっていく一方だ。食料がなければ俺も妻も、生命を繋げない。引揚者だからと自身を蔑み、芽を摘んでいる場合ではない。俺は、俺の力で立ち上がるんだ。
そう決意して、鉄道総局に縋りついた。
「満鉄の駅員だったのか。それは大変な苦労をしたね」
面接官は俺を労い、寄り添ってくれたが、俺自身は夢見た過去と決別したかった。満鉄勤めは引揚者の証、活かせる経験だけだと割り切っていた。
すると面接官のひとりが丸眼鏡越しに、柔らかく温かい眼差しを俺に注いだ。
「復員兵は、国家機関が世話するよう政府から言われている。国策会社である満鉄の元職員も、それと等しく扱わなければならないと、私は考えている。東洋一と謳われた満鉄の仕事を、鉄道総局に伝えて頂けないだろうか」
全身の血が下から上へと沸き上がり、歓喜に身体が震えるのを抑えきれなかった。飛び跳ねるように立ち上がり、床に鍬を入れる勢いで頭を下げた。
日本は国民を見捨てていなかった。足りないものばかりだから、手が及ばないだけなんだ。敗けても占領されていても、国に出来ることならばこうして手を差し伸べる。時間は要するだろうが、みんなもいずれ救われるんだと伝えるため、俺たち引揚者の住まいへと足早に帰っていった。
漂う空気が重苦しく、異様だった。何かあったとわかったが、何があったのか、とまでは想像が及ばなかった。とにかく、想定を上回る事態があったのだろうと、思考はそこで止まってしまった。
知への責務と恐怖の狭間で、みんなと暮らす建屋に進む。そこで見た光景に異変の理由を解されて、鈍器で頭を殴られたくらいに、俺の意識が遠のいていった。
俺に背中を向けている男たちは、いくら詫びても足りないと諦めながらも詫びを入れ、力なくうなだれていた。
男が輪をなし囲んでいるのは、擦り切れた毛布で引き裂かれた服を、痣だらけの身体を隠す女たち。憔悴しきって髪は乱れ、瞳から光が失われている。その中には、妻もいる。
理解をどれだけ拒んでも、理解しろと脳髄にねじ込まれていく。女たちが犯された。それを男たちは止められなかった。
しかし一体、誰が──。
自他への怒りをたぎらせて、ひとりの男がぼそっと俺に呟いた。
「GIだ。俺たちが力仕事で離れた隙に、押しかけやがった」
その怒りが波及した。隣の男が涙をこぼして床を殴って、締まった喉をこじ開けた。
「日本の兵隊が何をしたか、わかっているのかと。それと妻や娘は……関係ないじゃないか!」
妻や娘を汚されたのに、男たちは膝をついたまま俺の方へと向き直り、額を床に擦りつけた。
彼らの気持ちは理解するが、彼らに謝られても俺の気持ちが晴れるはずもない。膝から力が抜けた俺はただ、思いついたことをぽつりと呟くだけだ。
「病院に行こう。そのあと、GHQに報告しよう。上層部は許さない、はずだ」
もう、ここにはいられない。どれだけ頭を下げてでも、親元で暮らそうと心に決めた。
そして彼らに、希望の光を差すのをやめた。
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