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第29話・SWITCH③
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平木が声を張り上げて訴え出ると、仁科は工員に取り囲まれた。
「異動させる権限など、渉外室にあるのか!」
「平木は大井に必要だ。総局は大井を弱体化させるつもりなのか!」
そういうつもりではなかったが、彼らが言うように出過ぎた真似をしてしまったと、仁科は血の気が引いて青ざめていた。
物資の不足と物価高が収まらない中、待遇改善の交渉は長引いており、労使の間の緊張感は最高潮に達している。そこへ異動の命令とも取れる申し出をしたのは、迂闊だった。
取り繕うしかないと、仁科は必死に声を張る。
「異動ではありません! 仰るとおり、渉外室にはそのような権限はありません。機関車の組み立て方を説明して頂きたい、それだけです」
それでも、工員の動揺は収まらなかった。生まれたての労働組合は部署ごとに結成されたので、まだ一枚岩とは言いきれない。大井の工員が指示すれば大宮がどう思うのか、彼らには不安だったのだ。
仁科は、これを好機にしようと畳みかけた。
「大井は通常業務に加え、御料車を抱えています。専用客車の改造も担っており、負担が大きい」
仁科の言うとおりだと、工員は納得せざるを得ず口ごもる。流れが変わった。労働者に寄り添う態度を示せば、組合と総局は同じ土俵に上がれる。
「大宮は規模が大きく、人員にも余裕があります。ただRTOの組み立てを見ているだけでは、大井で得た経験が活かされません」
大井の工員には、天皇陛下御乗用の御料車を整備している矜持があった。エンジンについては門外漢だが、名門工場だと一目置かれる存在だった。
ただ、見え透いたお世辞は鼻につく。彼らが内に秘めている矜持の琴線に触れるよう、仁科は言葉を選んでいた。
「また日本のディーゼルエンジンは、世界に後れを取っています。扱いやすいガソリンエンジンに依存して、燃料が枯渇する寸前までディーゼルエンジンの開発を蔑ろにしていたためです。その結果が、今の日本ではありませんか」
仁科が言うように、鉄道用エンジンは自動車用を転用したガソリンエンジンが主流であった。それも私鉄が中心で、堅牢な車体を捨てきれなかった鉄道省は失敗し、私鉄向けの設計を泣く泣く流用した。
しかし昭和十五年、鉄道省西成線でガソリンカーが横転炎上、百八十九名もの死者を出す。燃料節約のために分岐器の転換を早まったことが原因だったが、揮発性の高いガソリンは危険だとされ、開発中のディーゼルエンジンの完成が急がれた。
新型ディーゼルエンジンの完成は、昭和十七年。その頃には、天然ガスや木炭ガスなどの代用燃料が使えないディーゼルエンジンは、無用の長物になってしまった。
民生用ディーゼルエンジンの遅れは、軍需用にも直結していた。それを平木は、工廠で作った戦車で知っていた。周りを囲む工員たちも、アメリカ製のエンジンを目の当たりにして、言葉を失い羨望の目を向けたではないか、と口を噤んだ。
そこへ、仁科は借りた光を差し込んだ。
「組み立てているのは、構内でしか走らない入換機ですが、日本を凌駕する技術の塊です。これを契機としてアメリカの技術を学んで広めましょう。この入換機が新たな日本の道標です。そのために、どうか大井で得た学びを大宮へ伝えてください」
仁科は平木に、工員たちに頭を下げた。
大井が組んだ機関車が、日本の技術を蘇らせる。労働組合という自由に続く、GHQから日本の鉄道に贈られた未来に、平木はついに降伏を宣言した。
「わかりました。仁科さん、大宮に行きましょう」
仁科は腰を折ったまま顔だけ上げて、再び背筋と首に芯を通した。取り囲んでいる工員たちは渉外室の交渉力に感服し、仁科が組合担当ではない幸運に安堵していた。
古株工員が歩み出て、地面を見つめている顔に手を差し伸べる。痩せていながら力強い、彼が組合を率いているのだとわかる。
「仁科さん、うまくやっていきましょう」
誰にも見られていない顔が凍りついた。この手を握っていいものか、渉外室から総局が懐柔されやしないか、と。
いいや、驕るな、恐れるな。たかが一官僚だと、顔を上げて手を握り返した。
「皆様のお力になれる権限など、私にはありませんが」
古株工員の手に、力が入った。痛めつけよう、というのではない。渉外室に縛りつける、その意志が伝わってきた。
GHQが与えた自由を、GHQはどう思っているのか。蜘蛛の糸が降りてくるのを仁科は待っていたが、レイ中尉以下RTOの面々は自由の指令の名のもとに、これをただ見守っているだけだった。
握っていた手を離すと、その余韻に背筋が痺れていった。工員たちは、飢えを満たすまでは、と息を呑む仁科を見下ろしている。
「ただね、仁科さん。俺から言いたいことがある」
ため息でもするように古株工員が口を開き、仁科は思わず身構えた。が、彼が嘲笑を浮かべたので、仁科の肩から緊張の糸が解けていった。
「電動機の取り付け位置が低すぎる、これではぬかるみで浸水する。久里浜などの盆地には、この入換機は不向きだとGHQに伝えてくれ」
さすが現場の職人だ、組み上げ中に問題点を指摘するとは。仁科は彼に感服し、「わかりました」と頷いてレイ中尉のもとへ向かおうとした。
しかし、その足はすぐに止められた。
「それと、平木に大宮を案内してくれませんかね。事情を知っている仁科さんだと、心強いんだが」
仁科は、固く頷いた。ふたつの組合に挟まれて、あちらの組合員からも詰問されるのではないのか。
早く彼らに手を差し伸べてくれ、これでは仕事にならないと、仁科は重い足取りで、レイ中尉のもとへ歩いていった。
「異動させる権限など、渉外室にあるのか!」
「平木は大井に必要だ。総局は大井を弱体化させるつもりなのか!」
そういうつもりではなかったが、彼らが言うように出過ぎた真似をしてしまったと、仁科は血の気が引いて青ざめていた。
物資の不足と物価高が収まらない中、待遇改善の交渉は長引いており、労使の間の緊張感は最高潮に達している。そこへ異動の命令とも取れる申し出をしたのは、迂闊だった。
取り繕うしかないと、仁科は必死に声を張る。
「異動ではありません! 仰るとおり、渉外室にはそのような権限はありません。機関車の組み立て方を説明して頂きたい、それだけです」
それでも、工員の動揺は収まらなかった。生まれたての労働組合は部署ごとに結成されたので、まだ一枚岩とは言いきれない。大井の工員が指示すれば大宮がどう思うのか、彼らには不安だったのだ。
仁科は、これを好機にしようと畳みかけた。
「大井は通常業務に加え、御料車を抱えています。専用客車の改造も担っており、負担が大きい」
仁科の言うとおりだと、工員は納得せざるを得ず口ごもる。流れが変わった。労働者に寄り添う態度を示せば、組合と総局は同じ土俵に上がれる。
「大宮は規模が大きく、人員にも余裕があります。ただRTOの組み立てを見ているだけでは、大井で得た経験が活かされません」
大井の工員には、天皇陛下御乗用の御料車を整備している矜持があった。エンジンについては門外漢だが、名門工場だと一目置かれる存在だった。
ただ、見え透いたお世辞は鼻につく。彼らが内に秘めている矜持の琴線に触れるよう、仁科は言葉を選んでいた。
「また日本のディーゼルエンジンは、世界に後れを取っています。扱いやすいガソリンエンジンに依存して、燃料が枯渇する寸前までディーゼルエンジンの開発を蔑ろにしていたためです。その結果が、今の日本ではありませんか」
仁科が言うように、鉄道用エンジンは自動車用を転用したガソリンエンジンが主流であった。それも私鉄が中心で、堅牢な車体を捨てきれなかった鉄道省は失敗し、私鉄向けの設計を泣く泣く流用した。
しかし昭和十五年、鉄道省西成線でガソリンカーが横転炎上、百八十九名もの死者を出す。燃料節約のために分岐器の転換を早まったことが原因だったが、揮発性の高いガソリンは危険だとされ、開発中のディーゼルエンジンの完成が急がれた。
新型ディーゼルエンジンの完成は、昭和十七年。その頃には、天然ガスや木炭ガスなどの代用燃料が使えないディーゼルエンジンは、無用の長物になってしまった。
民生用ディーゼルエンジンの遅れは、軍需用にも直結していた。それを平木は、工廠で作った戦車で知っていた。周りを囲む工員たちも、アメリカ製のエンジンを目の当たりにして、言葉を失い羨望の目を向けたではないか、と口を噤んだ。
そこへ、仁科は借りた光を差し込んだ。
「組み立てているのは、構内でしか走らない入換機ですが、日本を凌駕する技術の塊です。これを契機としてアメリカの技術を学んで広めましょう。この入換機が新たな日本の道標です。そのために、どうか大井で得た学びを大宮へ伝えてください」
仁科は平木に、工員たちに頭を下げた。
大井が組んだ機関車が、日本の技術を蘇らせる。労働組合という自由に続く、GHQから日本の鉄道に贈られた未来に、平木はついに降伏を宣言した。
「わかりました。仁科さん、大宮に行きましょう」
仁科は腰を折ったまま顔だけ上げて、再び背筋と首に芯を通した。取り囲んでいる工員たちは渉外室の交渉力に感服し、仁科が組合担当ではない幸運に安堵していた。
古株工員が歩み出て、地面を見つめている顔に手を差し伸べる。痩せていながら力強い、彼が組合を率いているのだとわかる。
「仁科さん、うまくやっていきましょう」
誰にも見られていない顔が凍りついた。この手を握っていいものか、渉外室から総局が懐柔されやしないか、と。
いいや、驕るな、恐れるな。たかが一官僚だと、顔を上げて手を握り返した。
「皆様のお力になれる権限など、私にはありませんが」
古株工員の手に、力が入った。痛めつけよう、というのではない。渉外室に縛りつける、その意志が伝わってきた。
GHQが与えた自由を、GHQはどう思っているのか。蜘蛛の糸が降りてくるのを仁科は待っていたが、レイ中尉以下RTOの面々は自由の指令の名のもとに、これをただ見守っているだけだった。
握っていた手を離すと、その余韻に背筋が痺れていった。工員たちは、飢えを満たすまでは、と息を呑む仁科を見下ろしている。
「ただね、仁科さん。俺から言いたいことがある」
ため息でもするように古株工員が口を開き、仁科は思わず身構えた。が、彼が嘲笑を浮かべたので、仁科の肩から緊張の糸が解けていった。
「電動機の取り付け位置が低すぎる、これではぬかるみで浸水する。久里浜などの盆地には、この入換機は不向きだとGHQに伝えてくれ」
さすが現場の職人だ、組み上げ中に問題点を指摘するとは。仁科は彼に感服し、「わかりました」と頷いてレイ中尉のもとへ向かおうとした。
しかし、その足はすぐに止められた。
「それと、平木に大宮を案内してくれませんかね。事情を知っている仁科さんだと、心強いんだが」
仁科は、固く頷いた。ふたつの組合に挟まれて、あちらの組合員からも詰問されるのではないのか。
早く彼らに手を差し伸べてくれ、これでは仕事にならないと、仁科は重い足取りで、レイ中尉のもとへ歩いていった。
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