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第2話・MRS②
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二時間ほどの話を終えて桜木町駅から京浜電車に乗ると、蓮城はふたつ目の東神奈川駅から横浜線に乗り換えた。彼を追いかけた仁科も乗せて、電車は八王子駅へと走り出した。
「蓮城さん、帰らなくていいんですか?」
「ベッスンが駅や客車を見て回ろうと言った、その真意が君にはわかるか?」
深く鎮めた蓮城の囁きに、自信に満ちたベッスンを思い返して、仁科は固く頷いた。日本全土に散らばった連合軍は、ありとあらゆる指示命令を下して回る。そのために、日本の動脈として機能する鉄道は欠かせない。
列車運行を任されたものの、鉄道総局は連合軍の手足となる、その事実は変わらない。
そこへ、状態のいい客車を用意しろ、との指示である。
戦線拡大に伴って『鉄道は兵器、不要不急の旅行は全廃だ』と叫ばれて、鉄道の主役は旅客から貨物へと代わっていった。
逼迫した旅客輸送力を解消すべく、三等客車では座席の肘掛け、一部の座席も取り払い定員を増加させていた。二等車を廃止にし、寝台車も食堂車も、旧式の展望車もがらんどうにして座席を詰め込み、三等車に格下げをして限界を超える旅客を乗せた。
その惨憺たる有り様で、日本は敗れた。配給品が滞ったため、国民は買い出しに奔走している。その足に使うのは、旅客の輸送力を極限まで削減させられた鉄道である。
今、乗っている電車もガラスが足りず窓には板を嵌めており、ドアを失った乗降口は旅客が落ちないようにと横木を据えつけている。
電装品保護のため、往時の半分以下の速度で走行しているので、自ずと所要時間も倍となる。しかし自走出来るならまだいいほうで、走行用の電装品が手に入らず、見てくれは電車ながら汽車に牽かれている、名ばかりの電車まである。
それでも足りず、物資不足で遊休化した貨車にも旅客を乗せていた。
何とか走っている客車や貨車は、敗戦とその混乱で荒んでしまった乗客が部品を盗み、破壊して更に荒廃していた。天井に三分の一がようやく灯る電球は盗まれぬように網笠を被せているが、それさえも盗難に遭う。
良質炭は海の藻屑と消えたので、輸送の要となる汽車も粗悪炭で息切れしながら走っている。
それでも、使えるだけまだマシだ。車庫の隅には空襲によって全焼し、鉄の骸を剥き出しにした電車や客車が成す術もなく留め置かれている。
この状況でありながら、大東亜各所に送った汽車や貨車、客車は祖国の鉄路には帰ってこない。
だが、状態のいい客車などあるのだろうかと杞憂しているわけではない。旅客輸送を専門とする蓮城だからこそ、抱いている懸念があった。
その渦中にあっても、贅の限りを尽くした展望車や食堂車だけでも戦火から守ると誓い、地方に疎開留置させていた。
MRSは、それを狙っているに違いない。
仁科はハッと顔を上げ、沈むに任せて忘れた呼吸を取り戻し、微かに震える蓮城を見た。彼から覗くのは希望ではなく、叩きのめすほどの現実だった。
「……司令官専用列車、ですか?」
蓮城は膝の上で握り拳を血が滲むほど握りしめ、恥辱に声を震わせた。それを目にした仁科は、凍てついた手で心臓を掴まれたように青ざめていた。
「まさか、奴らの狙いは……」
仁科が憚った言葉を悟り、蓮城は祈るように両手を組んで、内なる炎を小さく吐いた。
「連合軍のために守った客車ではない。勝利した暁には、かつての栄華を鉄路の上で花開かせるため、戦火から守り抜いた。そうではないのか」
唇を噛み締めた末、仁科はふぅっと力を抜いて、蓮城だけに届くようにと囁いた。
「負けるっていうのは、こういうことなんですね」
交わした言葉はそれきりで、ふたりは膝に置いた握り拳をじっと睨んで石のように固まっていた。
八王子から中央線に乗り換えて、ふたりが降りたのは高尾山麓に佇む浅川駅。線路沿いを十五分ほど八王子方向へと戻り、すべての列車が通過する社殿造の駅舎の前で足を止めた。
多摩御陵へ親拝するために作られた、皇室専用の東浅川駅である。
日本を代表する鉄道官僚ふたりといえど、流石においそれとは立ち入れない。警官に身分を明かし、車庫を遠巻きに眺めるのみだが、彼らにはそれだけで、たったそれだけでも畏れ多いことだった。
ふたりが見つめている車庫には、客車が隠されている。磨き上げられた漆が放つ暗紅色の艶めきが、端々を飾る贅と技巧を尽くした金細工が、ふたりには透けて見えていた。
これが天皇陛下御乗用の1号御料車。その佇まいはさながら、翼を広げる鳳凰である。
「すまない、勝手なことをして」
視線を落として頭を振っている蓮城に、仁科は沈みゆく太陽に目を細めたまま笑いかけた。
「謝らないでください。貨物屋の私などには、お目にかかる機会がないのですから」
蓮城は苦笑いを払ってから顔を上げ、哀しそうな目をして吹っ切れたように語りはじめた。
「客車のすべてを連合軍に差し出さぬなど、敗戦国のたかが役人である私には約束出来ない」
「蓮城さん、それは私も同じです。大日本帝国勝利のためにした貨物輸送を、これから連合軍のために行うのです」
これが負けるということかと蓮城は、仁科の言葉を反芻してからスウッと息を吸い込んで、膨らんだ胸を張り出した。
「……確かに負けた。大日本帝国は、勝てない戦いをしてしまった。だが、負けても譲れないものが、我々にはある」
仁科は、蓮城の視線の先を追った。茜色の落日に鳳凰が天高くへと飛び立っていく、そんな気がしてならなかった。
「1号御料車だけは、生命に代えても守り抜くぞ」
「もちろんです、連中には指一本触れさせません」
両名は岩より固い決意を胸に秘め、御料車に一礼をして鉄道省へと帰っていった。
「蓮城さん、帰らなくていいんですか?」
「ベッスンが駅や客車を見て回ろうと言った、その真意が君にはわかるか?」
深く鎮めた蓮城の囁きに、自信に満ちたベッスンを思い返して、仁科は固く頷いた。日本全土に散らばった連合軍は、ありとあらゆる指示命令を下して回る。そのために、日本の動脈として機能する鉄道は欠かせない。
列車運行を任されたものの、鉄道総局は連合軍の手足となる、その事実は変わらない。
そこへ、状態のいい客車を用意しろ、との指示である。
戦線拡大に伴って『鉄道は兵器、不要不急の旅行は全廃だ』と叫ばれて、鉄道の主役は旅客から貨物へと代わっていった。
逼迫した旅客輸送力を解消すべく、三等客車では座席の肘掛け、一部の座席も取り払い定員を増加させていた。二等車を廃止にし、寝台車も食堂車も、旧式の展望車もがらんどうにして座席を詰め込み、三等車に格下げをして限界を超える旅客を乗せた。
その惨憺たる有り様で、日本は敗れた。配給品が滞ったため、国民は買い出しに奔走している。その足に使うのは、旅客の輸送力を極限まで削減させられた鉄道である。
今、乗っている電車もガラスが足りず窓には板を嵌めており、ドアを失った乗降口は旅客が落ちないようにと横木を据えつけている。
電装品保護のため、往時の半分以下の速度で走行しているので、自ずと所要時間も倍となる。しかし自走出来るならまだいいほうで、走行用の電装品が手に入らず、見てくれは電車ながら汽車に牽かれている、名ばかりの電車まである。
それでも足りず、物資不足で遊休化した貨車にも旅客を乗せていた。
何とか走っている客車や貨車は、敗戦とその混乱で荒んでしまった乗客が部品を盗み、破壊して更に荒廃していた。天井に三分の一がようやく灯る電球は盗まれぬように網笠を被せているが、それさえも盗難に遭う。
良質炭は海の藻屑と消えたので、輸送の要となる汽車も粗悪炭で息切れしながら走っている。
それでも、使えるだけまだマシだ。車庫の隅には空襲によって全焼し、鉄の骸を剥き出しにした電車や客車が成す術もなく留め置かれている。
この状況でありながら、大東亜各所に送った汽車や貨車、客車は祖国の鉄路には帰ってこない。
だが、状態のいい客車などあるのだろうかと杞憂しているわけではない。旅客輸送を専門とする蓮城だからこそ、抱いている懸念があった。
その渦中にあっても、贅の限りを尽くした展望車や食堂車だけでも戦火から守ると誓い、地方に疎開留置させていた。
MRSは、それを狙っているに違いない。
仁科はハッと顔を上げ、沈むに任せて忘れた呼吸を取り戻し、微かに震える蓮城を見た。彼から覗くのは希望ではなく、叩きのめすほどの現実だった。
「……司令官専用列車、ですか?」
蓮城は膝の上で握り拳を血が滲むほど握りしめ、恥辱に声を震わせた。それを目にした仁科は、凍てついた手で心臓を掴まれたように青ざめていた。
「まさか、奴らの狙いは……」
仁科が憚った言葉を悟り、蓮城は祈るように両手を組んで、内なる炎を小さく吐いた。
「連合軍のために守った客車ではない。勝利した暁には、かつての栄華を鉄路の上で花開かせるため、戦火から守り抜いた。そうではないのか」
唇を噛み締めた末、仁科はふぅっと力を抜いて、蓮城だけに届くようにと囁いた。
「負けるっていうのは、こういうことなんですね」
交わした言葉はそれきりで、ふたりは膝に置いた握り拳をじっと睨んで石のように固まっていた。
八王子から中央線に乗り換えて、ふたりが降りたのは高尾山麓に佇む浅川駅。線路沿いを十五分ほど八王子方向へと戻り、すべての列車が通過する社殿造の駅舎の前で足を止めた。
多摩御陵へ親拝するために作られた、皇室専用の東浅川駅である。
日本を代表する鉄道官僚ふたりといえど、流石においそれとは立ち入れない。警官に身分を明かし、車庫を遠巻きに眺めるのみだが、彼らにはそれだけで、たったそれだけでも畏れ多いことだった。
ふたりが見つめている車庫には、客車が隠されている。磨き上げられた漆が放つ暗紅色の艶めきが、端々を飾る贅と技巧を尽くした金細工が、ふたりには透けて見えていた。
これが天皇陛下御乗用の1号御料車。その佇まいはさながら、翼を広げる鳳凰である。
「すまない、勝手なことをして」
視線を落として頭を振っている蓮城に、仁科は沈みゆく太陽に目を細めたまま笑いかけた。
「謝らないでください。貨物屋の私などには、お目にかかる機会がないのですから」
蓮城は苦笑いを払ってから顔を上げ、哀しそうな目をして吹っ切れたように語りはじめた。
「客車のすべてを連合軍に差し出さぬなど、敗戦国のたかが役人である私には約束出来ない」
「蓮城さん、それは私も同じです。大日本帝国勝利のためにした貨物輸送を、これから連合軍のために行うのです」
これが負けるということかと蓮城は、仁科の言葉を反芻してからスウッと息を吸い込んで、膨らんだ胸を張り出した。
「……確かに負けた。大日本帝国は、勝てない戦いをしてしまった。だが、負けても譲れないものが、我々にはある」
仁科は、蓮城の視線の先を追った。茜色の落日に鳳凰が天高くへと飛び立っていく、そんな気がしてならなかった。
「1号御料車だけは、生命に代えても守り抜くぞ」
「もちろんです、連中には指一本触れさせません」
両名は岩より固い決意を胸に秘め、御料車に一礼をして鉄道省へと帰っていった。
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