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僕は、お稲荷様③
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たぬおと巫女は、のんびりお茶を飲んでいた。心配していた事態にはならなかったようで、そっと胸を撫で下ろした。
「あら、コンコちゃん。こんな夜更けにどうしたの?」
そういう巫女も、たぬおと夕餉を食べたら帰るのに、今夜は珍しく遅くまでいる。
「面白いお爺さんが来たんですよぅ。おしゃべりしていたら、こんな遅くになっちゃいました」
「本当に楽しいお爺さんでしたね。もう社務所に泊まろうかしら」
たぬおはともかく、巫女まで心を飲まれてしまうとは、ぬらりひょんは本当に強敵だ。
しかし高島の件は別にして、ろくでもない悪戯ばかりしている。
それでは神社にも悪戯をしたのかと、コンコとリュウは辺りを見回した。
「コンコちゃん、どうしたの?」
「そのお爺さん、あやかしだと思うんだ!」
巫女は驚きを隠せない様子を見せたが、たぬおはヘラヘラと笑って否定していた。
「あんなに優しいお爺さんが、あやかしのはずがないですよぅ。見て下さいよ、お菓子が好きな私に、お団子をくれたんですよぅ。食べ物をくれる人に、悪い人はいません」
脇に置いていた団子を、嬉しそうに見せびらかした。
巫女は「宮司さん良かったですね」とニコニコしているが、コンコとリュウは異変を感じて眉をひそめた。
「きな粉とすり胡麻とお抹茶、どれも美味しそうですねぃ」
止める間もなく、たぬおは団子を口にした。
「たぬおさん、それ、カビじゃないかな?」
言われてはじめて、おかしな味に気が付いた。
「うぅっ! お腹がぁぁぁ!!」
「食ったばかりだろう! 吐き出せ!」
「もったいないですよぅぅぅあああ」
「宮司さん! 命はもったいないでは済まないんですよ!」
ぬらりひょんは、本当にろくなことをしない。
巫女に尋ねて行った先は横浜の奥の隅、大岡川と堀川の分岐点だった。
「何だ、うちの近所ではないか」
「お三の宮だ……」
そこは日枝神社、境内にはぬらりひょんが佇んでおり、コンコはその景色に戦慄した。
「若侍と稲荷狐、達者であったか」
「お陰様で」と言ってしまったコンコは、慌てて両手で口を塞いだ。早速、心に付け入っている。
おどろおどろしい雰囲気に呑まれ、車夫は車代のことを忘れて立ち去ってしまった。
車夫を引き止めようとしたが、ぬらりひょんが口を開くと身体がそちらの方を向き、耳を傾けてしまう。
「お三の宮、この地に300年の稲荷狐なら、縁起を知っておるだろう」
コンコは背筋が凍りつき、全身の毛を逆立てたまま、戸板に水を流すように口を開いた。
「吉田新田の埋め立ては大変な工事で、うまくいかなかったんだ。そのとき、横浜に来たお三さんが、自ら人柱になったって伝わっているよ」
ぬらりひょんは、コンコの言葉に意外そうな顔をした。
「伝わっている? 稲荷狐、まさか……」
コンコは祠にこもって新田の完成を祈り続けていたので、その真相を知らないのだ。
実る稲穂を眺めていると、人柱の噂を耳にして愕然とした。
もしそれが本当の話なら、自分の祈りが足りなかったのでは、自分の力が及ばなかったのでは。
命と引き換えに出来た土地なら、己の未熟さを恨むしかない。
コンコは、触れて欲しくない言い伝えだった。
一体、何を企んでいる。ぬらりひょんを睨みつけ、奥歯をギリッと噛み鳴らしたその瞬間、凄まじい突風が吹き上げてきた。
「お爺さん! 何をするの!?」
こんな言葉しか吐けないことが口惜しい。
風に煽られた3人は、あれよあれよと空に舞い上がり、遥か眼下に横浜を臨む高さにまでやって来た。
「稲荷狐よ。横浜を300年に渡って見守ったそうだが、どうだ? この変わりようは。神も仏も、我らあやかしさえも、文明開化の灯りの下で消えゆく運命だ」
コンコもリュウも唇を噛んだ。口を開けば懐柔させられてしまう気がしてならないのだ。
轟音が鳴り響いて、そちらの方を覗うと神奈川台場から水柱が立ち上がり、蝙蝠形に積んだ石垣が崩れ、海の藻屑と消えていった。
海上線路は波濤に襲われ、立ち並ぶ建物も線路も路盤さえも、内海に飲み込まれていった。
商館がひしめく横浜新田は、建物ごと沈んで海に戻った。
商店や家々がぎっしり並ぶ吉田新田は、溶けて海へと還っていった。
コンコもリュウも血の気が引いて、言葉を失い宙に虚しく漂っていた。
茫然自失で消えた横浜を見つめていると、陸が現れ家が建ち、商店も商館も線路も台場も姿を見せて、景色は現在の横浜に戻っていった。
「見てもらったのは、わしが今からやろうとしていることだ。何、横浜をのどかな村に戻してやるだけだ」
やめろ! と言って襟首を掴んでやりたいが、少しも動けず口を開くのも困難だ。
「どうやって元に戻すと言うのだ」
これがリュウの精一杯だ、ぬらりひょんに言葉を選ばされている。
「お三という女、仇を討つために旅しておったそうではないか。無念だったろうに……」
「そのお三を、どうするつもりだ」
リュウの問いに、ぬらりひょんは眉をピクリと動かして、大きく目を見開いた。
「蘇らせるのさ。時を戻して、仇討ちを果たしてもらおうではないか」
そんなこと、させるものか!
そう言い放とうとも唇が痺れ、喉が引きつり、思考が闇に溶けていく。
ぬらりひょんは不敵な笑みを浮かべ、リュウを憐れんだ。空中で弄ばれるリュウはただ、見つめ返すことしか出来ずにいる。
「だが、その前に侍よ。文明開化は、いいことばかりではないだろう。刃のような鋭い目つきも、今ではすっかり腰の物と同じ、なまくらだ。時代に苦しめられたのではないか?」
腕を伸ばし、煙を払うように振り払った。
「願いを叶えてやろう。死ね、侍」
リュウを舞い上げていた風がピタリと凪いだ。
「あら、コンコちゃん。こんな夜更けにどうしたの?」
そういう巫女も、たぬおと夕餉を食べたら帰るのに、今夜は珍しく遅くまでいる。
「面白いお爺さんが来たんですよぅ。おしゃべりしていたら、こんな遅くになっちゃいました」
「本当に楽しいお爺さんでしたね。もう社務所に泊まろうかしら」
たぬおはともかく、巫女まで心を飲まれてしまうとは、ぬらりひょんは本当に強敵だ。
しかし高島の件は別にして、ろくでもない悪戯ばかりしている。
それでは神社にも悪戯をしたのかと、コンコとリュウは辺りを見回した。
「コンコちゃん、どうしたの?」
「そのお爺さん、あやかしだと思うんだ!」
巫女は驚きを隠せない様子を見せたが、たぬおはヘラヘラと笑って否定していた。
「あんなに優しいお爺さんが、あやかしのはずがないですよぅ。見て下さいよ、お菓子が好きな私に、お団子をくれたんですよぅ。食べ物をくれる人に、悪い人はいません」
脇に置いていた団子を、嬉しそうに見せびらかした。
巫女は「宮司さん良かったですね」とニコニコしているが、コンコとリュウは異変を感じて眉をひそめた。
「きな粉とすり胡麻とお抹茶、どれも美味しそうですねぃ」
止める間もなく、たぬおは団子を口にした。
「たぬおさん、それ、カビじゃないかな?」
言われてはじめて、おかしな味に気が付いた。
「うぅっ! お腹がぁぁぁ!!」
「食ったばかりだろう! 吐き出せ!」
「もったいないですよぅぅぅあああ」
「宮司さん! 命はもったいないでは済まないんですよ!」
ぬらりひょんは、本当にろくなことをしない。
巫女に尋ねて行った先は横浜の奥の隅、大岡川と堀川の分岐点だった。
「何だ、うちの近所ではないか」
「お三の宮だ……」
そこは日枝神社、境内にはぬらりひょんが佇んでおり、コンコはその景色に戦慄した。
「若侍と稲荷狐、達者であったか」
「お陰様で」と言ってしまったコンコは、慌てて両手で口を塞いだ。早速、心に付け入っている。
おどろおどろしい雰囲気に呑まれ、車夫は車代のことを忘れて立ち去ってしまった。
車夫を引き止めようとしたが、ぬらりひょんが口を開くと身体がそちらの方を向き、耳を傾けてしまう。
「お三の宮、この地に300年の稲荷狐なら、縁起を知っておるだろう」
コンコは背筋が凍りつき、全身の毛を逆立てたまま、戸板に水を流すように口を開いた。
「吉田新田の埋め立ては大変な工事で、うまくいかなかったんだ。そのとき、横浜に来たお三さんが、自ら人柱になったって伝わっているよ」
ぬらりひょんは、コンコの言葉に意外そうな顔をした。
「伝わっている? 稲荷狐、まさか……」
コンコは祠にこもって新田の完成を祈り続けていたので、その真相を知らないのだ。
実る稲穂を眺めていると、人柱の噂を耳にして愕然とした。
もしそれが本当の話なら、自分の祈りが足りなかったのでは、自分の力が及ばなかったのでは。
命と引き換えに出来た土地なら、己の未熟さを恨むしかない。
コンコは、触れて欲しくない言い伝えだった。
一体、何を企んでいる。ぬらりひょんを睨みつけ、奥歯をギリッと噛み鳴らしたその瞬間、凄まじい突風が吹き上げてきた。
「お爺さん! 何をするの!?」
こんな言葉しか吐けないことが口惜しい。
風に煽られた3人は、あれよあれよと空に舞い上がり、遥か眼下に横浜を臨む高さにまでやって来た。
「稲荷狐よ。横浜を300年に渡って見守ったそうだが、どうだ? この変わりようは。神も仏も、我らあやかしさえも、文明開化の灯りの下で消えゆく運命だ」
コンコもリュウも唇を噛んだ。口を開けば懐柔させられてしまう気がしてならないのだ。
轟音が鳴り響いて、そちらの方を覗うと神奈川台場から水柱が立ち上がり、蝙蝠形に積んだ石垣が崩れ、海の藻屑と消えていった。
海上線路は波濤に襲われ、立ち並ぶ建物も線路も路盤さえも、内海に飲み込まれていった。
商館がひしめく横浜新田は、建物ごと沈んで海に戻った。
商店や家々がぎっしり並ぶ吉田新田は、溶けて海へと還っていった。
コンコもリュウも血の気が引いて、言葉を失い宙に虚しく漂っていた。
茫然自失で消えた横浜を見つめていると、陸が現れ家が建ち、商店も商館も線路も台場も姿を見せて、景色は現在の横浜に戻っていった。
「見てもらったのは、わしが今からやろうとしていることだ。何、横浜をのどかな村に戻してやるだけだ」
やめろ! と言って襟首を掴んでやりたいが、少しも動けず口を開くのも困難だ。
「どうやって元に戻すと言うのだ」
これがリュウの精一杯だ、ぬらりひょんに言葉を選ばされている。
「お三という女、仇を討つために旅しておったそうではないか。無念だったろうに……」
「そのお三を、どうするつもりだ」
リュウの問いに、ぬらりひょんは眉をピクリと動かして、大きく目を見開いた。
「蘇らせるのさ。時を戻して、仇討ちを果たしてもらおうではないか」
そんなこと、させるものか!
そう言い放とうとも唇が痺れ、喉が引きつり、思考が闇に溶けていく。
ぬらりひょんは不敵な笑みを浮かべ、リュウを憐れんだ。空中で弄ばれるリュウはただ、見つめ返すことしか出来ずにいる。
「だが、その前に侍よ。文明開化は、いいことばかりではないだろう。刃のような鋭い目つきも、今ではすっかり腰の物と同じ、なまくらだ。時代に苦しめられたのではないか?」
腕を伸ばし、煙を払うように振り払った。
「願いを叶えてやろう。死ね、侍」
リュウを舞い上げていた風がピタリと凪いだ。
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