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白鯨③
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夜の横須賀港。
昨日とは打って変わって雲ひとつない。
海面にポトリと落とされた、まばゆいほどの月明かりは、穏やかな波に揺さぶられ陽炎が立ったようである。
リュウはひとりで小舟に乗って、海に落ちた月をじっと見つめていた。
海面の月が次第に大きくなってきた。いよいよ本当に海へと落ちるのか。
月は大きくなるに連れ楕円形に膨らんで、そのうち胸鰭も尾鰭も生えてきた。
来た、白鯨だ。
挑発するように小舟の真横で潮を吹き上げた。
リュウはそれには乗らず、挑発を返した。白鯨の背中に爆竹を投げ込んだのだ。
けたたましい爆発音と飛び散る火花に怒り狂った白鯨は、尾鰭を跳ね上げ小舟に目掛けて叩きつけた。
そこに小舟の姿はなかった。滑るような高速で製鉄所へと走り去っていたのだ。
小舟と造船所の蒸気機関は縄で結ばれていた。爆竹を合図に、縄を巻き上げるようにとリュウが事前に指示していた。
小舟は空いたドックに飛び込んだ。
先端部に設けられた坂を駆け上がると同時に、リュウが横へと飛んだ。次の瞬間、小舟は木っ端微塵に砕け散った。
粉々になった小舟を見つめたリュウは、冷や汗をかいて士官を睨みつけた。
「ドックに入ったら速度を落とすよう言ったはずだぞ、危ないところだった……」
「すまない、こういう使い方は初めてで……」
「まったくリュウは……無謀なんだから」
ドゴォォォォン!! ……
怒り心頭の白鯨は砕けた小舟を追ってドックに突っ込むと、それから何度も何度も先端部に激突していた。
「……ドライドックが壊れてしまう……」
ガクガクと震える士官の肩を、リュウはポンと叩いた。
「すまん、こんな策しか思いつかなかった。だが順調だ、あれを見ろ」
白鯨が激突を繰り返している間に、後方にあるドックの扉が塞がれた。そしてすぐさまドックの排水が始められ、水位は徐々に下がっていった。
水があるうちは暴れていた白鯨も、身体が露わになるに連れ、動きが鈍くなってきた。のたうち回ってみせるが、すぐに肩で息するようになる。
身体のほとんどが空気に触れて、息も絶え絶えになった頃、最後の力を振り絞ってドック先端に頭をぶつけた。
その衝撃はまるでなく、はじめの勢いは見る影もない。
リュウはドックに押し付けられた頭に乗って、白鯨の背中を歩いていく。
足元には無数の銛や縄の跡が残っており、見るからに痛々しい。
横須賀港を襲った白鯨だが、これまでに幾度となく人間に襲われたことがわかる。
リュウは、投げた爆竹の傷痕で立ち止まった。
青く輝く妖刀が白鯨の背中に突き立てられて、勢いよく血潮が吹き上がる。
そう思われた。
「待って!!」
悲痛な叫びを上げたのは、コンコだ。屈んで、白鯨の声を聞いていた。
「この子、迷い込んだって言っているよ。帰りたいんだって」
今更、何を言っているんだ。士官は歯ぎしりをして、怒鳴り上げた。
「こいつが何をしたか見ていたであろう!」
「傷つけたくて船にぶつかったんじゃない、出口がわからなくなったんだ。そう言っているよ」
狭い中、いくつもの艦船が停まる横須賀港で、白鯨はパニックになってしまったのだ。
リュウは刀を仕舞い、神妙な顔つきでふたりの元へと戻ってきた。
「扉を開けてくれ、鯨を海に帰す」
「貴様は何を言っているんだ!! ドライドックを使ってまで捕まえたのだぞ!! 早く退治しろ!!」
激昂する将校に対し、リュウは頭を下げた。
「すまない、封じるばかりが退治ではないのだ。あるべきところへ帰したい、船を出せないか。鯨を外洋まで案内する」
「しかし…今は夜だぞ。夜の航海は危険が……」
「海軍は夜、寝ているのか?」
馬鹿にしおって! と言いたげに士官はリュウを睨みつけた。
コンコとリュウの訴えが通じ、ドックへの注水がはじまった。水を得た魚、ではなく白鯨は水位が上がるに連れ元気を取り戻し、不安も晴れて機嫌も良くなってきた。
一隻の軍艦がドックの近くに停められて、それにコンコもリュウも、そして士官も乗り込んだ。
ドックへの注水が終わりかけた頃、扉が開けられて白鯨は横須賀湾へと吸い込まれた。
船尾でコンコがランプを灯すと、それに気付いた白鯨がゆっくりと後ろをついていった。
港から出て東京湾まで出たところで軍艦は舵を切り、行く手を白鯨に譲る。
察した白鯨は真っ直ぐ進み、やがて南へ進路を向けた。
次第に小さくなっていく白い背中は朝日に照らされ輝いていた。一瞬、朝日の方を見ると、別れを告げるように盛大な潮を吹いて、深くへと潜り姿を消した。
「白くて目立つだけで狙われていたんだって」
「それで逃げ込んだのが、横須賀だったのか」
リュウは背中にあった無数の傷痕を思い出していた。
今までどれだけ恐ろしい思いをしたのだろう。
耐え難い恐怖や、人間への恨みから、あの白鯨はあやかしになったのかも知れない。
海軍の恨みという厄介な土産を作ってしまい、リュウは小さくため息をついた。やはり恐ろしいのは、人だ。
「どこに向かうつもりかな?」
「東の方を見ていたから、アメリカまで行くつもりかも知れないな」
この白鯨は遠くアメリカで、物語をひとつ紡いでから日本にやって来ていた。
横須賀の後日談を手土産に、大海原へ旅立った彼は、安寧な日々を取り戻すのだろうか。
それとも再び物語の主人公となるのだろうか。
その行く末は、誰も知らない。
昨日とは打って変わって雲ひとつない。
海面にポトリと落とされた、まばゆいほどの月明かりは、穏やかな波に揺さぶられ陽炎が立ったようである。
リュウはひとりで小舟に乗って、海に落ちた月をじっと見つめていた。
海面の月が次第に大きくなってきた。いよいよ本当に海へと落ちるのか。
月は大きくなるに連れ楕円形に膨らんで、そのうち胸鰭も尾鰭も生えてきた。
来た、白鯨だ。
挑発するように小舟の真横で潮を吹き上げた。
リュウはそれには乗らず、挑発を返した。白鯨の背中に爆竹を投げ込んだのだ。
けたたましい爆発音と飛び散る火花に怒り狂った白鯨は、尾鰭を跳ね上げ小舟に目掛けて叩きつけた。
そこに小舟の姿はなかった。滑るような高速で製鉄所へと走り去っていたのだ。
小舟と造船所の蒸気機関は縄で結ばれていた。爆竹を合図に、縄を巻き上げるようにとリュウが事前に指示していた。
小舟は空いたドックに飛び込んだ。
先端部に設けられた坂を駆け上がると同時に、リュウが横へと飛んだ。次の瞬間、小舟は木っ端微塵に砕け散った。
粉々になった小舟を見つめたリュウは、冷や汗をかいて士官を睨みつけた。
「ドックに入ったら速度を落とすよう言ったはずだぞ、危ないところだった……」
「すまない、こういう使い方は初めてで……」
「まったくリュウは……無謀なんだから」
ドゴォォォォン!! ……
怒り心頭の白鯨は砕けた小舟を追ってドックに突っ込むと、それから何度も何度も先端部に激突していた。
「……ドライドックが壊れてしまう……」
ガクガクと震える士官の肩を、リュウはポンと叩いた。
「すまん、こんな策しか思いつかなかった。だが順調だ、あれを見ろ」
白鯨が激突を繰り返している間に、後方にあるドックの扉が塞がれた。そしてすぐさまドックの排水が始められ、水位は徐々に下がっていった。
水があるうちは暴れていた白鯨も、身体が露わになるに連れ、動きが鈍くなってきた。のたうち回ってみせるが、すぐに肩で息するようになる。
身体のほとんどが空気に触れて、息も絶え絶えになった頃、最後の力を振り絞ってドック先端に頭をぶつけた。
その衝撃はまるでなく、はじめの勢いは見る影もない。
リュウはドックに押し付けられた頭に乗って、白鯨の背中を歩いていく。
足元には無数の銛や縄の跡が残っており、見るからに痛々しい。
横須賀港を襲った白鯨だが、これまでに幾度となく人間に襲われたことがわかる。
リュウは、投げた爆竹の傷痕で立ち止まった。
青く輝く妖刀が白鯨の背中に突き立てられて、勢いよく血潮が吹き上がる。
そう思われた。
「待って!!」
悲痛な叫びを上げたのは、コンコだ。屈んで、白鯨の声を聞いていた。
「この子、迷い込んだって言っているよ。帰りたいんだって」
今更、何を言っているんだ。士官は歯ぎしりをして、怒鳴り上げた。
「こいつが何をしたか見ていたであろう!」
「傷つけたくて船にぶつかったんじゃない、出口がわからなくなったんだ。そう言っているよ」
狭い中、いくつもの艦船が停まる横須賀港で、白鯨はパニックになってしまったのだ。
リュウは刀を仕舞い、神妙な顔つきでふたりの元へと戻ってきた。
「扉を開けてくれ、鯨を海に帰す」
「貴様は何を言っているんだ!! ドライドックを使ってまで捕まえたのだぞ!! 早く退治しろ!!」
激昂する将校に対し、リュウは頭を下げた。
「すまない、封じるばかりが退治ではないのだ。あるべきところへ帰したい、船を出せないか。鯨を外洋まで案内する」
「しかし…今は夜だぞ。夜の航海は危険が……」
「海軍は夜、寝ているのか?」
馬鹿にしおって! と言いたげに士官はリュウを睨みつけた。
コンコとリュウの訴えが通じ、ドックへの注水がはじまった。水を得た魚、ではなく白鯨は水位が上がるに連れ元気を取り戻し、不安も晴れて機嫌も良くなってきた。
一隻の軍艦がドックの近くに停められて、それにコンコもリュウも、そして士官も乗り込んだ。
ドックへの注水が終わりかけた頃、扉が開けられて白鯨は横須賀湾へと吸い込まれた。
船尾でコンコがランプを灯すと、それに気付いた白鯨がゆっくりと後ろをついていった。
港から出て東京湾まで出たところで軍艦は舵を切り、行く手を白鯨に譲る。
察した白鯨は真っ直ぐ進み、やがて南へ進路を向けた。
次第に小さくなっていく白い背中は朝日に照らされ輝いていた。一瞬、朝日の方を見ると、別れを告げるように盛大な潮を吹いて、深くへと潜り姿を消した。
「白くて目立つだけで狙われていたんだって」
「それで逃げ込んだのが、横須賀だったのか」
リュウは背中にあった無数の傷痕を思い出していた。
今までどれだけ恐ろしい思いをしたのだろう。
耐え難い恐怖や、人間への恨みから、あの白鯨はあやかしになったのかも知れない。
海軍の恨みという厄介な土産を作ってしまい、リュウは小さくため息をついた。やはり恐ろしいのは、人だ。
「どこに向かうつもりかな?」
「東の方を見ていたから、アメリカまで行くつもりかも知れないな」
この白鯨は遠くアメリカで、物語をひとつ紡いでから日本にやって来ていた。
横須賀の後日談を手土産に、大海原へ旅立った彼は、安寧な日々を取り戻すのだろうか。
それとも再び物語の主人公となるのだろうか。
その行く末は、誰も知らない。
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