36 / 64
白鯨①
しおりを挟む
文明開化により寒村から劇的な発展を遂げた町が、横浜の他にもうひとつある。
そこは横須賀。
複雑に入り組んだ海岸線が防波堤を兼ね、天然の要塞を成す、軍港として理想的な地形が、帝国海軍の重要拠点に選ばれた。
高島の元に海軍から依頼が舞い込んで、コンコとリュウがやって来た。物々しい雰囲気にコンコは緊張の面持ちで、リュウは険しい顔である。
軍港の門前で衛兵に声を掛けたが、話は簡単にはいかなかった。
「高島嘉右衛門の遣いだ」
「名前は?」
「コンコだよ! こっちはリュウ」
「氏名で答えよ。名前は!?」
ふたりは困惑し、口をつぐんでしまった。
リュウは彰義隊士として上野の山で死んだことになっている。
コンコは人の姿だが、その正体は稲荷狐の神様である。
高島を冠した偽名を使ったことはあるが、先に高島の遣いと言ってしまったから使えない。
3度目ともなれば厳しく問われる。強い口調で名前を聞かれてコンコはオロオロとし、リュウは苛立ち帰ってしまおうかと考えた。
ひとりの士官が奥から門の前へとやって来て、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「どうした」
「ハッ! この者たちが高島嘉右衛門様の遣いと申しております!」
「僕、コンコ。こっちはリュウだよ」
「お待ちしておりました、どうぞ中へ」
今度は呆気なく入れてしまい、拍子抜けした。この件は軍でも一部の上官しか知らないらしい。
しかしこの士官、舐め回すようにリュウを見て終始ニヤニヤとしている。リュウはと言うと、親の仇にでも会ったような目で睨みつけていた。
「ここ横須賀は国防の要です。見聞きしたものは決して口外なさらぬよう」
キョロキョロと辺りを見回していたコンコは、ゼンマイが弾け飛んだように首を止め、正面へと視線を釘刺した。
「それをお約束頂けるなら、この軍港をご案内しましょう」
コンコは沸き立つ嬉しさを噛み殺しているが、リュウの表情は固いままだ。
真っ赤に焼けた鉄塊に、巨大なハンマーが打ち下ろされた。ハンマーが上がると鉄塊はふたりがかりで動かされ、再びハンマーに激しく叩きつけられる。
「これはスチームハンマー、蒸気機関の鍛冶屋です」
軍港に隣接する横須賀造船所である。
陸蒸気や蒸気船が身近な横浜に暮らすコンコとリュウだが、産業用蒸気機関は初めて目にした。凄まじい機械音が轟いており、会話をするのもやっとである。
「製鉄と蒸気機関は文明開化の要、横須賀こそが日本の中枢です」
横浜はおろか東京も差し置いて中枢を名乗るとは、大きく出たものだ。
だが日本における最先端技術が結集している。秘匿にされるのも当然である。
次に連れてこられた場所で、コンコは目を丸くして「鯨のお墓?」と尋ねたので、士官は可笑しそうにしていた。
「これはドライドック、船の修理で使います」
地面をくり抜いて石を敷き詰めたそれは、コンコが言うように巨大な石棺にも見える。
「へぇ~! どうやって船を入れるの?」
「水を満たして門を開けるんだよ。船が入ったら門を閉めて、水を抜くんだ」
「どうやって水を抜くの?」
「これも蒸気機関だ。排水のために作られたのが蒸気機関。これが本来の使い道というものだよ」
「そうして、あの船を直しているのか」
ふたつあるドックうちの一方は、既に使用中であったのだ。
リュウの一言に士官は唇を噛んだ。ただの修理ではなさそうである。
口外しない約束でも、国防上ここまでしか見せられないと言われたので、今回の本題に入ることにした。
「それで、どんなあやかしが出るの?」
コンコの質問を、士官は鼻で笑った。
「あやかし? そんな非科学的なものがいるか。鉄と蒸気機関で築かれた機械文明を見ただろう」
コンコはムッとして、リュウは苛立った。
「怪異が起きているから、俺たちが呼ばれたはずだ。ここで何があったのだ」
「ふん、上官どもの戯言よ。起きた事象については、国防上の都合で言えん」
士官はリュウに肩をぶつけ、低い声で囁いた。
「そんなことより、夜ここに来い。聞きたいことがある」
リュウは横目に睨みつけ、聞こえよがしに奥歯をギリッと噛み鳴らした。
朧月が窮屈な湾内を照らしている。天然の防波堤により、波の音は微かであった。
人気のないドック脇では士官がひとりで待っており、リュウの影が近付くに連れ口角がいやらしく吊り上がった。
「よくぞ命拾いしたものよ、上野の山以来だな」
「人違いだ」
彰義隊士だった当時、剣を交わした相手が多すぎた。この士官も、いけ好かない警部も、そのうちのひとりだろう。
リュウは誰ひとりとして覚えていない。
士官がサーベルを投げてきた。
「決着をつけよう。志半ばは、お互い様だろう」
リュウはサーベルを投げ返し、腰のものを見せつけた。
「俺の刀は、これだけだ」
士官は眉をピクリと動かしてから、目を剥いて歯を見せて、悪魔のように笑った。
「貴様、上野で死んだことになっていないか? 死んだと聞いて探したが、欠片のひとつも見つけらなかった男がいた。貴様だ、小僧」
押し黙ったリュウの鋭い目付きが、士官の予想を確信に変えさせた。
「一度死んだ身であれば、身元不明の無縁仏だ。俺が土左衛門にしてやろう」
負ければ水死体、勝てば牢獄または死刑、どちらに転がっても地獄行き。分が悪いだけの勝負だが、断ることは許されない。
リュウが静かに刀を抜くと、士官は喜々としてサーベルを抜いた。
そこは横須賀。
複雑に入り組んだ海岸線が防波堤を兼ね、天然の要塞を成す、軍港として理想的な地形が、帝国海軍の重要拠点に選ばれた。
高島の元に海軍から依頼が舞い込んで、コンコとリュウがやって来た。物々しい雰囲気にコンコは緊張の面持ちで、リュウは険しい顔である。
軍港の門前で衛兵に声を掛けたが、話は簡単にはいかなかった。
「高島嘉右衛門の遣いだ」
「名前は?」
「コンコだよ! こっちはリュウ」
「氏名で答えよ。名前は!?」
ふたりは困惑し、口をつぐんでしまった。
リュウは彰義隊士として上野の山で死んだことになっている。
コンコは人の姿だが、その正体は稲荷狐の神様である。
高島を冠した偽名を使ったことはあるが、先に高島の遣いと言ってしまったから使えない。
3度目ともなれば厳しく問われる。強い口調で名前を聞かれてコンコはオロオロとし、リュウは苛立ち帰ってしまおうかと考えた。
ひとりの士官が奥から門の前へとやって来て、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「どうした」
「ハッ! この者たちが高島嘉右衛門様の遣いと申しております!」
「僕、コンコ。こっちはリュウだよ」
「お待ちしておりました、どうぞ中へ」
今度は呆気なく入れてしまい、拍子抜けした。この件は軍でも一部の上官しか知らないらしい。
しかしこの士官、舐め回すようにリュウを見て終始ニヤニヤとしている。リュウはと言うと、親の仇にでも会ったような目で睨みつけていた。
「ここ横須賀は国防の要です。見聞きしたものは決して口外なさらぬよう」
キョロキョロと辺りを見回していたコンコは、ゼンマイが弾け飛んだように首を止め、正面へと視線を釘刺した。
「それをお約束頂けるなら、この軍港をご案内しましょう」
コンコは沸き立つ嬉しさを噛み殺しているが、リュウの表情は固いままだ。
真っ赤に焼けた鉄塊に、巨大なハンマーが打ち下ろされた。ハンマーが上がると鉄塊はふたりがかりで動かされ、再びハンマーに激しく叩きつけられる。
「これはスチームハンマー、蒸気機関の鍛冶屋です」
軍港に隣接する横須賀造船所である。
陸蒸気や蒸気船が身近な横浜に暮らすコンコとリュウだが、産業用蒸気機関は初めて目にした。凄まじい機械音が轟いており、会話をするのもやっとである。
「製鉄と蒸気機関は文明開化の要、横須賀こそが日本の中枢です」
横浜はおろか東京も差し置いて中枢を名乗るとは、大きく出たものだ。
だが日本における最先端技術が結集している。秘匿にされるのも当然である。
次に連れてこられた場所で、コンコは目を丸くして「鯨のお墓?」と尋ねたので、士官は可笑しそうにしていた。
「これはドライドック、船の修理で使います」
地面をくり抜いて石を敷き詰めたそれは、コンコが言うように巨大な石棺にも見える。
「へぇ~! どうやって船を入れるの?」
「水を満たして門を開けるんだよ。船が入ったら門を閉めて、水を抜くんだ」
「どうやって水を抜くの?」
「これも蒸気機関だ。排水のために作られたのが蒸気機関。これが本来の使い道というものだよ」
「そうして、あの船を直しているのか」
ふたつあるドックうちの一方は、既に使用中であったのだ。
リュウの一言に士官は唇を噛んだ。ただの修理ではなさそうである。
口外しない約束でも、国防上ここまでしか見せられないと言われたので、今回の本題に入ることにした。
「それで、どんなあやかしが出るの?」
コンコの質問を、士官は鼻で笑った。
「あやかし? そんな非科学的なものがいるか。鉄と蒸気機関で築かれた機械文明を見ただろう」
コンコはムッとして、リュウは苛立った。
「怪異が起きているから、俺たちが呼ばれたはずだ。ここで何があったのだ」
「ふん、上官どもの戯言よ。起きた事象については、国防上の都合で言えん」
士官はリュウに肩をぶつけ、低い声で囁いた。
「そんなことより、夜ここに来い。聞きたいことがある」
リュウは横目に睨みつけ、聞こえよがしに奥歯をギリッと噛み鳴らした。
朧月が窮屈な湾内を照らしている。天然の防波堤により、波の音は微かであった。
人気のないドック脇では士官がひとりで待っており、リュウの影が近付くに連れ口角がいやらしく吊り上がった。
「よくぞ命拾いしたものよ、上野の山以来だな」
「人違いだ」
彰義隊士だった当時、剣を交わした相手が多すぎた。この士官も、いけ好かない警部も、そのうちのひとりだろう。
リュウは誰ひとりとして覚えていない。
士官がサーベルを投げてきた。
「決着をつけよう。志半ばは、お互い様だろう」
リュウはサーベルを投げ返し、腰のものを見せつけた。
「俺の刀は、これだけだ」
士官は眉をピクリと動かしてから、目を剥いて歯を見せて、悪魔のように笑った。
「貴様、上野で死んだことになっていないか? 死んだと聞いて探したが、欠片のひとつも見つけらなかった男がいた。貴様だ、小僧」
押し黙ったリュウの鋭い目付きが、士官の予想を確信に変えさせた。
「一度死んだ身であれば、身元不明の無縁仏だ。俺が土左衛門にしてやろう」
負ければ水死体、勝てば牢獄または死刑、どちらに転がっても地獄行き。分が悪いだけの勝負だが、断ることは許されない。
リュウが静かに刀を抜くと、士官は喜々としてサーベルを抜いた。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
東へ征(ゆ)け ―神武東征記ー
長髄彦ファン
歴史・時代
日向の皇子・磐余彦(のちの神武天皇)は、出雲王の長髄彦からもらった弓矢を武器に人喰い熊の黒鬼を倒す。磐余彦は三人の兄と仲間とともに東の国ヤマトを目指して出航するが、上陸した河内で待ち構えていたのは、ヤマトの将軍となった長髄彦だった。激しい戦闘の末に長兄を喪い、熊野灘では嵐に遭遇して二人の兄も喪う。その後数々の苦難を乗り越え、ヤマト進撃を目前にした磐余彦は長髄彦と対面するが――。
『日本書紀』&『古事記』をベースにして日本の建国物語を紡ぎました。
※この作品はNOVEL DAYSとnoteでバージョン違いを公開しています。

鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる