上 下
33 / 64

人魚姫②

しおりを挟む
 人魚姫は、コンコとリュウと夜空にまたたく星たちを観客にして歌いはじめた。
 その美しい姿によく似合う、高く透き通った声が横浜港に響き渡る。聴いているだけで心が洗われる。

 歌声に惹かれたのは、それだけではなかった。
 蒸気船の舳先を飾る船首像が、一斉に人魚姫の方を向いた。
 船体は転回し人魚姫を進路に捉えると、沈む錨を凄まじい力で引きずりながら、誰の手も借りずに岸壁に向かって走り出した。
「「待った待った待った待った!!」」
 人魚姫がキョトンとし、歌を止めると蒸気船もピタリと止まった。だるまさんがころんだ、でも見ているようだ。

「ひどいわ、王子様への愛を歌にしているのに」
 人魚姫は、罰でも受けてしまったような悲しい顔をした。コンコとリュウは胸の早鐘が鳴り止まない。
「港を見て、人魚姫の歌に蒸気船が誘われているんだよ」
「そのまま岸壁まで走り、艀を押し潰したのだ」
 舳先を向けた蒸気船と、岸壁下に漂う艀の残骸に気付いた人魚姫は息を呑んだ。

 何と罪深いことを!! ……
 人魚姫は愕然とした。ずっと海に暮らしているから、事の重大さはわかってくれたようだ。
 身体の前で両手をついて、今にも涙を流しそうな顔をして、ガックリと首を垂れた。どこまでも芝居臭い。
「秘めたる想いを歌に込め
 起こしてしまった重い罪
 愛することは許されないのか
 叶えられない恋なのか
 それでは聴いて頂きましょう、人魚姫で」
「「待った待った待った待った!!」」

 人魚姫は突っ伏して、声を上げて泣き出した。
 王子様への愛を大好きな歌にして、自慢の歌声で歌うことが許されないのが、心底つらいのだ。
 廃刀令施行のときと気持ちが重なったリュウの胸が痛んだ。
 武士の魂が刀に宿っているように、歌は人魚姫の魂そのものなのだ。

 そうは言っても、彼女をどうするかが問題だ。悪意がないので封じるつもりは毛頭ないが、故郷に帰れず、港では艀と歌を天秤に架けなければならず、悪い船乗りや見世物小屋に売り飛ばされる危険も変わらない。
 どうすれば人魚姫を救えるのか。
 だいたい、王子様とは誰なんだ!

「今日は港で仕事か」
 猫だ、虎だ、いや水虎だ。
「水虎ちゃん! どうしたの!? こんな遅くに」
「甲州商人の世話をしていた。繁盛しているようで、何よりだ」
 頬を染めて目配せをする人魚姫に気付いた水虎が、ぽてぽてとそちらに向かっていった。

「水虎様と仰るのね。その節は、ありがとうございました」
 人魚姫が深々と頭を下げるが、水虎はキリリと硬い表情のままだ。
「まだ帰っていなかったのか」
 あれだけ喋っていた人魚姫が、うつむいて口をつぐんでいた。
「帰れない理由があるのか」
 コクンとうなずく人魚姫。水虎はそれから先の追及をせず、彼女の困惑する瞳をキリリと見つめ続けた。

 リュウが水虎を手招きし、人魚姫の事情を説明した。
 肉が目当てで悪人に捕まったこと、命からがら逃げ出したこと、日本で暮らすと決意したこと、彼女の歌が艀を潰してしまったこと。
 水虎への想いだけは、本人から伝えた方がいいと思い黙っておいた。

 再び人魚姫の元へぽてぽてと向かった水虎は、固い決意を胸にキリリとしていた。
「人魚姫、甲斐に来ないか?」
 ハッとして見つめた先に、初めて逢ったときと同じ、キリリとしながら優しさが滲み出す水虎の瞳があった。
「富士が作った美しい湖がたくさんある。舳先に像がついた船もない、好きなだけ歌えばいい」
 水虎の小さな手が、人魚姫の手を取った。
「美しい歌を聴かせて欲しい」

 甲斐で暮らすと心に決めた人魚姫は、胸元から小瓶を取り出した。
「何だ、それは」
「ご一緒するには、脚が要ります」
「ダメだよ! それを飲んだら、水虎ちゃんに歌を聴かせてあげられないよ!?」
 コンコが制しても人魚姫は、強く握る小瓶から手を離せずにいた。歌を失ってでも、水虎が住む甲斐で暮らしたいのだ。

 水虎はかぶりを振って、キリリと眼差しを向けた。
「歌声を捨てることはない。水脈を辿るから、今のままがいいんだ。手を引いてやるから、ついて来るだけでいい」
 人魚姫が水虎の手を握り返すと、堰を切ったように涙が溢れて頬を伝った。
 歌を失わずに済んだ、私が暮らす水場を与えてくれた、迷うことなく迎えてくれた。
 本当に、私の運命の王子様だ。

 人魚姫は、水虎を抱いて海に飛び込んだ。
 多摩川を上り、八王子か高尾から水脈を辿る。
 人魚姫が水脈を通れなくても、そこまで行けば顔馴染みの甲州商人が誰かしら通るだろうから、その大八車にでも乗っていこう。
 そうと決めて、水虎は人魚姫を甲斐へと連れて行った。

「王子様が水虎ちゃんで良かったね」
「単なる一目惚れと思ったが、人魚姫の目に狂いはなかったな」
 コンコとリュウが家路を目指して振り返ると、そこには黒山の人だかり。
 こんな遅くに、どうしたのか。
 艀潰しの犯人が、人魚姫だと気付かれたのか。
 よくも逃したと囲まれるのか。
 これは不味い、ふたりに緊張が走った。
 しかし殺伐とした雰囲気は微塵もなく、みんな不思議そうに首を傾げている。

「歌を歌ったのは、坊っちゃんか?」
「ちちち違うよ、僕じゃないよ」
「そうか、あんまり綺麗な声だったから、思わず家を飛び出してきたが……」
「いいから何か歌え!」
 野次馬の煽りに負けたコンコが、直立不動で歌を歌いだした。
「わがひのもーとはしまぐによー
 あーさひかがよううーみーにー」
「何だそれ?」
「わかんない、急に思いついた」

 船首像が誘われる歌なら、人が集まるのも当然だろう。
 人魚姫が甲斐のどこに落ち着くのかは知らないが、彼女が暮らす湖は人が集まる場所になるかも知れない。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

座頭の石《ざとうのいし》

とおのかげふみ
歴史・時代
盲目の男『石』は、《つる》という女性と二人で旅を続けている。 旅の途中で出会った女性《よし》と娘の《たえ》の親子。 二人と懇意になり、町に留まることにした二人。 その町は、尾張藩の代官、和久家の管理下にあったが、実質的には一人のヤクザが支配していた。 《タノヤスケゴロウ》表向き商人を装うこの男に目を付けられてしまった石。 町は幕府からの大事業の河川工事の真っ只中。 棟梁を務める《さだよし》は、《よし》に執着する《スケゴロウ》と対立を深めていく。 和久家の跡取り問題が引き金となり《スケゴロウ》は、子分の《やキり》の忠告にも耳を貸さず、暴走し始める。 それは、《さだよし》や《よし》の親子、そして、《つる》がいる集落を破壊するということだった。 その事を知った石は、《つる》を、《よし》親子を、そして町で出会った人々を守るために、たった一人で立ち向かう。

ARIA(アリア)

残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……

龍馬暗殺の夜

よん
歴史・時代
慶応三年十一月十五日。 坂本龍馬が何者かに暗殺されるその日、彼は何者かによって暗殺されなかった。

わが友ヒトラー

名無ナナシ
歴史・時代
史上最悪の独裁者として名高いアドルフ・ヒトラー そんな彼にも青春を共にする者がいた 一九〇〇年代のドイツ 二人の青春物語 youtube : https://www.youtube.com/channel/UC6CwMDVM6o7OygoFC3RdKng 参考・引用 彡(゜)(゜)「ワイはアドルフ・ヒトラー。将来の大芸術家や」(5ch) アドルフ・ヒトラーの青春(三交社)

狐侍こんこんちき

月芝
歴史・時代
母は出戻り幽霊。居候はしゃべる猫。 父は何の因果か輪廻の輪からはずされて、地獄の官吏についている。 そんな九坂家は由緒正しいおんぼろ道場を営んでいるが、 門弟なんぞはひとりもいやしない。 寄りつくのはもっぱら妙ちきりんな連中ばかり。 かような家を継いでしまった藤士郎は、狐面にていつも背を丸めている青瓢箪。 のんびりした性格にて、覇気に乏しく、およそ武士らしくない。 おかげでせっかくの剣の腕も宝の持ち腐れ。 もっぱら魚をさばいたり、薪を割るのに役立っているが、そんな暮らしも案外悪くない。 けれどもある日のこと。 自宅兼道場の前にて倒れている子どもを拾ったことから、奇妙な縁が動きだす。 脇差しの付喪神を助けたことから、世にも奇妙な仇討ち騒動に関わることになった藤士郎。 こんこんちきちき、こんちきちん。 家内安全、無病息災、心願成就にて妖縁奇縁が来来。 巻き起こる騒動の数々。 これを解決するために奔走する狐侍の奇々怪々なお江戸物語。

剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】 明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。 維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。 密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。 武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。 ※エブリスタでも連載中

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

妖戦刀義

和山忍
歴史・時代
 時は日本の江戸時代初期。   とある農村で、風太は母の病気を治せる人もしくは妖怪をさがす旅に出た父の帰りを待っていた。  しかし、その父とは思わぬ形で再会することとなった。  そして、風太は人でありながら妖力を得て・・・・・・。     ※この物語はフィクションであり、実際の史実と異なる部分があります。 そして、実在の人物、団体、事件、その他いろいろとは一切関係ありません。

処理中です...