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人魚姫②
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人魚姫は、コンコとリュウと夜空にまたたく星たちを観客にして歌いはじめた。
その美しい姿によく似合う、高く透き通った声が横浜港に響き渡る。聴いているだけで心が洗われる。
歌声に惹かれたのは、それだけではなかった。
蒸気船の舳先を飾る船首像が、一斉に人魚姫の方を向いた。
船体は転回し人魚姫を進路に捉えると、沈む錨を凄まじい力で引きずりながら、誰の手も借りずに岸壁に向かって走り出した。
「「待った待った待った待った!!」」
人魚姫がキョトンとし、歌を止めると蒸気船もピタリと止まった。だるまさんがころんだ、でも見ているようだ。
「ひどいわ、王子様への愛を歌にしているのに」
人魚姫は、罰でも受けてしまったような悲しい顔をした。コンコとリュウは胸の早鐘が鳴り止まない。
「港を見て、人魚姫の歌に蒸気船が誘われているんだよ」
「そのまま岸壁まで走り、艀を押し潰したのだ」
舳先を向けた蒸気船と、岸壁下に漂う艀の残骸に気付いた人魚姫は息を呑んだ。
何と罪深いことを!! ……
人魚姫は愕然とした。ずっと海に暮らしているから、事の重大さはわかってくれたようだ。
身体の前で両手をついて、今にも涙を流しそうな顔をして、ガックリと首を垂れた。どこまでも芝居臭い。
「秘めたる想いを歌に込め
起こしてしまった重い罪
愛することは許されないのか
叶えられない恋なのか
それでは聴いて頂きましょう、人魚姫で」
「「待った待った待った待った!!」」
人魚姫は突っ伏して、声を上げて泣き出した。
王子様への愛を大好きな歌にして、自慢の歌声で歌うことが許されないのが、心底つらいのだ。
廃刀令施行のときと気持ちが重なったリュウの胸が痛んだ。
武士の魂が刀に宿っているように、歌は人魚姫の魂そのものなのだ。
そうは言っても、彼女をどうするかが問題だ。悪意がないので封じるつもりは毛頭ないが、故郷に帰れず、港では艀と歌を天秤に架けなければならず、悪い船乗りや見世物小屋に売り飛ばされる危険も変わらない。
どうすれば人魚姫を救えるのか。
だいたい、王子様とは誰なんだ!
「今日は港で仕事か」
猫だ、虎だ、いや水虎だ。
「水虎ちゃん! どうしたの!? こんな遅くに」
「甲州商人の世話をしていた。繁盛しているようで、何よりだ」
頬を染めて目配せをする人魚姫に気付いた水虎が、ぽてぽてとそちらに向かっていった。
「水虎様と仰るのね。その節は、ありがとうございました」
人魚姫が深々と頭を下げるが、水虎はキリリと硬い表情のままだ。
「まだ帰っていなかったのか」
あれだけ喋っていた人魚姫が、うつむいて口をつぐんでいた。
「帰れない理由があるのか」
コクンとうなずく人魚姫。水虎はそれから先の追及をせず、彼女の困惑する瞳をキリリと見つめ続けた。
リュウが水虎を手招きし、人魚姫の事情を説明した。
肉が目当てで悪人に捕まったこと、命からがら逃げ出したこと、日本で暮らすと決意したこと、彼女の歌が艀を潰してしまったこと。
水虎への想いだけは、本人から伝えた方がいいと思い黙っておいた。
再び人魚姫の元へぽてぽてと向かった水虎は、固い決意を胸にキリリとしていた。
「人魚姫、甲斐に来ないか?」
ハッとして見つめた先に、初めて逢ったときと同じ、キリリとしながら優しさが滲み出す水虎の瞳があった。
「富士が作った美しい湖がたくさんある。舳先に像がついた船もない、好きなだけ歌えばいい」
水虎の小さな手が、人魚姫の手を取った。
「美しい歌を聴かせて欲しい」
甲斐で暮らすと心に決めた人魚姫は、胸元から小瓶を取り出した。
「何だ、それは」
「ご一緒するには、脚が要ります」
「ダメだよ! それを飲んだら、水虎ちゃんに歌を聴かせてあげられないよ!?」
コンコが制しても人魚姫は、強く握る小瓶から手を離せずにいた。歌を失ってでも、水虎が住む甲斐で暮らしたいのだ。
水虎は頭を振って、キリリと眼差しを向けた。
「歌声を捨てることはない。水脈を辿るから、今のままがいいんだ。手を引いてやるから、ついて来るだけでいい」
人魚姫が水虎の手を握り返すと、堰を切ったように涙が溢れて頬を伝った。
歌を失わずに済んだ、私が暮らす水場を与えてくれた、迷うことなく迎えてくれた。
本当に、私の運命の王子様だ。
人魚姫は、水虎を抱いて海に飛び込んだ。
多摩川を上り、八王子か高尾から水脈を辿る。
人魚姫が水脈を通れなくても、そこまで行けば顔馴染みの甲州商人が誰かしら通るだろうから、その大八車にでも乗っていこう。
そうと決めて、水虎は人魚姫を甲斐へと連れて行った。
「王子様が水虎ちゃんで良かったね」
「単なる一目惚れと思ったが、人魚姫の目に狂いはなかったな」
コンコとリュウが家路を目指して振り返ると、そこには黒山の人だかり。
こんな遅くに、どうしたのか。
艀潰しの犯人が、人魚姫だと気付かれたのか。
よくも逃したと囲まれるのか。
これは不味い、ふたりに緊張が走った。
しかし殺伐とした雰囲気は微塵もなく、みんな不思議そうに首を傾げている。
「歌を歌ったのは、坊っちゃんか?」
「ちちち違うよ、僕じゃないよ」
「そうか、あんまり綺麗な声だったから、思わず家を飛び出してきたが……」
「いいから何か歌え!」
野次馬の煽りに負けたコンコが、直立不動で歌を歌いだした。
「わがひのもーとはしまぐによー
あーさひかがよううーみーにー」
「何だそれ?」
「わかんない、急に思いついた」
船首像が誘われる歌なら、人が集まるのも当然だろう。
人魚姫が甲斐のどこに落ち着くのかは知らないが、彼女が暮らす湖は人が集まる場所になるかも知れない。
その美しい姿によく似合う、高く透き通った声が横浜港に響き渡る。聴いているだけで心が洗われる。
歌声に惹かれたのは、それだけではなかった。
蒸気船の舳先を飾る船首像が、一斉に人魚姫の方を向いた。
船体は転回し人魚姫を進路に捉えると、沈む錨を凄まじい力で引きずりながら、誰の手も借りずに岸壁に向かって走り出した。
「「待った待った待った待った!!」」
人魚姫がキョトンとし、歌を止めると蒸気船もピタリと止まった。だるまさんがころんだ、でも見ているようだ。
「ひどいわ、王子様への愛を歌にしているのに」
人魚姫は、罰でも受けてしまったような悲しい顔をした。コンコとリュウは胸の早鐘が鳴り止まない。
「港を見て、人魚姫の歌に蒸気船が誘われているんだよ」
「そのまま岸壁まで走り、艀を押し潰したのだ」
舳先を向けた蒸気船と、岸壁下に漂う艀の残骸に気付いた人魚姫は息を呑んだ。
何と罪深いことを!! ……
人魚姫は愕然とした。ずっと海に暮らしているから、事の重大さはわかってくれたようだ。
身体の前で両手をついて、今にも涙を流しそうな顔をして、ガックリと首を垂れた。どこまでも芝居臭い。
「秘めたる想いを歌に込め
起こしてしまった重い罪
愛することは許されないのか
叶えられない恋なのか
それでは聴いて頂きましょう、人魚姫で」
「「待った待った待った待った!!」」
人魚姫は突っ伏して、声を上げて泣き出した。
王子様への愛を大好きな歌にして、自慢の歌声で歌うことが許されないのが、心底つらいのだ。
廃刀令施行のときと気持ちが重なったリュウの胸が痛んだ。
武士の魂が刀に宿っているように、歌は人魚姫の魂そのものなのだ。
そうは言っても、彼女をどうするかが問題だ。悪意がないので封じるつもりは毛頭ないが、故郷に帰れず、港では艀と歌を天秤に架けなければならず、悪い船乗りや見世物小屋に売り飛ばされる危険も変わらない。
どうすれば人魚姫を救えるのか。
だいたい、王子様とは誰なんだ!
「今日は港で仕事か」
猫だ、虎だ、いや水虎だ。
「水虎ちゃん! どうしたの!? こんな遅くに」
「甲州商人の世話をしていた。繁盛しているようで、何よりだ」
頬を染めて目配せをする人魚姫に気付いた水虎が、ぽてぽてとそちらに向かっていった。
「水虎様と仰るのね。その節は、ありがとうございました」
人魚姫が深々と頭を下げるが、水虎はキリリと硬い表情のままだ。
「まだ帰っていなかったのか」
あれだけ喋っていた人魚姫が、うつむいて口をつぐんでいた。
「帰れない理由があるのか」
コクンとうなずく人魚姫。水虎はそれから先の追及をせず、彼女の困惑する瞳をキリリと見つめ続けた。
リュウが水虎を手招きし、人魚姫の事情を説明した。
肉が目当てで悪人に捕まったこと、命からがら逃げ出したこと、日本で暮らすと決意したこと、彼女の歌が艀を潰してしまったこと。
水虎への想いだけは、本人から伝えた方がいいと思い黙っておいた。
再び人魚姫の元へぽてぽてと向かった水虎は、固い決意を胸にキリリとしていた。
「人魚姫、甲斐に来ないか?」
ハッとして見つめた先に、初めて逢ったときと同じ、キリリとしながら優しさが滲み出す水虎の瞳があった。
「富士が作った美しい湖がたくさんある。舳先に像がついた船もない、好きなだけ歌えばいい」
水虎の小さな手が、人魚姫の手を取った。
「美しい歌を聴かせて欲しい」
甲斐で暮らすと心に決めた人魚姫は、胸元から小瓶を取り出した。
「何だ、それは」
「ご一緒するには、脚が要ります」
「ダメだよ! それを飲んだら、水虎ちゃんに歌を聴かせてあげられないよ!?」
コンコが制しても人魚姫は、強く握る小瓶から手を離せずにいた。歌を失ってでも、水虎が住む甲斐で暮らしたいのだ。
水虎は頭を振って、キリリと眼差しを向けた。
「歌声を捨てることはない。水脈を辿るから、今のままがいいんだ。手を引いてやるから、ついて来るだけでいい」
人魚姫が水虎の手を握り返すと、堰を切ったように涙が溢れて頬を伝った。
歌を失わずに済んだ、私が暮らす水場を与えてくれた、迷うことなく迎えてくれた。
本当に、私の運命の王子様だ。
人魚姫は、水虎を抱いて海に飛び込んだ。
多摩川を上り、八王子か高尾から水脈を辿る。
人魚姫が水脈を通れなくても、そこまで行けば顔馴染みの甲州商人が誰かしら通るだろうから、その大八車にでも乗っていこう。
そうと決めて、水虎は人魚姫を甲斐へと連れて行った。
「王子様が水虎ちゃんで良かったね」
「単なる一目惚れと思ったが、人魚姫の目に狂いはなかったな」
コンコとリュウが家路を目指して振り返ると、そこには黒山の人だかり。
こんな遅くに、どうしたのか。
艀潰しの犯人が、人魚姫だと気付かれたのか。
よくも逃したと囲まれるのか。
これは不味い、ふたりに緊張が走った。
しかし殺伐とした雰囲気は微塵もなく、みんな不思議そうに首を傾げている。
「歌を歌ったのは、坊っちゃんか?」
「ちちち違うよ、僕じゃないよ」
「そうか、あんまり綺麗な声だったから、思わず家を飛び出してきたが……」
「いいから何か歌え!」
野次馬の煽りに負けたコンコが、直立不動で歌を歌いだした。
「わがひのもーとはしまぐによー
あーさひかがよううーみーにー」
「何だそれ?」
「わかんない、急に思いついた」
船首像が誘われる歌なら、人が集まるのも当然だろう。
人魚姫が甲斐のどこに落ち着くのかは知らないが、彼女が暮らす湖は人が集まる場所になるかも知れない。
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