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春風楼③
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襖を開けたが誰もおらず、数々の豪華な調度品が虚しく整列している。
部屋の主を探すようにキョロキョロしながら「お茶をお持ちしました」と言うと、かすかな声で「どうぞ」と聞こえてきた。
声がした方の障子を開けると、ふかふかで艶々とした布団に美女が寝そべっていた。切れ長の目、スッと通った鼻筋、小さくふっくらした唇、大きく開けられた胸元、透き通るような白い肌。絶世の美女とは、こういう女を言うのだろう。
「結お姐様、はじめまして。お紺と申します」
「お紺ちゃん、顔を上げて」
改めて結を目にして、触れること、近づくことさえ憚られるほどの美女だと思った。これまでに会った遊女たちも、それぞれに美しく魅力的ではあったが、結は明らかに異質の美しさだ。春風楼に来てすぐ花魁になったというのがうなずける。
「私、あなたのことを知っているのよ」
「どこかでお会いしましたか?」
東京から来たというから、延遼館に行ったときだろうか。
「横浜中の噂よ、知らない者はいないわ」
知らない者がいないとは? それほどに名前が売れたのだろうか。
ひとつの考えに至ると鳥肌が立って、身震いが抑えられなくなった。
「お連れ様は、襖の向こうにいらっしゃるの?」
その瞬間、結の背中から無数の糸が四方八方に飛び出した。
かすかなうめき声を聞きリュウが部屋へと飛び込むと、想像を絶する光景が広がっていた。
部屋いっぱいに張られた白い糸、その左右にはゲッソリやつれた若旦那と西洋人が磔刑のように吊るされていた。
その中央で結は、4本ずつ生えた手足を使い糸をがっしり掴んでほくそ笑んでいる。
「女郎蜘蛛……?」
『おお! 私を知っておるのか。しかし私もお前たちを知っておる。店に来たときから見ておったぞ!』
真っ黒な目を見開くと、繭玉のように縛られたコンコをこれ見よがしに突き出した。
「リュ!! ……」
女郎蜘蛛が尻から糸を吐き出すと、あっという間にコンコの口を塞いでしまった。
『知っておる、知っておるぞ! 稲荷狐が祝詞を唱えねば、お前の刀はなまくらじゃ』
女郎蜘蛛の言うとおりである。嘲笑を恨めしく睨むことしかできず、構えていた刀を降ろした。
「貴様、何故3人を捕らえる! 今すぐ離せ!」
すると女郎蜘蛛は、指を伸ばし爪を使ってぷつぷつと糸を切り、男ふたりだけを解放した。真っ青な顔で突っ伏して、動くことができないほどに衰弱している。
『こいつらは用済みじゃ。精気を吸い取ろうにも図体ばかり、ちっとも役に立たぬ。しかし……』
女郎蜘蛛はリュウに目を向け、ニヤリと笑って舌舐めずりをした。
『お前は、いい男じゃのう……涼しげな目元も、よく鍛えた身体も、私の好みじゃ。私の元に来るがよい』
「そうすれば、コンコを離すか」
捕らわれのコンコが首を横に振ると、女郎蜘蛛が繭糸をきつく締め上げた。猿ぐつわの隙間から吹いた泡が漏れ出ている。
『稲荷狐を離したら、どうなるかも知っておる。お前らは仲睦まじいのう、まるで夫婦じゃ!!』
女郎蜘蛛の目玉が、嫉妬の炎で赤く染まった。長く鋭い牙を剥き、コンコの首に押し当てた。
恐怖に震えて涙するコンコの姿を見せつけられて、リュウはついに屈服して刀を仕舞った。
「わかった! コンコと一緒ならば構わぬ」
女郎蜘蛛は満足そうに笑うと糸を吐き、リュウの腰に巻いてゆっくりと引き寄せた。
『稲荷狐よ、私が精気を吸い取るところを、お前にたっぷり見せてやる。ひとりで愉しむがよい』
リュウが女郎蜘蛛の元までやってくると、最後の頼みを言ってきた。
「コンコの顔を、そばで見たいのだ。よいか」
女郎蜘蛛は目玉を赤黒く燃え上がらせたが、純粋で真っ直ぐなリュウの眼差しに観念した。
『これが最後じゃ、よかろう』
リュウを真正面に見据えたコンコは、見慣れた顔に安心し、これで最後かと悲しんで、瞳を潤ませて微笑んだ。
コンコの悲壮なる微笑にリュウは、綿毛のように柔らかい微笑みを返し、両手で頬をそっと撫でていた。
リュウが唐突にコンコの唇を奪った。
糸で出来た猿ぐつわの隙間を縫って、リュウの舌がコンコの口へと入ってくる。
コンコは真っ赤になって目を回したが、入ってきた舌が鞭打つように激しく蠢いて、見開かれた目にはもう何も映らない。
次の瞬間、コンコの猿ぐつわをリュウが噛み千切った。
高天原に神留り坐す 皇親神漏岐神漏美の命…!!
コンコが祝詞を唱えると、リュウがスラリと刀を抜いて、女郎蜘蛛の胸元めがけて突き立てた。
四方八方に張り巡らされた蜘蛛の糸も、コンコを縛っていた繭玉も、そして女郎蜘蛛までもが音を立てて蒸発し、霞がかった部屋の中には小さな蜘蛛が這っていた。
蜘蛛に壺を被せると、観念したと言わんばかりに奥へ奥へと登っていった。
捕らわれていた若旦那と西洋人が見つかった、そう下階に向けて声を上げた。お鶴が持っていた気付け薬をふたりに飲ませ、番頭と用心棒にその後を託した。
封印が済んで我に返ったコンコは、虚ろな顔をしてポーッと座ったままである。
すべてが終わり下まで降りると、主人が無理を押して挨拶にやってきた。
「今はリュウさんと言ったか、あのときは申し訳なかったね。なまくらでもいい、あなたの腕ならまた雇いたいんだけど、どうだい?」
せっかくの主人の申し出であったが、リュウは深々と頭を下げた。
「申し訳ない、これが今の俺の務めです」
コンコはというと頬に手を当て、虚空を見つめたままだった。リュウが労いを込めて頭を撫でると、狐耳がくすぐったくて肩をすくめて笑いを上げた。
残念そうにする遊女たちに見送られ、春風楼を後にした。
「この足で高島に報告するか。なぁ、コンコ」
「えっ!? あ、うん、そ、そうだね!」
「おい、高島の家はこの上だぞ」
コンコは夢の中をふわふわ漂っているようで、明らかに様子がおかしい。もちろん、その原因も明らかだ。
「勘違いするなよ! 猿ぐつわを切るために……」
コンコは瞳を潤ませ、唇にそっと触れていた。何を言っても右から左なのだろう、言い訳するのを諦めて高島山を登っていった。
「コンコ! そっちじゃない! こっちだ!!」
部屋の主を探すようにキョロキョロしながら「お茶をお持ちしました」と言うと、かすかな声で「どうぞ」と聞こえてきた。
声がした方の障子を開けると、ふかふかで艶々とした布団に美女が寝そべっていた。切れ長の目、スッと通った鼻筋、小さくふっくらした唇、大きく開けられた胸元、透き通るような白い肌。絶世の美女とは、こういう女を言うのだろう。
「結お姐様、はじめまして。お紺と申します」
「お紺ちゃん、顔を上げて」
改めて結を目にして、触れること、近づくことさえ憚られるほどの美女だと思った。これまでに会った遊女たちも、それぞれに美しく魅力的ではあったが、結は明らかに異質の美しさだ。春風楼に来てすぐ花魁になったというのがうなずける。
「私、あなたのことを知っているのよ」
「どこかでお会いしましたか?」
東京から来たというから、延遼館に行ったときだろうか。
「横浜中の噂よ、知らない者はいないわ」
知らない者がいないとは? それほどに名前が売れたのだろうか。
ひとつの考えに至ると鳥肌が立って、身震いが抑えられなくなった。
「お連れ様は、襖の向こうにいらっしゃるの?」
その瞬間、結の背中から無数の糸が四方八方に飛び出した。
かすかなうめき声を聞きリュウが部屋へと飛び込むと、想像を絶する光景が広がっていた。
部屋いっぱいに張られた白い糸、その左右にはゲッソリやつれた若旦那と西洋人が磔刑のように吊るされていた。
その中央で結は、4本ずつ生えた手足を使い糸をがっしり掴んでほくそ笑んでいる。
「女郎蜘蛛……?」
『おお! 私を知っておるのか。しかし私もお前たちを知っておる。店に来たときから見ておったぞ!』
真っ黒な目を見開くと、繭玉のように縛られたコンコをこれ見よがしに突き出した。
「リュ!! ……」
女郎蜘蛛が尻から糸を吐き出すと、あっという間にコンコの口を塞いでしまった。
『知っておる、知っておるぞ! 稲荷狐が祝詞を唱えねば、お前の刀はなまくらじゃ』
女郎蜘蛛の言うとおりである。嘲笑を恨めしく睨むことしかできず、構えていた刀を降ろした。
「貴様、何故3人を捕らえる! 今すぐ離せ!」
すると女郎蜘蛛は、指を伸ばし爪を使ってぷつぷつと糸を切り、男ふたりだけを解放した。真っ青な顔で突っ伏して、動くことができないほどに衰弱している。
『こいつらは用済みじゃ。精気を吸い取ろうにも図体ばかり、ちっとも役に立たぬ。しかし……』
女郎蜘蛛はリュウに目を向け、ニヤリと笑って舌舐めずりをした。
『お前は、いい男じゃのう……涼しげな目元も、よく鍛えた身体も、私の好みじゃ。私の元に来るがよい』
「そうすれば、コンコを離すか」
捕らわれのコンコが首を横に振ると、女郎蜘蛛が繭糸をきつく締め上げた。猿ぐつわの隙間から吹いた泡が漏れ出ている。
『稲荷狐を離したら、どうなるかも知っておる。お前らは仲睦まじいのう、まるで夫婦じゃ!!』
女郎蜘蛛の目玉が、嫉妬の炎で赤く染まった。長く鋭い牙を剥き、コンコの首に押し当てた。
恐怖に震えて涙するコンコの姿を見せつけられて、リュウはついに屈服して刀を仕舞った。
「わかった! コンコと一緒ならば構わぬ」
女郎蜘蛛は満足そうに笑うと糸を吐き、リュウの腰に巻いてゆっくりと引き寄せた。
『稲荷狐よ、私が精気を吸い取るところを、お前にたっぷり見せてやる。ひとりで愉しむがよい』
リュウが女郎蜘蛛の元までやってくると、最後の頼みを言ってきた。
「コンコの顔を、そばで見たいのだ。よいか」
女郎蜘蛛は目玉を赤黒く燃え上がらせたが、純粋で真っ直ぐなリュウの眼差しに観念した。
『これが最後じゃ、よかろう』
リュウを真正面に見据えたコンコは、見慣れた顔に安心し、これで最後かと悲しんで、瞳を潤ませて微笑んだ。
コンコの悲壮なる微笑にリュウは、綿毛のように柔らかい微笑みを返し、両手で頬をそっと撫でていた。
リュウが唐突にコンコの唇を奪った。
糸で出来た猿ぐつわの隙間を縫って、リュウの舌がコンコの口へと入ってくる。
コンコは真っ赤になって目を回したが、入ってきた舌が鞭打つように激しく蠢いて、見開かれた目にはもう何も映らない。
次の瞬間、コンコの猿ぐつわをリュウが噛み千切った。
高天原に神留り坐す 皇親神漏岐神漏美の命…!!
コンコが祝詞を唱えると、リュウがスラリと刀を抜いて、女郎蜘蛛の胸元めがけて突き立てた。
四方八方に張り巡らされた蜘蛛の糸も、コンコを縛っていた繭玉も、そして女郎蜘蛛までもが音を立てて蒸発し、霞がかった部屋の中には小さな蜘蛛が這っていた。
蜘蛛に壺を被せると、観念したと言わんばかりに奥へ奥へと登っていった。
捕らわれていた若旦那と西洋人が見つかった、そう下階に向けて声を上げた。お鶴が持っていた気付け薬をふたりに飲ませ、番頭と用心棒にその後を託した。
封印が済んで我に返ったコンコは、虚ろな顔をしてポーッと座ったままである。
すべてが終わり下まで降りると、主人が無理を押して挨拶にやってきた。
「今はリュウさんと言ったか、あのときは申し訳なかったね。なまくらでもいい、あなたの腕ならまた雇いたいんだけど、どうだい?」
せっかくの主人の申し出であったが、リュウは深々と頭を下げた。
「申し訳ない、これが今の俺の務めです」
コンコはというと頬に手を当て、虚空を見つめたままだった。リュウが労いを込めて頭を撫でると、狐耳がくすぐったくて肩をすくめて笑いを上げた。
残念そうにする遊女たちに見送られ、春風楼を後にした。
「この足で高島に報告するか。なぁ、コンコ」
「えっ!? あ、うん、そ、そうだね!」
「おい、高島の家はこの上だぞ」
コンコは夢の中をふわふわ漂っているようで、明らかに様子がおかしい。もちろん、その原因も明らかだ。
「勘違いするなよ! 猿ぐつわを切るために……」
コンコは瞳を潤ませ、唇にそっと触れていた。何を言っても右から左なのだろう、言い訳するのを諦めて高島山を登っていった。
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