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第七章
2.扉は開かれる
しおりを挟む「あの……頭を撫でてもいいですか?」
ためらいがちに尋ねると彼は肩をすくめて「好きにしろ」と呟いた。
「まだ昼間だし、無理に眠らなくてもいいと思うのだけど……」
そっと彼の髪に手を置いて、その流れに沿って掌を滑らせる。場末の宿屋には似つかわしくないさらさらと手触りのいい質感だった。
「夜通し起きていたんだ。そろそろ眠らせろ」
「一晩中……自然に眠くなってもよさそうなのに。何か気になることでも?」
「お前……家族は?」
こちらからの質問には答えずに、彼は目を閉じたまま返してきた。
「家族は、もう……いないわ」
母は幼い頃に、そして両親や姉弟も戦争で命を落としたと聞き伝えられている。
「それは羨ましいな」
少しだけ男が笑ったように見えた。
「家族なんか煩わしいだけだ。勝手に期待して、失望して。結局一人の方が楽だ」
そうでなければこんな所に来ない、と彼は付け加えた。
どうやら複雑な家庭環境らしい。
母はともかく、姉や継母に虐げられてきた経験を持つアルエットは少しだけ彼の気持ちがわかる気がした。血のつながりがあろうがなかろうが、そこに愛がなければ家族という形は簡単に歪み崩れる。
「我慢しないことも大事だわ」
「ただ逃げただけだ」
「でも、私は逃げることもせずにつらい時間を過ごしたから。何か行動に移すってすごく勇気がいることだと思うの」
「……お前と話していると調子が狂う。さっさと子守唄とやらを歌え」
男は呆れたようにため息をついた。
「あっ、ごめんなさい」
アルエットは小さく咳払いすると息を吸い込んで優しい声色で歌い出した。
「かわいい、かわいい、私の王子様。薔薇も小鳥も月のゆりかごの中」
「聞いたことがない」
ぼそっと男が呟く。
「母が歌ってくれた子守唄なの……女の子にはお姫様、男の子には王子様って歌うの」
おそらく母親の祖国の歌なのだろう。乳母も知らないと言っていた。
「ねむれ、ねむれ、私の王子様。幸せに包まれて、愛に満ちて、また明日会いましょう」
ゆっくりと抑揚をつけて、静かに空気を震わせてアルエットは歌い続ける。
「泣かないで、心配しないで、私がそばにいるから。大好きな私の王子様」
気持ちが落ち着くようにそっと男の頭を撫でながら、アルエットは同じフレーズを繰り返した。何度か歌ったところで男の手がアルエットの手を掴み、寝ていないのかと思ったが、肩の力が心なしか抜けたように感じた。
「……大好きな、私の、王子様……」
ゆっくりと言葉を切ると、男からは催促の言葉も文句もなかった。聞こえてくるのは静かな寝息だけ。
(眠ってくれた)
アルエットはホッと胸をなでおろした。
少しだけ待って、完全にこの男が深い眠りに落ちたら部屋を出ようと思ったのだが、難しい点が二つあった。
一つは彼がアルエットの手を握っていること、もう一つは膝の上に頭を乗せて寝ていること。ゆっくり動けば気づかれずに移動できるだろうか。
片手ではうまく服のボタンも嵌められなくて、仕方なく彼女は時間が経つのを待つことにした。寝返りを打ってくれれば体がずれるかもしれないと期待しながら。
ところが、いくら待っても状況は変わらなかった。こうしている間にもミレイユは危険な目に遭っているかもしれないのに。
(焦っても仕方ないけど……)
アルエットは諦めて、男が少しでも体をずらしくれるのを待ち続けた。
目を閉じると、自然と体が重く感じて微睡みに落ちそうになる。寝てはいけないと思いつつ、かくりかくりと頭を揺らしていると階下で物音がした、気がした。
足音が二階へ上がってくる。店主だろうか、それとも客だろうか。硬質な靴音は真っ直ぐこちらに向かってくるようだ。
「……なんで、ここにいるのが……」
眠っていたはずの男が気怠そうに呟いた。足音で目が覚めたのだろう。
彼に声をかける前に、部屋の扉が思いきり開いた。鍵がかかっていたはずだが、勢いでどこかに弾き飛んでいった。
「フェザン!」
「兄上」
扉を蹴破った冷徹な瞳の持ち主に対して、部屋にいた二人が同時に声を上げた。
「え?」
アルエットが目を丸くすると同時に、男が素早く起き上がって彼女とフェザンを見比べた。
「ナルヴィク――」
フェザンは腰に携えていた長剣を抜こうとしたが、部屋の狭さに舌打ちして大股で中に入ってくるとナルヴィクを見下ろす。
その威圧感たるや、アルエットでも息を呑むほど背筋が冷たくなったほどだった。
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