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第二章

1.できること

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 アルエットが息を切らしながら迷路のような公園に行くと、件の本はあった。

 それも、昨日の青年の手の中に。



「あっ、その本――」



「ここに忘れていっただろう」



 長い足を組んでベンチに座っていた青年は、アルエットを見ると片手で本を掲げてみせた。黒い上着の襟には金糸の刺繍がほどこされ、クラヴァットタイには純銀とアメジストでできたピンがついている。



 昨日とは別の黒の外套は、裏地に紺色のベルベットの生地があしらわれた上質なものだ。変わらないのは右目に着けている眼帯だけ。



「ここで待っていれば取りにくるだろうと思った」



 図書館のラベルが貼ってあるのだから、すぐそこへ届けることもできたはずだ。それなのに青年はアルエットを待っていてくれた。その事実が自然と彼女の頬を色づかせた。



「ありがとうございます」



 長い間アルエットはこうして人と対等に話す機会がなかった。たとえ青年が社交辞令で親切にしてくれているのだとしても、嫌な顔一つせず声をかけてくれたことが嬉しくて、思わず涙がこぼれた。



「どうした?」



 青年が眉をひそめる。



「ご、ごめんなさい。こんなに優しくしてもらったの何年振りで……」



 また泣いたら今度こそ避けられてしまう。アルエットはあわててドレスの袖で涙をぬぐった。



「ここに座るといい」



 突然泣き出したアルエットに動じる様子もなく、青年は自分の隣の空いているベンチをとんとんと指先で叩いた。



「でも……」



「急ぐ用事があるならかまわないが」



「い、いえ。用事なんてありません!」



 アルエットは大きくかぶりを振ると、おずおずと彼の隣に腰かけた。



「髪を結ぶとそんな感じなのだな。よく似合っている」



 今日は外れないようにきつく結んできたリボンに早速青年が気づいてくれたのだが、アルエットは昨日泣き顔を見られたことを思い出してしまい、嬉しいというより、いたたまれない気持ちになる。



「こうしていないと姉に叱られるんです」



 ため息とともにアルエットは答える。



「なぜ?」



 青年が首をかしげると、さらりと絹糸のような前髪が揺れた。



「家族の中で私だけなんです、こんなひどい髪色は。みんな綺麗な金色なのに。だから、みっともないと言われて……」



 小さい頃は鋏で切られたこともあった。乳母がかばって止めさせてくれたものの、それがきっかけで乳母は城を追い出されてしまった。



「私なんて生まれてこない方がよかった……」



 個人的な話はしない方がいい。胸の奥でそう止める自分がいたが、黙っているとまた涙が溢れてしまいそうで、アルエットは心に深く積もった雪を振り払うように話し始めた。



 青年が静かに話を聞いてくれるのもあったし、まったく事情を知らない相手の方が話しやすかった。家族の中で自分だけが疎まれているということ、誰も味方がいないということ、これからの未来も自分で選ぶことはできないこと――



(きっとエグマリンへ帰ればもうこの人に会うこともないだろうから)



 国や家名を出さなければ、ただのみじめな令嬢の愚痴だと思って聞き流してくれるだろう。



 早くても春を過ぎるまで帰ることは許されていないことなどを滔々と話してしまってから、こんな暗い話をして青年が不快な気分になっていないか不安になった。



「申し訳ありません。こんな話をされても困りますよね」



「……詮索はルール違反だが、君が話したいなら別だ。聞くだけならできる」



 青年にそう言ってもらえてアルエットはホッとした。



「それで君はもう三か月もここへいるのか」



「はい。あなたはいつ頃ここへ?」



 聞いてから、アルエットはハッと口に手を当てた。



「すみません。詮索はしない約束でしたね」



 静かに聞いてくれるので、つい気安く尋ねてしまった。



「……かまわない。君が話してくれたのだから俺も少し話をしようか」



 青年はそう言って手を上げると、右目の眼帯を外してみせた。



 一瞬、暗い眼窩を想像して身構えてしまったが、予想に反してそこには左目と変わらない艶のある瑠璃色の瞳があった。ただ、その周囲の皮膚には爛れた痕が残っている。



「半年前に病気でこちらの視力を完全に失ってしまった。煩わしいので眼帯で塞いでいるが、なくても同じだ。光はかろうじて感じられるが、まったく醜くてかなわない」



 わずかに顔を歪める彼はとても悔しそうだった。眉間に深い皺が寄り、地面を睨みつけている。



「醜くなんて……ありません。病と闘った立派な証です」



 少なくとも眼帯で隠すほどの物ではないだろうと思ったが、それはアルエットの私見であり、青年が隠したいのなら口をはさむことではない。



「はじめはもっと赤く腫れあがって高熱も出たし、今でも……こうして頭が割れるような痛みが出ることがある」



 青年は顔を歪め、右目から額に手を当て髪の毛をぐしゃりと掴んだ。



「治らないのですか?」



「どんな薬を試してもだめだった。視力も痛みも……」



「それで、療養のためにここへ来たんですか?」



「……まあ、そんなところだ」



 青年は左目を瞑り、深く息をつきながら右手を下ろした。



「あの、失礼かもしれませんが……少しだけ触ってもよろしいですか?」



 アルエットはそう言いながら彼の頭に恐る恐る手を伸ばした。先ほどまで彼が触れていた場所に。



 嫌がられるのではないかと心がぎゅっと苦しくなり、指先が震える。



「私だけかもしれませんが、小さい頃、具合が悪くて薬を飲んでも熱が下がらなかった時、母がこうして手を当ててくれたんです。そうしたらずっと楽になって……」



 風で冷たくなった滑らかな黒髪を指で梳いて、彼の額に掌をそっと押し当てた。掌が眼帯の一部に触れる。



「自分でやっても変わらないんです。誰かにしてもらうと違うんです」



 何も咎められていないのに、言い訳のようにアルエットは慌てて伝えた。



 医者でもないアルエットに彼の病気を治すことは不可能だ。だが親切にしてくれた青年に何かお返しがしたくて、思いついたのがこれくらいしかなかった。
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