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第一章

1.震える星影

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「もう一曲踊りますか、アルエット王女殿下?」



 大広間の煌びやかな照明の下で王宮楽団の演奏が一段落し、従兄弟である侯爵令息がアルエット・リュシュ・サリアンに問いかけた。



「いいえ。お気遣いありがとうございます」



 アルエットが首を横に振って彼から手を離すと、従兄弟は面倒事から解放されたとでもいうようにあからさまに安堵の表情を浮かべ、恭しく一礼して立ち去る。
 彼の後ろ姿を見ていると、すぐに他の令嬢が現れ、二人はワルツの曲が始まるとともに笑顔で華やかな人々の輪に溶け込んでいった。



(いつまでこんな日々が続くの……?)



 目を伏せ、眩しい光に包まれた大広間に背を向けると、扉を開けて足早に大理石のバルコニーへ出る。その途端、全身の皮膚が総毛立った。真冬の澄み切った空気は、ダンスで軽く汗ばんだ体には冷たすぎる。



 三日月の冴え冴えとした青白い光が、アルエットのくすんだ金の髪に落ちる。後ろで一つにくくっただけで一粒の宝石も乗せていない頭に。

 母親が生きていた頃は毎日丁寧に櫛削られ、陽にあたると桃色に透けて見える美しい色をしていたが、もう彼女に温かい手を伸ばしてくれる人はいない。



 身にまとっているドレスは母親がかつて着ていたもので、当然数十年も流行の遅れたデザインの上、レースや刺繍、宝石などの装飾は一切外されていた。
 地味な装いのため、壁際に身を寄せていると誰かの侍女だと間違えられることも今までに何度かある。



 舞踏会の主催者であるエグマリン国王の次女であるにもかかわらず、アルエットは孤立していた。



 ――早く舞踏会が終わればいいのに。



 白い息を吐きながら無数の震える星影が瞬く空を見上げていると、背後で人の気配がした。



「誰かと思えば、アルエット王女殿下ではありませんか?」



 声をかけられて振り返れば、にこやかに微笑むジュストコール姿の青年が立っている。とび色のくせ毛は背中までの長さがあり、うなじの辺りで結んでいた。



「やはり、王女殿下だ。ダンスはもうおしまいなのですか?」



 大広間では別の曲が始まっていて、楽しそうにくるくるとドレスの裾を翻しながら踊る貴族達の姿が見える。



「はい、少し疲れました。姉は一緒ではないのですか、ジェルマン様?」



 その声音は無意識に硬くなっていた。アルエットは姉の派手なドレスの色を探そうと大広間に向けて目を眇めた。



「デルフィーヌなら、隣の談話室で友人たちと世間話に花を咲かせているようです」



 少し困ったように肩をすくめたジェルマンは、大広間の続き間の方向へ視線を投げる。



 国王と王妃の間に生まれた第一王女デルフィーヌは、輝くブロンドにサファイアのような瞳、薔薇のような唇で、優れた容姿を持っていた。さらには溢れる自信で人々を惹きつけている。

 ドレスもアクセサリーもすべてが贅を尽くした一品で、彼女が欲しいと言えば手に入れられないものは何もないのではないかとアルエットは思っていた。



 今アルエットの目の前に立っている青年もデルフィーヌが望んだ婚約者で、公爵家の嫡男だ。

 王宮で文官として働いており、結婚後は親の後を継いで広大な領地の管理することが決まっている。

 整った顔立ちに女性心をくすぐる甘い声、柔らかな物腰、欠点の一つもない――と言いたいところだが、残念な点が一つだけあった。



「それよりも、いつも一人でいるあなたの方が気になるのです」



 そう言って、舐めるようなねっとりとした視線をアルエットの頭の先からつま先に向けてくる。

 彼女は寒気を覚えて、自身の二の腕をぎゅっと掴んだ。



 ジェルマンはデルフィーヌのいない時を狙って、毎回アルエットに近づいてくるのだ。



「震えていますね。そろそろ中に入った方がいいのでは? それとも私が温めて差し上げた方がよろしいですか?」



 微笑を湛えたままアルエットの華奢な肩に手を回し、身を引き寄せようとしてくるのを後ろによけて拒む。背中に当たった石壁の冷たさにかすかに顔が歪んだ。



「お、お願いですから私のことは放っておいてください。独りでいるのが好きなのです」



 ジェルマンから目を逸らして、こわばった声を懸命に絞り出す。



「そんなに怯えた顔をして……。私を煽るのがお上手だ」



 機嫌の良さそうな笑みを浮かべ、ジェルマンはまた近づいてきた。

 これ以上、二人きりでいるわけにはいかない。



「失礼いたします!」



 振り切るように足を踏み出すと、大急ぎで大広間を突っ切った。後をついて来る者は誰もいない。侍女もいないので、たった一人で王宮の奥へ向かい、自室がある東の塔の最上階を目指す。



「……デルフィーヌお姉様に見られていなければいいけど」



 扉を閉めて、その場に座り込む。心臓が早鐘のように鳴っていて、息が苦しい。



「独りでいるのが好き、ですって……」



 自分の口から出た言葉に自嘲気味な笑みが生まれる。



 ――好きで独りになったわけじゃないのに。



 アルエットは、デルフィーヌと同じ王女でありながら、その待遇はまったく異なっていた。



 正妃はデルフィーヌを出産後、体調が優れず子がもてない身になってしまった。どうしてもサリアン王家の男子の世継ぎが欲しいと、国王が迎えた二番目の妃との間に設けられたのがアルエットだった。
 しかし第二王妃はアルエットが四歳の時に訪問先の隣国で馬車による事故で亡くなってしまった。



 結局三番目の妃との間に待望の男子が誕生し、アルエットは中途半端な存在になってしまった。

 修道院へ送られる話もあったが、戦果として王女を欲しがる貴族も少なくないということで、政略の駒として、いつ降嫁してもいいように王家の人間としての教育だけは受けさせられている。



 近年、周辺国との領土争いが絶えないことに加え、すぐ隣まで迫ってきているクライノート帝国の存在も最大限に警戒しなければならない状況だった。



 しかしそれを面白く思わないのが、正妃とその娘デルフィーヌだった。アルエットを不義の子と呼び、彼女の母親が亡くなってから、これ見よがしにひどい仕打ちをしてきた。



 朝起きるのが少しでも遅いと、罰として真っ暗な物置部屋に閉じ込めたり、ダンスのレッスンでステップを一つでも間違えれば太腿を何度も棒でたたいたり、あまりの痛みにアルエットは立てなくなる日もあった。



 侍女もつけさせてもらえず、身の回りのことも自分一人で行なわなくてはならない。はじめのうちは気の毒だと庇う者もいたが、彼女の味方をしていた乳母が問答無用で暇を出されてからアルエットの周りには誰も近づかなくなった。王妃とデルフィーヌに逆らえる者はいない。



 ジェルマンとてその噂を知らないはずはないのだが、しつこくアルエットに手を出してくる。悪いことに、どこからかそれが漏れるようで、その度にアルエットに落ち度があるとデルフィーヌに背中を鞭でたたかれるようになった。



「アルエット!」



 乱暴な靴音と、冷えた室内通路からびりびりと険悪な声が響いて、床に座り込んでいたアルエットはびくっと肩を震わせて扉の方を振り返った。
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