2 / 42
第一章
1.震える星影
しおりを挟む「もう一曲踊りますか、アルエット王女殿下?」
大広間の煌びやかな照明の下で王宮楽団の演奏が一段落し、従兄弟である侯爵令息がアルエット・リュシュ・サリアンに問いかけた。
「いいえ。お気遣いありがとうございます」
アルエットが首を横に振って彼から手を離すと、従兄弟は面倒事から解放されたとでもいうようにあからさまに安堵の表情を浮かべ、恭しく一礼して立ち去る。
彼の後ろ姿を見ていると、すぐに他の令嬢が現れ、二人はワルツの曲が始まるとともに笑顔で華やかな人々の輪に溶け込んでいった。
(いつまでこんな日々が続くの……?)
目を伏せ、眩しい光に包まれた大広間に背を向けると、扉を開けて足早に大理石のバルコニーへ出る。その途端、全身の皮膚が総毛立った。真冬の澄み切った空気は、ダンスで軽く汗ばんだ体には冷たすぎる。
三日月の冴え冴えとした青白い光が、アルエットのくすんだ金の髪に落ちる。後ろで一つにくくっただけで一粒の宝石も乗せていない頭に。
母親が生きていた頃は毎日丁寧に櫛削られ、陽にあたると桃色に透けて見える美しい色をしていたが、もう彼女に温かい手を伸ばしてくれる人はいない。
身にまとっているドレスは母親がかつて着ていたもので、当然数十年も流行の遅れたデザインの上、レースや刺繍、宝石などの装飾は一切外されていた。
地味な装いのため、壁際に身を寄せていると誰かの侍女だと間違えられることも今までに何度かある。
舞踏会の主催者であるエグマリン国王の次女であるにもかかわらず、アルエットは孤立していた。
――早く舞踏会が終わればいいのに。
白い息を吐きながら無数の震える星影が瞬く空を見上げていると、背後で人の気配がした。
「誰かと思えば、アルエット王女殿下ではありませんか?」
声をかけられて振り返れば、にこやかに微笑むジュストコール姿の青年が立っている。とび色のくせ毛は背中までの長さがあり、うなじの辺りで結んでいた。
「やはり、王女殿下だ。ダンスはもうおしまいなのですか?」
大広間では別の曲が始まっていて、楽しそうにくるくるとドレスの裾を翻しながら踊る貴族達の姿が見える。
「はい、少し疲れました。姉は一緒ではないのですか、ジェルマン様?」
その声音は無意識に硬くなっていた。アルエットは姉の派手なドレスの色を探そうと大広間に向けて目を眇めた。
「デルフィーヌなら、隣の談話室で友人たちと世間話に花を咲かせているようです」
少し困ったように肩をすくめたジェルマンは、大広間の続き間の方向へ視線を投げる。
国王と王妃の間に生まれた第一王女デルフィーヌは、輝くブロンドにサファイアのような瞳、薔薇のような唇で、優れた容姿を持っていた。さらには溢れる自信で人々を惹きつけている。
ドレスもアクセサリーもすべてが贅を尽くした一品で、彼女が欲しいと言えば手に入れられないものは何もないのではないかとアルエットは思っていた。
今アルエットの目の前に立っている青年もデルフィーヌが望んだ婚約者で、公爵家の嫡男だ。
王宮で文官として働いており、結婚後は親の後を継いで広大な領地の管理することが決まっている。
整った顔立ちに女性心をくすぐる甘い声、柔らかな物腰、欠点の一つもない――と言いたいところだが、残念な点が一つだけあった。
「それよりも、いつも一人でいるあなたの方が気になるのです」
そう言って、舐めるようなねっとりとした視線をアルエットの頭の先からつま先に向けてくる。
彼女は寒気を覚えて、自身の二の腕をぎゅっと掴んだ。
ジェルマンはデルフィーヌのいない時を狙って、毎回アルエットに近づいてくるのだ。
「震えていますね。そろそろ中に入った方がいいのでは? それとも私が温めて差し上げた方がよろしいですか?」
微笑を湛えたままアルエットの華奢な肩に手を回し、身を引き寄せようとしてくるのを後ろによけて拒む。背中に当たった石壁の冷たさにかすかに顔が歪んだ。
「お、お願いですから私のことは放っておいてください。独りでいるのが好きなのです」
ジェルマンから目を逸らして、こわばった声を懸命に絞り出す。
「そんなに怯えた顔をして……。私を煽るのがお上手だ」
機嫌の良さそうな笑みを浮かべ、ジェルマンはまた近づいてきた。
これ以上、二人きりでいるわけにはいかない。
「失礼いたします!」
振り切るように足を踏み出すと、大急ぎで大広間を突っ切った。後をついて来る者は誰もいない。侍女もいないので、たった一人で王宮の奥へ向かい、自室がある東の塔の最上階を目指す。
「……デルフィーヌお姉様に見られていなければいいけど」
扉を閉めて、その場に座り込む。心臓が早鐘のように鳴っていて、息が苦しい。
「独りでいるのが好き、ですって……」
自分の口から出た言葉に自嘲気味な笑みが生まれる。
――好きで独りになったわけじゃないのに。
アルエットは、デルフィーヌと同じ王女でありながら、その待遇はまったく異なっていた。
正妃はデルフィーヌを出産後、体調が優れず子がもてない身になってしまった。どうしてもサリアン王家の男子の世継ぎが欲しいと、国王が迎えた二番目の妃との間に設けられたのがアルエットだった。
しかし第二王妃はアルエットが四歳の時に訪問先の隣国で馬車による事故で亡くなってしまった。
結局三番目の妃との間に待望の男子が誕生し、アルエットは中途半端な存在になってしまった。
修道院へ送られる話もあったが、戦果として王女を欲しがる貴族も少なくないということで、政略の駒として、いつ降嫁してもいいように王家の人間としての教育だけは受けさせられている。
近年、周辺国との領土争いが絶えないことに加え、すぐ隣まで迫ってきているクライノート帝国の存在も最大限に警戒しなければならない状況だった。
しかしそれを面白く思わないのが、正妃とその娘デルフィーヌだった。アルエットを不義の子と呼び、彼女の母親が亡くなってから、これ見よがしにひどい仕打ちをしてきた。
朝起きるのが少しでも遅いと、罰として真っ暗な物置部屋に閉じ込めたり、ダンスのレッスンでステップを一つでも間違えれば太腿を何度も棒でたたいたり、あまりの痛みにアルエットは立てなくなる日もあった。
侍女もつけさせてもらえず、身の回りのことも自分一人で行なわなくてはならない。はじめのうちは気の毒だと庇う者もいたが、彼女の味方をしていた乳母が問答無用で暇を出されてからアルエットの周りには誰も近づかなくなった。王妃とデルフィーヌに逆らえる者はいない。
ジェルマンとてその噂を知らないはずはないのだが、しつこくアルエットに手を出してくる。悪いことに、どこからかそれが漏れるようで、その度にアルエットに落ち度があるとデルフィーヌに背中を鞭でたたかれるようになった。
「アルエット!」
乱暴な靴音と、冷えた室内通路からびりびりと険悪な声が響いて、床に座り込んでいたアルエットはびくっと肩を震わせて扉の方を振り返った。
0
お気に入りに追加
473
あなたにおすすめの小説
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
逃げて、追われて、捕まって
あみにあ
恋愛
平民に生まれた私には、なぜか生まれる前の記憶があった。
この世界で王妃として生きてきた記憶。
過去の私は貴族社会の頂点に立ち、さながら悪役令嬢のような存在だった。
人を蹴落とし、気に食わない女を断罪し、今思えばひどい令嬢だったと思うわ。
だから今度は平民としての幸せをつかみたい、そう願っていたはずなのに、一体全体どうしてこんな事になってしまたのかしら……。
2020年1月5日より 番外編:続編随時アップ
2020年1月28日より 続編となります第二章スタートです。
**********お知らせ***********
2020年 1月末 レジーナブックス 様より書籍化します。
それに伴い短編で掲載している以外の話をレンタルと致します。
ご理解ご了承の程、宜しくお願い致します。
黒の神官と夜のお世話役
苺野 あん
恋愛
辺境の神殿で雑用係として慎ましく暮らしていたアンジェリアは、王都からやって来る上級神官の夜のお世話役に任命されてしまう。それも黒の神官という異名を持ち、様々な悪い噂に包まれた恐ろしい相手だ。ところが実際に現れたのは、アンジェリアの想像とは違っていて……。※完結しました
【完結】冷酷眼鏡とウワサされる副騎士団長様が、一直線に溺愛してきますっ!
楠結衣
恋愛
触ると人の心の声が聞こえてしまう聖女リリアンは、冷酷と噂の副騎士団長のアルバート様に触ってしまう。
(リリアン嬢、かわいい……。耳も小さくて、かわいい。リリアン嬢の耳、舐めたら甘そうだな……いや寧ろ齧りたい……)
遠くで見かけるだけだったアルバート様の思わぬ声にリリアンは激しく動揺してしまう。きっと聞き間違えだったと結論付けた筈が、聖女の試験で必須な魔物についてアルバート様から勉強を教わることに──!
(かわいい、好きです、愛してます)
(誰にも見せたくない。執務室から出さなくてもいいですよね?)
二人きりの勉強会。アルバート様に触らないように気をつけているのに、リリアンのうっかりで毎回触れられてしまう。甘すぎる声にリリアンのドキドキが止まらない!
ところが、ある日、リリアンはアルバート様の声にうっかり反応してしまう。
(まさか。もしかして、心の声が聞こえている?)
リリアンの秘密を知ったアルバート様はどうなる?
二人の恋の結末はどうなっちゃうの?!
心の声が聞こえる聖女リリアンと変態あまあまな声がダダ漏れなアルバート様の、甘すぎるハッピーエンドラブストーリー。
✳︎表紙イラストは、さらさらしるな。様の作品です。
✳︎小説家になろうにも投稿しています♪
若社長な旦那様は欲望に正直~新妻が可愛すぎて仕事が手につかない~
雪宮凛
恋愛
「来週からしばらく、在宅ワークをすることになった」
夕食時、突如告げられた夫の言葉に驚く静香。だけど、大好きな旦那様のために、少しでも良い仕事環境を整えようと奮闘する。
そんな健気な妻の姿を目の当たりにした夫の至は、仕事中にも関わらずムラムラしてしまい――。
全3話 ※タグにご注意ください/ムーンライトノベルズより転載
傲慢令嬢は、猫かぶりをやめてみた。お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの。
石河 翠
恋愛
高飛車で傲慢な令嬢として有名だった侯爵令嬢のダイアナは、婚約者から婚約を破棄される直前、階段から落ちて頭を打ち、記憶喪失になった上、体が不自由になってしまう。
そのまま修道院に身を寄せることになったダイアナだが、彼女はその暮らしを嬉々として受け入れる。妾の子であり、貴族暮らしに馴染めなかったダイアナには、修道院での暮らしこそ理想だったのだ。
新しい婚約者とうまくいかない元婚約者がダイアナに接触してくるが、彼女は突き放す。身勝手な言い分の元婚約者に対し、彼女は怒りを露にし……。
初恋のひとのために貴族教育を頑張っていたヒロインと、健気なヒロインを見守ってきたヒーローの恋物語。
ハッピーエンドです。
この作品は、別サイトにも投稿しております。
表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
貴妃エレーナ
無味無臭(不定期更新)
恋愛
「君は、私のことを恨んでいるか?」
後宮で暮らして数十年の月日が流れたある日のこと。国王ローレンスから突然そう聞かれた貴妃エレーナは戸惑ったように答えた。
「急に、どうされたのですか?」
「…分かるだろう、はぐらかさないでくれ。」
「恨んでなどいませんよ。あれは遠い昔のことですから。」
そう言われて、私は今まで蓋をしていた記憶を辿った。
どうやら彼は、若かりし頃に私とあの人の仲を引き裂いてしまったことを今も悔やんでいるらしい。
けれど、もう安心してほしい。
私は既に、今世ではあの人と縁がなかったんだと諦めている。
だから…
「陛下…!大変です、内乱が…」
え…?
ーーーーーーーーーーーーー
ここは、どこ?
さっきまで内乱が…
「エレーナ?」
陛下…?
でも若いわ。
バッと自分の顔を触る。
するとそこにはハリもあってモチモチとした、まるで若い頃の私の肌があった。
懐かしい空間と若い肌…まさか私、昔の時代に戻ったの?!
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる