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黄色の水玉模様の少女

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 気が付くと、私は野原に横たわっていた。
 頭上には、青い空。画用紙にクレヨンで塗りつぶしたような、かすれた白い雲が、ちらほらと浮かんでいた。
 風が吹くたびにさらさらと、直立していた草が揺れて、私の肌をくすぐる。けれど、痛くも痒くもなかった。目の前に遠く浮かぶ雲は、ゆっくりと風に流されてゆくけれど、気が付くと再びさっきと同じ位置に、同じ形の雲が配置されている。
 私はゆっくりと身を起こした。こちらは水彩絵の具で塗られたような野原で、そこに横たわる私の両足を包む黒いパンツは色彩的に目立った。
 とりあえず立ち上がってみる。
 なんとなく左を向くと、自分以外にもここに人が存在していることに気が付いた。なぜだかわからないけれど、意外だと思った。なんとなく、ここには私しかいないと思っていた。
 その子は十歳くらいの少女のようだった。おひさまの色の髪を風になびかせ、私のほうを向いていた。
 少女が私を、意識的に見つめているかは、断言できなかった。少女の瞳は、なんというか、表現が難しいのだが、不思議としか言いようがなかった。
 それは、私に、水面を思い出させた。日の光を浴びて、空の青を反映させて、時にさざ波が起こり、時折、虹のような不思議な色合いを映し出す。色も――その存在さえも一定しないような。私のほうを向いているのに、その瞳が私を映し出しているとは、思い難かった。まるで、私を透かして、さらにその先を見ているような。
 でも、私からしてみれば、吸い込まれそうだ。
 そう感じた瞬間、本当にその瞳に吸い込まれたのかと思うくらいの突風が、私たち二人の間を吹き抜けた。少女の身につけている、薄い青の地に、黄色の水玉模様のワンピースが、踊る。
 そこで、私は、頭上を仰いだ。なぜだか、そのワンピースが空に舞い上がった気がしたのだ。実際には多分、そんなことはなかったのに。
 けれど、私は、頭上の空に幻を見た気がした。
 青色の背景に流されてゆく、黄色い水玉模様。
 私はそれを、いつか、どこかで、知っていた。


 夏。青。黄色。流れ。

 いつか、どこかで、なにかは流されたのだ。

 私の中で、なにかは失われたのだった。


 目を戻すと、あの少女はまだそこに立っていた。同じ位置、同じ姿勢で。もちろん、ワンピースは空に舞い上がってなんかいなかったのだ。
 少女は、風に揺られた花のように、ちょこんと首をかしげた。しかし、何かを言うわけでもなく、そのままの体勢でいる。
 私のほうから、ひとつ、問いを投げかけた。
 「あなたは、だあれ?」
 少女は瞬き一つしなかった。そういえば、彼女はまだ一度も瞬きをしていなかった。
 答えない少女に、私はもう一度、別のことを問いかける。
 「私は、何を、失ったの?」
 少女は、しかし、首を横に振った。否定の意のようだった。違うよ、といっているようだ。
 私は、ゆっくり瞬きをした。少女の代わりのように。そうして、その言葉は、自然と私の口に上ってきた。
 「――ああ」
 違うね、私は、失ったんじゃない。
 「私は」
 あの夏。
 「――私は、君を、捨てたんだね」
 もう一度、ワンピースが舞い上がったような気がした。


 「それにするの?」
 聞き慣れた声に、はっと我に返った。
 振り向くと、見慣れた長い髪が目に入る。色素の薄い、ゆるくウェーブした髪を、首の後ろで一つに結んでいる。彼女は私の友人である。
 両手に重みを感じて目を落とすと、そこには薄い青色の地に黄色の水玉模様。ただし、それはワンピースではない。傘だ。
 今日は、ある人へのプレゼントを買うために、友人と出かけていたのだった。
 私はもう一度、友人に目をやり、ふるふると首を横に振る。
 「――ううん」
 しかし、いまだにその傘を両手に乗せたままでいたので、友人は首をかしげた。さっきの少女と同じ角度で、右へ。
 不審がられていることに気づき、私は言葉を付け足した。
 「――昔のことを思い出して」
 「そういう傘を持ってたの?」
 ううん、と再び首を振った。両手に乗せていた傘を、元の場所に戻しながら、さらに補足した。
 「昔、姉が持っていたの」
 へえ、と友人は微笑んだ。
 「それをプレゼントにしたら、懐かしがられるかもしれない」
 私も笑った。ただし、私のは苦笑だった。
 「どうかな」
 彼女は忘れているかもしれない、かつてそんな傘が、両親から贈られたことなんて。気づいていなかったかもしれない、完璧な姉に対して、私がどんな感情を抱いていたかなんて。
 きっと知らないだろう、ご褒美だったその傘が、妹の手によって川に投げ込まれたことを。
 あれは夏の日だった。あの日は乾いた晴天だった。水面は青空を映し出し、太陽の光はきらきら輝いていた。
 その水面に、私は、姉の傘を投げつけた。
 川は空のようだった。傘の薄い青は、その幻の空に溶けていくようだった。黄色い水玉模様は、神に描かれた太陽のようか、はたまた、その数からして、星々のようだったか。とにもかくにも、その傘は流されてゆき、黄色い水玉は、ちかちかと私の目にいたかった。
 別に、その傘が欲しかったわけでもなかった。けれど、ご褒美として――何かの賞でも取ったのだったか、詳細は忘れてしまったが――姉が両親から送られた傘を、私は盗んだ。
 そして、川へ捨てた。
 思えば、優秀な姉と比べて、私は平凡だった。そして、いつも損な立場だった。たとえ、同級生の中で優秀でも、姉には敵わない。年齢差は関係なかった。同じ年齢の時の姉と私を比べたら、誰が判断しても、姉のほうが優秀だった。自分が同級生の中で最下位でも一番でも、私にとってはそれは無意味だった。なぜなら、必ず姉が引き合いに出されたから。
 そんな状況の中、姉に嫉妬しない妹がいるだろうか。憎いと思わない妹が?
 少なくとも、姉の傘を捨てたころの私は、姉を憎んでいた。だから、幼いながらも復讐として、傘を盗み、川へ捨てた。そのあとのことは、よく覚えていない。姉は、両親は、傘がなくなったことに気が付いたのだったか。
 ――ああ、でも、そういえば。
 傘売り場に背を向けながら、私は思い出した。
 傘を川へ流したころを境に、私は姉を意識しなくなっていった。自分で姉と競うことをやめたのだ。良いほうに言えば、身の程を知り、悪く言えば、向上心を失った。
 そうして、自然と姉と距離をとるようになり、疎遠になるにつれて、憎しみの気持ちも忘れていった。
 そうか。
 もしかしたら、傘を川に流したあの時、姉にまつわる感情すべてを、私は傘と一緒に捨てたのかもしれない。
 傘を姉に見立てて。私の中に存在していた、越えられない姉を川へ――最後には大海に注がれ、まじりあう水の中へ。もしくは、果てがないという宇宙へと続く、空へと。
 あの少女は、私の中の、姉の象徴だったのかもしれない。
 「水穂?」
 歩調を緩めた私を、友人が振り返る。彼女は、やはりあの少女と同じ角度で右へ、その細い首をかしげた。
 私は、ふっと笑った。今度は苦笑ではなく、微笑だ。
 姉の傘は、あの夏に捨てた。流れて行って、もうどこにも見当たらない。そして、あの少女もまた、どこにもいない。だからこうして、今は、かつて憎んでいた姉のためにプレゼントを選ぶことさえ、できる。
 万が一、今後、あの少女のような存在に再び出会ったとしても、私はいつでも、あの夏の日に戻り、彼女に問いかけることができる。今度は間違えずに、正確な問いで。
 私は何を捨てたのだった? と。
 そうして確認するのだ。私の中の少女は、あの夏に置いてきたのだと。
 私は、友人に追いつこうと、足を速めた。
 「――何でもない、行こう、栞」


 あの少女の名は、きっと永遠に、わからないままだろう。

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