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彼女に捧げる散文
図書館
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「文字?」
翌朝、朝食の席で一緒になった、翡翠と昨日の双子たちは、そろって顔を見合わせた。
それは何か意味のある目配せのようであり、ここにはまだまだ自分の知らない「常識」があるのだと銀鼠は感じた。
彼らを代表して、年長の翡翠が答えた。
「……別に、ここに文字がないわけでも、禁止されているわけでもないよ。ペンと紙なら、たぶん、図書館に行けば貸し出してくれるだろうし、本も、朽葉や常盤なら、持ってるんじゃない」
銀鼠は目を見開いた。
「図書館があるの?」
「西側にな」
鈍が太いソーセージを頬張りながら言った。
「女子のほうからは建物が見えるんじゃないか」
言われて、銀鼠は自分の部屋の窓から見える建物を思い出した。では、あの建物が図書館だったのか。
「どうせ、今日は西を案内しようと思っていたけど……図書館に、行きたい?」
翡翠に尋ねられ、銀鼠は深く考えるまでもなく頷いた。
それを見て、翡翠は頬杖をついた。
「銀鼠は、本が好きなの?」
そう尋ねられ、銀鼠は返答に困った。まだ、わからない。ただ、昨日、一冊も本を見かけなかったこと、紙もペンも部屋になかったこと、何より、文字を目にしなかったことが、銀鼠には引っかかっていて、物足りないような気がしたのだ。
「……少なくとも、私の過去では、本は身近にあったと思う」
今は、それだけは言えた。
ふうん、と翡翠は頷いて、スプーンでスープをかきまぜた。
「まあ、さっきも言ったように、今日は図書館を含めて西側を案内するよ」
鈍が、からかうように言った。
「なんか、昨日といい、いつも一匹狼の翡翠には珍しいなあ。いつも新入りに気を配るような、面倒のいい奴じゃないのに」
「つまり、その翡翠が進んで一緒にいる銀鼠のことを褒めてるんだよ」
小声で、目の前に座る真白が、兄の言葉の裏を銀鼠に説明した。
「褒めてるというより、感心してるんだ」
と、聞こえていた鈍が、妹の言葉を訂正した。鈍は、明らかに銀鼠や翡翠より年下なのに、時々、偉そうだ。しかし、別に銀鼠は嫌な気持にはならなかった。むしろ、なんだか可愛いし微笑ましいと思っていることは、絶対に彼には秘密である。
朝食を片付ける際に、銀鼠は翡翠に尋ねてみた。
「いつも、一人でいることが多いの?」
私? と翡翠は笑った。
「まあね。気の使う相手といるのは、疲れるでしょ」
それは、自分は翡翠に気の置けない相手としてすでに認められているのか、と銀鼠は嬉しくなった。
「でも、鈍と真白とは、けっこう一緒にいるように見えるけど」
まだ二日間にも満たないが、彼らを見ていて、かなり一緒にいるのだろうなとは推測できた。
翡翠は肩をすくめた。
「まあ、私も双子も、ここでは変わり者だから」
「変わり者?」
そ、と翡翠は左耳の上のリボンを指でいじった。
「私はあんまり人と関わりたくない。集団生活のなかでは、変わり者の部類でしょ。そして、双子は互いに離れられない。男子の東と女子の西の部屋に分かれられないくらいに」
え、と銀鼠は思わず、立ち去っていく双子の後姿を見つめた。
「だから、双子は特別に南に続き部屋をもらってる。例外として。だから、ここでは変わり者」
このくらいばらしてもいいでしょ、と翡翠は言った。
「昨日、私のことについて鈍が喋ったし。別に私は、言い忘れてただけで隠してなかったけど」
そして、翡翠は少し意地悪そうに、からかうように、銀鼠を見て言った。
「そして、私から見れば、図書館と聞いたときの銀鼠の表情からすると、本にこだわりそうなあなたも、ここでは変わり者かもね」
居住棟の西側には、東と同じく、畑や薬草園もある。異なるのは、牧場の代わりに小さな森と図書館があることである。
図書館の前に、翡翠は銀鼠に森を案内した。
森には散歩用の小道があり、いくつも分岐していた。
小鳥たちの鳴き声は歌っているようにも聞こえ、人間以外のたてる音で意外に賑やかだった。翡翠は時折、小鳥と話をした。
この時は小動物などを見かけなかったが、この森にはウサギなんかもいるらしい。北の山のほうには鹿もいるということだった。
途中、湖に行き当たった。湖と言ってもそう大きくはないが、池と呼ぶには大きい。
水面は静かで、時折、風に震える。水は澄んでいて、魚もいるのが見て取れた。
「魚釣りをしたりするの?」
食事で出される魚はここから釣ったりしているのだろうか、と銀鼠は考えながら尋ねた。確か、当番表に魚のマークもあったはずだ。
しかし、翡翠は苦笑して首を振った。
「魚釣りは、ここではしないほうがいいかもね。大きすぎるものが釣れるかもしれないから。魚は、森の向こうに流れる川から釣るんだよ。海の魚は、大人たちが仕入れる」
さ、行こう、と翡翠は銀鼠を促した。彼女の後に続いて湖に背を向けた時、背後でぴちゃん、とやけに大きい水音がした。
銀鼠が振り返ると、湖に波紋が広がっていた。しかし、その波紋を生み出したものは、見て取れなかった。
銀鼠は首をかしげながらも、再び湖に背を向け、翡翠の後を追った。
森を北のほうに抜けると、間もなく、銀鼠が部屋の窓から見た建物にたどり着いた。やはり、三階建てのようだ。壁に蔦が絡まっているのは、居住棟と同様だが、こちらのほうがいっそう雰囲気を醸し出していた。つまりは、古めかしく思える。
「じゃあ、私はちょっと」
翡翠は図書館の手前でそういった。ここでも一緒に図書館のなかへ入ってくれると思っていた銀鼠は、少し残念に思った。
「ちょっと用事があるんだ」
そう、と銀鼠は頷いた。もともと、翡翠は一人でいるのが好きなタイプだ。それに、彼女の都合も大事である。ここまで付き合ってくれたことだけでも、感謝すべきだろう。
「じゃあ、また」
「図書館のなかにも責任者がいるから大丈夫よ」
翡翠は軽く手を振って、森のほうへ踵を返した。
銀鼠は、改めて図書館の扉と向き合った。重厚な両開きの扉で、彫られた装飾は華美ではないが、繊細さがある。
ここまで一人で行動することはあまりなかったので、ただ、銀鼠は緊張しているだけだった。彼女は、ふうっと息を吐いて、その扉を開けた。
扉を開いた瞬間、本の匂いがした。
本の匂いとは独特である。本の状態、紙質、置かれた場所によっても、匂いは微妙に違ってくる。それを銀鼠は記憶の奥底で知っていて、そして、この図書館は古めかしい、そしてあたたかな匂いがした。
図書館の一階は、天井が高かった。壁一面に作り付けの本棚、そしてそこは数々の本で埋まっていた。中央にはテーブルと椅子が何脚かあり、奥のカウンターには、男性が座っていた。
男性は、銀鼠が入ってくると、それまで読んでいた本から目を上げた。嬉しそうに、眼鏡の奥の瞳が笑う。
「やあ。こんにちは」
「こんにちは」
銀鼠は、まっすぐ彼に近づいた。この男性が、この図書館の責任者だろう。
男性は、三十になったくらいだろう。浅黒い肌をして、短い黒髪は無造作にはねている。丸ぶちの眼鏡の奥は優しく、やわらかな光をたたえていた。上下ともに薄い藍色の衣服を身にまとっている。
「はじめまして、かな」
男性が言った。銀鼠は頷き、自分の名前と本当に最近ここへ来たばかりだということを告げた。
それを聞くと、彼は、うん、と頷いた。
「朽葉から聞いているよ。銀鼠、いい色に染まったね。僕は、この図書館の管理を任されている、縹といいます。司書みたいなものかな。図書館に来てくれて嬉しいよ。よろしくね」
カウンターには、インク瓶と羽ペンがあった。真っ白ではない紙があった。縹は読んでいた本を閉じたが、裏表紙を上にしてカウンターの上に置いたので、何の本かはわからなかった。
銀鼠の視線に気づいたのか、縹は言った。
「ここには、本を探しに来たのかな」
ええと、と銀鼠は答えた。
「昨日、本や文房具……文字も見かけなかったので、尋ねたら、図書館があるよと教えられて」
「興味を持ってくれたわけだ」
はい、と銀鼠は頷いた。
「何か、読む? それとも、何か文字を書きたい?」
銀鼠は、縹から視線を外して、壁をぐるりと見まわした。
「えっと、何か本を読みたい気分です」
「わかった。本たちもそれを聞いて嬉しがる」
縹はにこりと言って、「ちょっと待って」と背後の書類を探した。
「ええと……最近の」
縹の手にしている紙の文字が、ちらりと銀鼠の目に留まった。読めない字だった。
そこで、そもそも自分は字が読めたのだろうか、と唐突に銀鼠は不安に思った。ここに来るまで、自分の読み書きの能力は疑ったことがなかったが。
そんな不安を銀鼠が抱く中、縹は立ち上がって、彼女を振り返った。
「こっち」
言われるまま、カウンターを出た縹のあとに銀鼠は続いた。縹はある一角で足を止め、両手で本棚の範囲を示した。
「この辺りにあるものが、君にぴったりの本かな。他の棚は、もうちょっと後にしてもいいと思う。本を読むときは、中央のテーブルと椅子を使って。申し訳ないけど、基本的に個々の本は持ち出し禁止なんだ」
そういって、縹は軽く手を振り、再びカウンターに戻った。
銀鼠は、縹に示された棚を見た。本の背表紙を見つめ、その字に安堵した。読める。わかる。
縹は、自分とは別の母語を持っているのだろうか、と銀鼠は考えた。会話に違和感はなかったが。
そういえば、翡翠たちとの会話にも違和感はないが……
しかし、銀鼠は目の前の本に気を取られていて、思考は本のことに移った。
銀鼠が知っているタイトルもあれば、知らないものもあった。知っているものは、おそらく、ここへ来る前に読んだことがあるのだろう。
記憶の手掛かりが欲しくて、とりあえず、見覚えのあるタイトルを選び、それを持って、中央のテーブルに移動した。
読んでみると、記憶の片隅が刺激される気がした。頁の手触り、頁をめくる音、銀鼠にはそれらがすべて懐かしく思えた。
自分は本が好きだったのだ、と彼女は無意識の中で確信した。
いつの間にか、物語のなかに飲み込まれていたのだろう、ことん、とテーブルに何か置かれる音がしたとき、銀鼠は、はっと我に返った。
一瞬、自分がどこにいるかわからなかった。あまりに物語に没頭していて、その本のなかに背景として存在していた気分だった。
銀鼠が本から顔を上げると、そこには縹がいて、テーブルの上にティーカップを置いたところだった。
「邪魔しちゃったかな。よかったら、飲み物でも」
銀鼠は首を振り、読みかけの頁に、本に付属していた紐をはさみ、脇へ置いた。
「ありがとうございます。ここ、飲食禁止ではないんですか」
「ここに来る人は、本が好きな人ばかり。君もそうだろう? そういう人たちは、本をどんなに丁寧に扱わなければならないか、ちゃんと知っている。本を汚したりしないなら、ここでの飲食は許されているよ。ここでは、みんなにリラックスしてもらいたいから」
リラックス。
その言葉で、銀鼠は気づいた。ここで目覚めてから初めて、難しいことを何も考えず、ただ心の赴くままに、文字の海で楽しんでいた。
「紅茶に砂糖やミルクは入れる?」
縹に尋ねられ、銀鼠は首を振った。昨日からのここでの食事の際にも、銀鼠は紅茶に何も入れなかった。
「……少し、話をしても?」
銀鼠が紅茶のカップに手を伸ばすと、縹が遠慮がちに尋ねてきた。銀鼠は頷いた。なんだか、縹にはあまり緊張感も警戒心も抱けない。彼の頼みなら、ほとんどのことをきいてしまうような、そんな雰囲気があった。
縹は銀鼠が頷くのを見ると、少女の正面の席に座った。
「ここに来る人にはみんなに尋ねるんだけど……銀鼠の好きな飲み物と食べ物は何?」
予想していなかった質問に、銀鼠はカップを手にしたまま、考えた。自分の好きな飲み物と食べ物。ここに来てからは、そこにあるものを、お腹の好き具合によって飲食していた。好きかどうかは考えていなかった。
しかし。
「ええと……飲み物は、たぶん、紅茶も好きですけど、もっと苦いやつ……」
ここでは、まだ見ていないもの。
「……コーヒーとか、好きでした。ブラックで飲むのが」
縹は、なるほど、と相槌を打った。
「……食べ物は、なんだろう。チーズは好きかもしれない」
「お菓子は?」
「ええと……ジンジャークッキー」
自然と言葉が出てきた。
縹は、楽しそうに頷いている。
「じゃあ、反対に、苦手な飲み物と食べ物はある?」
銀鼠は首を傾げ、そのまま首を横に振った。
「たぶん、ないです。とくには」
ここに来てから、出された食事のなかに、食べられないというものはなかった。
「素晴らしいね」
銀鼠は縹に問い返してみた。
「あなたは? 好きなものと苦手なものは」
問い返されるとは思っていなかったらしい縹はきょとんとした後、そうだねえ、と言った。
「僕は、チャイが好きかな。スパイスを使ったものが好きだよ。基本的に甘いものと辛いものは好きだね。苦手なものは、酸っぱいものかな」
それから主に、銀鼠と縹は本の話をした。どんな本が好きか、銀鼠が読んでいる途中の本のこと……銀鼠は、縹の言葉の端々から、彼が大変な読書家であり、この図書館の本のほとんどを読んでいるのではないか――少なくとも、どこに何があるかは把握しているのではないかという推測まで抱いた。
縹との会話は苦ではなく、むしろ心地よかった。それが縹の特性なのか、それとも、縹と銀鼠の波長があったからか――何はともかく、銀鼠は昼食の鐘が鳴るまで、図書館で読書と縹との会話に費やした。
図書館を知ってから、銀鼠は暇さえあれば、そこに通うことになっていった。
つまりは、彼女は、ここでの安らぎの場所を早くも見つけたわけだった。
翌朝、朝食の席で一緒になった、翡翠と昨日の双子たちは、そろって顔を見合わせた。
それは何か意味のある目配せのようであり、ここにはまだまだ自分の知らない「常識」があるのだと銀鼠は感じた。
彼らを代表して、年長の翡翠が答えた。
「……別に、ここに文字がないわけでも、禁止されているわけでもないよ。ペンと紙なら、たぶん、図書館に行けば貸し出してくれるだろうし、本も、朽葉や常盤なら、持ってるんじゃない」
銀鼠は目を見開いた。
「図書館があるの?」
「西側にな」
鈍が太いソーセージを頬張りながら言った。
「女子のほうからは建物が見えるんじゃないか」
言われて、銀鼠は自分の部屋の窓から見える建物を思い出した。では、あの建物が図書館だったのか。
「どうせ、今日は西を案内しようと思っていたけど……図書館に、行きたい?」
翡翠に尋ねられ、銀鼠は深く考えるまでもなく頷いた。
それを見て、翡翠は頬杖をついた。
「銀鼠は、本が好きなの?」
そう尋ねられ、銀鼠は返答に困った。まだ、わからない。ただ、昨日、一冊も本を見かけなかったこと、紙もペンも部屋になかったこと、何より、文字を目にしなかったことが、銀鼠には引っかかっていて、物足りないような気がしたのだ。
「……少なくとも、私の過去では、本は身近にあったと思う」
今は、それだけは言えた。
ふうん、と翡翠は頷いて、スプーンでスープをかきまぜた。
「まあ、さっきも言ったように、今日は図書館を含めて西側を案内するよ」
鈍が、からかうように言った。
「なんか、昨日といい、いつも一匹狼の翡翠には珍しいなあ。いつも新入りに気を配るような、面倒のいい奴じゃないのに」
「つまり、その翡翠が進んで一緒にいる銀鼠のことを褒めてるんだよ」
小声で、目の前に座る真白が、兄の言葉の裏を銀鼠に説明した。
「褒めてるというより、感心してるんだ」
と、聞こえていた鈍が、妹の言葉を訂正した。鈍は、明らかに銀鼠や翡翠より年下なのに、時々、偉そうだ。しかし、別に銀鼠は嫌な気持にはならなかった。むしろ、なんだか可愛いし微笑ましいと思っていることは、絶対に彼には秘密である。
朝食を片付ける際に、銀鼠は翡翠に尋ねてみた。
「いつも、一人でいることが多いの?」
私? と翡翠は笑った。
「まあね。気の使う相手といるのは、疲れるでしょ」
それは、自分は翡翠に気の置けない相手としてすでに認められているのか、と銀鼠は嬉しくなった。
「でも、鈍と真白とは、けっこう一緒にいるように見えるけど」
まだ二日間にも満たないが、彼らを見ていて、かなり一緒にいるのだろうなとは推測できた。
翡翠は肩をすくめた。
「まあ、私も双子も、ここでは変わり者だから」
「変わり者?」
そ、と翡翠は左耳の上のリボンを指でいじった。
「私はあんまり人と関わりたくない。集団生活のなかでは、変わり者の部類でしょ。そして、双子は互いに離れられない。男子の東と女子の西の部屋に分かれられないくらいに」
え、と銀鼠は思わず、立ち去っていく双子の後姿を見つめた。
「だから、双子は特別に南に続き部屋をもらってる。例外として。だから、ここでは変わり者」
このくらいばらしてもいいでしょ、と翡翠は言った。
「昨日、私のことについて鈍が喋ったし。別に私は、言い忘れてただけで隠してなかったけど」
そして、翡翠は少し意地悪そうに、からかうように、銀鼠を見て言った。
「そして、私から見れば、図書館と聞いたときの銀鼠の表情からすると、本にこだわりそうなあなたも、ここでは変わり者かもね」
居住棟の西側には、東と同じく、畑や薬草園もある。異なるのは、牧場の代わりに小さな森と図書館があることである。
図書館の前に、翡翠は銀鼠に森を案内した。
森には散歩用の小道があり、いくつも分岐していた。
小鳥たちの鳴き声は歌っているようにも聞こえ、人間以外のたてる音で意外に賑やかだった。翡翠は時折、小鳥と話をした。
この時は小動物などを見かけなかったが、この森にはウサギなんかもいるらしい。北の山のほうには鹿もいるということだった。
途中、湖に行き当たった。湖と言ってもそう大きくはないが、池と呼ぶには大きい。
水面は静かで、時折、風に震える。水は澄んでいて、魚もいるのが見て取れた。
「魚釣りをしたりするの?」
食事で出される魚はここから釣ったりしているのだろうか、と銀鼠は考えながら尋ねた。確か、当番表に魚のマークもあったはずだ。
しかし、翡翠は苦笑して首を振った。
「魚釣りは、ここではしないほうがいいかもね。大きすぎるものが釣れるかもしれないから。魚は、森の向こうに流れる川から釣るんだよ。海の魚は、大人たちが仕入れる」
さ、行こう、と翡翠は銀鼠を促した。彼女の後に続いて湖に背を向けた時、背後でぴちゃん、とやけに大きい水音がした。
銀鼠が振り返ると、湖に波紋が広がっていた。しかし、その波紋を生み出したものは、見て取れなかった。
銀鼠は首をかしげながらも、再び湖に背を向け、翡翠の後を追った。
森を北のほうに抜けると、間もなく、銀鼠が部屋の窓から見た建物にたどり着いた。やはり、三階建てのようだ。壁に蔦が絡まっているのは、居住棟と同様だが、こちらのほうがいっそう雰囲気を醸し出していた。つまりは、古めかしく思える。
「じゃあ、私はちょっと」
翡翠は図書館の手前でそういった。ここでも一緒に図書館のなかへ入ってくれると思っていた銀鼠は、少し残念に思った。
「ちょっと用事があるんだ」
そう、と銀鼠は頷いた。もともと、翡翠は一人でいるのが好きなタイプだ。それに、彼女の都合も大事である。ここまで付き合ってくれたことだけでも、感謝すべきだろう。
「じゃあ、また」
「図書館のなかにも責任者がいるから大丈夫よ」
翡翠は軽く手を振って、森のほうへ踵を返した。
銀鼠は、改めて図書館の扉と向き合った。重厚な両開きの扉で、彫られた装飾は華美ではないが、繊細さがある。
ここまで一人で行動することはあまりなかったので、ただ、銀鼠は緊張しているだけだった。彼女は、ふうっと息を吐いて、その扉を開けた。
扉を開いた瞬間、本の匂いがした。
本の匂いとは独特である。本の状態、紙質、置かれた場所によっても、匂いは微妙に違ってくる。それを銀鼠は記憶の奥底で知っていて、そして、この図書館は古めかしい、そしてあたたかな匂いがした。
図書館の一階は、天井が高かった。壁一面に作り付けの本棚、そしてそこは数々の本で埋まっていた。中央にはテーブルと椅子が何脚かあり、奥のカウンターには、男性が座っていた。
男性は、銀鼠が入ってくると、それまで読んでいた本から目を上げた。嬉しそうに、眼鏡の奥の瞳が笑う。
「やあ。こんにちは」
「こんにちは」
銀鼠は、まっすぐ彼に近づいた。この男性が、この図書館の責任者だろう。
男性は、三十になったくらいだろう。浅黒い肌をして、短い黒髪は無造作にはねている。丸ぶちの眼鏡の奥は優しく、やわらかな光をたたえていた。上下ともに薄い藍色の衣服を身にまとっている。
「はじめまして、かな」
男性が言った。銀鼠は頷き、自分の名前と本当に最近ここへ来たばかりだということを告げた。
それを聞くと、彼は、うん、と頷いた。
「朽葉から聞いているよ。銀鼠、いい色に染まったね。僕は、この図書館の管理を任されている、縹といいます。司書みたいなものかな。図書館に来てくれて嬉しいよ。よろしくね」
カウンターには、インク瓶と羽ペンがあった。真っ白ではない紙があった。縹は読んでいた本を閉じたが、裏表紙を上にしてカウンターの上に置いたので、何の本かはわからなかった。
銀鼠の視線に気づいたのか、縹は言った。
「ここには、本を探しに来たのかな」
ええと、と銀鼠は答えた。
「昨日、本や文房具……文字も見かけなかったので、尋ねたら、図書館があるよと教えられて」
「興味を持ってくれたわけだ」
はい、と銀鼠は頷いた。
「何か、読む? それとも、何か文字を書きたい?」
銀鼠は、縹から視線を外して、壁をぐるりと見まわした。
「えっと、何か本を読みたい気分です」
「わかった。本たちもそれを聞いて嬉しがる」
縹はにこりと言って、「ちょっと待って」と背後の書類を探した。
「ええと……最近の」
縹の手にしている紙の文字が、ちらりと銀鼠の目に留まった。読めない字だった。
そこで、そもそも自分は字が読めたのだろうか、と唐突に銀鼠は不安に思った。ここに来るまで、自分の読み書きの能力は疑ったことがなかったが。
そんな不安を銀鼠が抱く中、縹は立ち上がって、彼女を振り返った。
「こっち」
言われるまま、カウンターを出た縹のあとに銀鼠は続いた。縹はある一角で足を止め、両手で本棚の範囲を示した。
「この辺りにあるものが、君にぴったりの本かな。他の棚は、もうちょっと後にしてもいいと思う。本を読むときは、中央のテーブルと椅子を使って。申し訳ないけど、基本的に個々の本は持ち出し禁止なんだ」
そういって、縹は軽く手を振り、再びカウンターに戻った。
銀鼠は、縹に示された棚を見た。本の背表紙を見つめ、その字に安堵した。読める。わかる。
縹は、自分とは別の母語を持っているのだろうか、と銀鼠は考えた。会話に違和感はなかったが。
そういえば、翡翠たちとの会話にも違和感はないが……
しかし、銀鼠は目の前の本に気を取られていて、思考は本のことに移った。
銀鼠が知っているタイトルもあれば、知らないものもあった。知っているものは、おそらく、ここへ来る前に読んだことがあるのだろう。
記憶の手掛かりが欲しくて、とりあえず、見覚えのあるタイトルを選び、それを持って、中央のテーブルに移動した。
読んでみると、記憶の片隅が刺激される気がした。頁の手触り、頁をめくる音、銀鼠にはそれらがすべて懐かしく思えた。
自分は本が好きだったのだ、と彼女は無意識の中で確信した。
いつの間にか、物語のなかに飲み込まれていたのだろう、ことん、とテーブルに何か置かれる音がしたとき、銀鼠は、はっと我に返った。
一瞬、自分がどこにいるかわからなかった。あまりに物語に没頭していて、その本のなかに背景として存在していた気分だった。
銀鼠が本から顔を上げると、そこには縹がいて、テーブルの上にティーカップを置いたところだった。
「邪魔しちゃったかな。よかったら、飲み物でも」
銀鼠は首を振り、読みかけの頁に、本に付属していた紐をはさみ、脇へ置いた。
「ありがとうございます。ここ、飲食禁止ではないんですか」
「ここに来る人は、本が好きな人ばかり。君もそうだろう? そういう人たちは、本をどんなに丁寧に扱わなければならないか、ちゃんと知っている。本を汚したりしないなら、ここでの飲食は許されているよ。ここでは、みんなにリラックスしてもらいたいから」
リラックス。
その言葉で、銀鼠は気づいた。ここで目覚めてから初めて、難しいことを何も考えず、ただ心の赴くままに、文字の海で楽しんでいた。
「紅茶に砂糖やミルクは入れる?」
縹に尋ねられ、銀鼠は首を振った。昨日からのここでの食事の際にも、銀鼠は紅茶に何も入れなかった。
「……少し、話をしても?」
銀鼠が紅茶のカップに手を伸ばすと、縹が遠慮がちに尋ねてきた。銀鼠は頷いた。なんだか、縹にはあまり緊張感も警戒心も抱けない。彼の頼みなら、ほとんどのことをきいてしまうような、そんな雰囲気があった。
縹は銀鼠が頷くのを見ると、少女の正面の席に座った。
「ここに来る人にはみんなに尋ねるんだけど……銀鼠の好きな飲み物と食べ物は何?」
予想していなかった質問に、銀鼠はカップを手にしたまま、考えた。自分の好きな飲み物と食べ物。ここに来てからは、そこにあるものを、お腹の好き具合によって飲食していた。好きかどうかは考えていなかった。
しかし。
「ええと……飲み物は、たぶん、紅茶も好きですけど、もっと苦いやつ……」
ここでは、まだ見ていないもの。
「……コーヒーとか、好きでした。ブラックで飲むのが」
縹は、なるほど、と相槌を打った。
「……食べ物は、なんだろう。チーズは好きかもしれない」
「お菓子は?」
「ええと……ジンジャークッキー」
自然と言葉が出てきた。
縹は、楽しそうに頷いている。
「じゃあ、反対に、苦手な飲み物と食べ物はある?」
銀鼠は首を傾げ、そのまま首を横に振った。
「たぶん、ないです。とくには」
ここに来てから、出された食事のなかに、食べられないというものはなかった。
「素晴らしいね」
銀鼠は縹に問い返してみた。
「あなたは? 好きなものと苦手なものは」
問い返されるとは思っていなかったらしい縹はきょとんとした後、そうだねえ、と言った。
「僕は、チャイが好きかな。スパイスを使ったものが好きだよ。基本的に甘いものと辛いものは好きだね。苦手なものは、酸っぱいものかな」
それから主に、銀鼠と縹は本の話をした。どんな本が好きか、銀鼠が読んでいる途中の本のこと……銀鼠は、縹の言葉の端々から、彼が大変な読書家であり、この図書館の本のほとんどを読んでいるのではないか――少なくとも、どこに何があるかは把握しているのではないかという推測まで抱いた。
縹との会話は苦ではなく、むしろ心地よかった。それが縹の特性なのか、それとも、縹と銀鼠の波長があったからか――何はともかく、銀鼠は昼食の鐘が鳴るまで、図書館で読書と縹との会話に費やした。
図書館を知ってから、銀鼠は暇さえあれば、そこに通うことになっていった。
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その道中に惨めに死ぬはずだった未来を、突然現れた『バグ』によって回避して、ただの『カトレア』として生きていく話。
※悪役令嬢で婚約破棄物ですが、ざまぁもスッキリもありません。
※以前投稿していた「いっとう愚かで惨めで哀れだった令嬢の果て」改稿版です。文章量が1.5倍くらいに増えています。
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