千紫万紅の花々たち

青江 いるか

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彼女に捧げる散文

色石

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 夢を見た。
 そこはぼんやりとした明かりのある空間で、でも、光源はどこを見ても見つからなかった。空間に果てもなかった。
 そこで、ひとり、ふわふわ浮かんでいた。
 暖かい感じがした。火と光の精だ、と思った。
 と、急に胸のあたりがじんわり熱くなってきた。両手で胸元を抑える。苦しかったわけではない。ただ、なにか、来る、と感じた。それを受け止めなければならないと。
 そして、それは、来た。
 出てきた。
 どこからともなく、両手のなかに、銀色がかった鼠色のものが現れた。
 朽葉の鏡に手を触れた時に現れたものと同じ――いや、大きさはより小さく、もう少し角が取れていた。そして、これは、どうやってかわからないが、自分のなかから生み出されたもの、それは確信していた。
 皆に好まれる色ではないかもしれない。例えば、赤や青、ピンクや黄色などのような。
 けれど、綺麗な色だと思った。
 それでも、同時に、どこか恐ろしい。
 何か忘れていることが、この色と関係しているような気がする。
 でも、わからない。
 そもそも、自分は誰だっけ?
 自分は、ええと。
 
 
 
 銀鼠。
 誰かに名を呼ばれた気がして、目が覚めた。
 まず目に入ったのは、薄暗い天井。見慣れない天井だった。
 窓からカーテンを通して光が差し込んでいる。朝だった。
 徐々に、銀鼠は昨日のことを思い出した。自分は、このサナトリウムの一員となったのだった。そして、ここは自分の与えられた部屋。
 ふと、心臓のあたりに重みを感じた。横を向いて胸の前で合わせていた両手を開くと、ぽろっと、夢の中に出てきた鼠色のものがベッドに零れ落ちた。
 銀鼠は瞬いて、僅かに光る(発光しているのか、光を反射しているのか)それをしばらくの間見つめた。
 これが、昨夜、桔梗の言っていた「驚くようなこと」なのだろう。
 確かに、銀鼠は驚いていた。昨日、鏡から出てきたものもそうだったし、今日のこれもそう。
 どうやって現れたのかも、この物体を、いったい何と呼べばいいのかすらわからない。やはり石のようではあったが、どこか違うような気もした。
 とにかく、昨夜、桔梗は起床の鐘が鳴った後に説明に来てくれるといった。それを待つしかないだろう、と銀鼠はこの謎に諦めをつけた。
 確かに銀鼠は驚いてはいたが、この現状を割とすんなり受け入れてもいた。というより、受け入れるしかなかったのかもしれないが。
 今が何時か――桔梗の言葉だと、何の刻か、か――わからなかったが、起床の鐘はまだ鳴っていないはずだった。
 そういえば、この部屋に時計はないのだなと銀鼠は気が付いた。そして、最低限のものはあるが、この部屋にはいろいろ足りないものがあるような気がしてならなかった。
 桔梗が迎えに来る前に、着替えだけはしておこうと銀鼠は体を起こした。あの謎の鼠色のものは、そっと手にとって、机の上に置いた。
 クローゼットのなかにあった、昨日着ていた服と同じ型のものを取りだし、手早く着替える。
 着替えているうちに、鐘が鳴った。高く澄んだ音で、五回。確かに、これだけ鳴らせば、朝が苦手な人でも起きざるを得ないだろう。
 銀鼠はカーテンを開けた。外は晴れていて、気持ちの良い朝だ。窓は外側へ両開き。鍵を開け、銀鼠は窓ガラスを外へ押しやった。
 銀鼠の部屋は地階だ。窓の真下には花壇があり、小さな白い花が咲いていた。傍には青々と茂った樹がある。
 遠くに別の建物が見えた。三階建てくらいの高さだろうか。
 窓の外から、風に乗って、話し声や鳥の声、さまざまな音が運ばれてくる。少し騒々しく、とても平穏な音の流れだった。
 じっと銀鼠が耳を傾けていると、背後で扉がノックされた。
 「銀鼠、おはよう。桔梗です。起きている?」
 銀鼠は再び窓を閉めて鍵をかけ、薄く繊細なレースのカーテンだけを閉めた。そして、扉の鍵を開け、桔梗を出迎えた。
 「おはようございます」
 「どう、眠れた?」
 「まあ、はい」
 銀鼠が頷くと、桔梗はさっそく本題に入った。
 「それで、不思議なことが起こらなかった?」
 銀鼠は黙って桔梗を部屋の中に招き入れ、机の上の奇妙な鼠色の物体を指さした。
 「目が覚めたら、これを両手に抱えていました」
 桔梗は確認した、というように頷いた。「銀鼠の色ね。綺麗だわ」
 「これ、なんなんですか」
 銀鼠が尋ねると、桔梗はこの部屋へ来た目的、つまり、この現象の説明を始めた。
 「私たちは、これを色石と呼んでいるわ。と言っても、本当は石ではないのだけれど。石に似ているから、便宜上ね。このサナトリウムにいる子どもたち全員が――例外を除いて――、毎朝、自分の名前の色をした色石と共に目が覚める」
 銀鼠は、その自分の「色石」に目をやった。こんな現象が毎朝、ここの子どもたちに起きているというのか。
 「子どもたちということは、大人は違うんですね」
 「ええ。でも、時々この現象が起こることもあるし、意図して生み出すこともできるけど、それはのちのち。ただ、これは、あなたたちの持つパワーの余剰が結晶となったもの、と捉えてくれればいいわ」
 いろいろ混乱しそうだったし、突拍子もない話だったが、とにかく、銀鼠は質問した。
 「パワー?」
 「力、生命力、才能……どれも、当てはまるようで当てはまらないような感じね。これもやっぱり、的確ではないけれど、便宜上、パワーと呼んでいるのよね。でも、この色石はあなたの一部だったものと考えていいわ」
 「私の一部……」
 銀鼠はぼんやりと昨夜の夢を思い出した。胸が熱くなって、そのあと現れた、鼠色の色石。あれは、夢だったのか、一部分は現実だったのか。
 「私は……このサナトリウムにいる子どもたちは、この変な現象のせいで、治療のため、ここにいるんですか」
 しかし、桔梗は首を振った。
 「いいえ。この現象はあなたたちがここへ来た原因じゃない。付加物ではあるけれど。それに、あなたたちはどこかおかしいところや悪いところがあってここに来たのではないわ。朽葉にも言われたのではない? あなたには休息が必要だから、ここへ来たのだと」
 確かに、朽葉は昨日、そのようなことを言っていた気がする。
 「あなたたちは少しがんばりすぎて、疲れてしまったのね。だから、いろいろ忘れてしまった。でも、時間と休息が解決してくれる」
 ふと、この人は、朽葉は、自分の過去や本当の名前を知っているのだろうか、と銀鼠は思った。おそらく知っているのだろう、新しく迎え入れる人間の素性を施設の人たちが知らないはずはない。だとしたら、なぜ、自分たちが知っていることを教えてくれないのか。それは。
 銀鼠が桔梗に目を戻すと、彼女は頷いた。
 「ええ、少なくとも朽葉は、ここにいる全員の過去を知っているわ。どこまで詳しく知っているのかは、私にもわからないけれど。でも、忘れた過去は、思い出したければ、自分で思い出さなくてはいけない。そういう風に、朽葉が決めたの」
 その口調から、銀鼠はふと気づいた。
 「……ということは、ここにいる子どもたちはみんな、私のように過去の記憶がないんですか?」
 記憶喪失の子どもたち。それは、なんだか、異常だと銀鼠は一瞬寒気を覚えた。
 しかし、今度は桔梗は首を振って、一部を否定した。
 「いいえ、皆ではないわ。ただ、ここへ来たばかりの子どもたちは、みんな過去を思い出せないのは事実。でも、そのうちに思い出すわ、人それぞれの時間はかかるけれど。今、このサナトリウムにいるほとんどは、すでに自分の過去を思い出した子たちね」
 それでも、一度は記憶をなくした子どもたちが、ここで暮らしている。
 それはやはり異常な気がしたが、ここで恐怖と不信感を得ても、状況は悪化するだけだと考えた。それに、恐ろしさより、もっと情報が欲しい、という欲が勝った。
 「記憶が戻っても、ここから出るわけではないんですね」
 「ええ。その時期を決めるのは朽葉よ。それに、本人次第」
 これを聞くと、本当に、ここでは朽葉の影響力が強いのだと、改めて銀鼠は感じた。
 そして、自分がここから出るのは、まだまだ遠いことになりそうだ、と思ったが、正直、ここから早く出たいのかどうか、まだよくわからなかった。なにせ、今日で二日目であるし、ここから出たら帰るであろう自分の家の記憶がないのだから、比べて優劣もつけられない。
 とりあえず、自分はきちんと休んで、時間が自分の記憶を呼び戻してくれるのを待つしかないと結論付け、銀鼠は話題を最初に戻した。
 「それで、この現象は、どう考えたらいいんでしょう」
 「原理をちゃんと説明するのは難しいわ、少なくとも今の時点では。私もよくわかっていないことが多いから。とにかく、毎朝起こるものだと受け入れて。害はないわ。むしろ、利益になるわよ」
 桔梗はそういって、銀鼠にウインクした。
 「この色石は、いろいろなものに加工できるのよ。それが、昨日私が後で説明するといった、「作業」に当たるの」
 私から今説明できるのはこれだけ、といって、桔梗は手のひらくらいの小さな革袋を手渡した。
 「これをあげる。ここに毎朝、色石を入れて、作業するときまで持っているといいわ」
 銀鼠はそれを受け取って、その袋に色石をそうっと入れ、上着の前ポケットに入れた。
 さて、と桔梗は話を切り上げる調子で言った。
 「お腹の具合はどう? 空いている? 一緒に食堂に行こうと思うのだけど、どうかしら」
 ちょうどその時、鐘が一回だけ鳴った。朝食の開始だった。



 食堂に行く前に、洗面台で顔を洗った。
 もちろん、今日は他の少女たちを見かけた。様々な年代の子たちがいて、この場では見たところ、下は十歳ほど、上は大人と言ってもいいような二十前後と思われる人まで。髪や目、肌の色もさまざまで、着ているものも、型は大体三パターン(シャツとスカート、またはパンツ、それともスカートかという違い)だったが、色とりどりだった。
 もしかして、自分の名前の色を身につけているのだろうかと思ったが、別に一色でそろえている人ばかりでもなかった。ただ、銀鼠の着ている何にも染まっていない色のまま着ている人はいなかった。
 それゆえ、一目見て、銀鼠は新参者だと認識された。まあ、見覚えのない顔であり、隣に寮母である桔梗が付き添っているのだから、衣服のことがなくても新参者とわかるのは当然ではあった。
 何人かの少女が、桔梗に銀鼠のことを尋ねたり、銀鼠本人に話しかけた。
 いきなり大勢のなかに入り込んだ困惑で銀鼠はぼんやりしていたが、なんとか平凡な答えと自己紹介をした。誰も、銀鼠の過去については、当然のことながら、尋ねてこなかった。
 洗面台は十あり、それぞれの前に鏡が壁面にはめ込まれていた。昨夜は薄暗くてきちんと鏡を見ていなかったが、銀鼠は改めて、鏡に映る自分を観察した。
 髪の色は黒。真っ直ぐで、肩につくかつかないかのところで切られている。顔はやや面長、目は大きいというよりは細い。目の色は濃い茶色。鼻と口は特段いうこともない。大きすぎず、小さすぎず。頬の赤みは、あまりなく、全体的に肌は青白い。
 しばらく観察しても、思い出せることはなかったし、かといって、自分の容姿に違和感を持つわけでもなかった。
 手掛かりはないとあきらめ、銀鼠は急いで洗面台から退く。なにせ、新参者は注目されていた。早くどこかへ移動したい思いに駆られるのも仕方ないだろう。
 しかし、回廊もそこそこ人がいたし、食堂にはもっといた。
 けれど、それほど銀鼠に注目する人はおらず(食堂に入った瞬間は、がっつり注目を浴びたが)、程よく視線は放っておかれた。銀鼠はほっとした。
 食事は自分で取り分ける方式のようだ。部屋の奥側の壁際に、大鍋や大皿が置かれた台がある。
 銀鼠は桔梗と共に、自分の分をよそい、空いていた左端の席に座った。
 今日の朝食は、柔らかそうな白パン、バター、ジャム(リンゴだそうだ)、角切りされた野菜のスープ、ゆで卵とハム。飲み物は、水とリンゴジュース、紅茶が用意されていた。
 昨日の夕食が遅かったので、銀鼠は少量だけ食事をよそった。飲み物は水にした。
 銀鼠と桔梗は、昨夜と同じく、向かい合って座った。食べる前に、桔梗は両手を組んで目を閉じ、銀鼠は「いただきます」といった。
 パンは予想通り柔らかく、スープは胃に優しい味がした。
 周囲は騒々しかったが、黙々と銀鼠が食べ進めていると、突然、間近で声がした。
 「あれ、久しぶりの新入りだ」
 銀鼠が顔を上げると、隣に同じくらいの歳頃の少女が立っていた。
 「翡翠」
 桔梗がその少女の名を呼んだ。翡翠と呼ばれた少女は、「桔梗に会うのも久しぶりかも」と呟き、また銀鼠に向き直った。
 「隣、いい?」
 銀鼠は頷いた。翡翠は朝食をのせた盆をテーブルに置いてから、椅子を引いて銀鼠の隣に腰を下ろした。
 「さっき桔梗がいったように、私は翡翠。よろしく」
 銀鼠は改めて少女を観察した。薄い茶色の髪は銀鼠と同じくらいの長さで、しかし、毛先が外にはねている。目は深い緑色だ。左の耳の上でリボンを結んでおり、色は彼女の名前と同じだった。衣服の型は銀鼠や桔梗と同じで、上下ともに同じく緑。さばさばした雰囲気の少女だった。
 「私は銀鼠」
 翡翠は首をかしげた。
 「ぎんねず? それって、どういう色?」
 そこで、銀鼠は胸元のポケットから革袋を出し、自分の色石を見せた。
 わあ、と翡翠は声を上げた。
 「いいね。私、好きだな」
 率直にそう言ってくれているような気がして、銀鼠は嬉しくなった。
 「ここに来たばっかり? だよね、服も何も染めてない、まっさらだもん」
 銀鼠は改めて自分の衣服を見下ろした。
 「みんな、自分で服を染めているってこと? 自分の名前の色に?」
 まあね、と翡翠はパンをちぎりながら答えた。
 「染めるのは難しくないよ、ここでは。それに、誰もが自分の名前の色に染めてるわけじゃない。まあ、生成りのままの人もいないけど。ここでは、色は自分のアイデンティティだから。――こういうことを聞くってことは、まだ作業も知らない?」
 「昨日ここへ来たから」
 実際に自分で「来た」記憶はないが、昨日からここに「いた」のは事実だ。
 ここで、少女たちの会話を黙って聞いていた年長の桔梗が言った。
 「朝食の後に、私が作業部屋に案内するつもりだったのよ。でも、ちょうどいいわ。翡翠、このあと、銀鼠を作業部屋に案内してちょうだい。それから当番のことも教えてあげて。新しい仲間を今日一日、サポートしてちょうだい」
 翡翠は、あっさりと「いいよ」といった。
 「銀鼠の色は気に入った」
 ありがとう、と銀鼠は言った。



 「これは?」
 朝食後に分かれた桔梗から、銀鼠は一本のひもを渡されていた。やはり、まだ何の色にも染められていない。
 ああ、それ、と前を歩く翡翠は肩越しに振り返って、答えた。
 「ここに来た子は、皆もらうの。ここの一員という証みたいなもの。私はここに結んでリボンにしてるし、たぶん、桔梗が髪を結んでいる紐も同じじゃないかな」
 翡翠は、自分の左耳の上を指さした。
 ふうん、と銀鼠は頷く。
 「身につけておかないといけないもの?」
 「そういうわけじゃないけど。でも、大体みんな、どこかに身につけてるかな。さっきも言ったように、ここでは色がアイデンティティだから、自分の色に染めて自分を誇示してる。これは朽葉がくれるお守りだという噂もあるけどね」
 真偽は知らない、と翡翠は言い、付け足した。
 「まあ、お守りかどうかはともかく、銀鼠も色を染めてどこかに身につけておくといいよ。女の子は髪に結んでる人が多いけど、あとはブレスレットとか……でも、そうだな」
 翡翠は立ち止まって振り返り、人差し指を銀鼠の首もとに向けた。
 「首に巻いてチョーカーにしたらいいよ。前にここにいた人がそうやってるのを見た。それに、銀鼠は真っ黒な髪をしてて肌が白いから、その中間色は黒髪と白い肌の間で映えると思う」
 銀鼠は思いがけず目を見開いた。翡翠はそれに構わず、「ほら」と片手で両開きの扉を示した。
 「ここが作業部屋」
 作業部屋は南にあった。その両開きの扉を翡翠は押し開けた。
 中は、食堂と同じくらい広かった。テーブルは長方形のものが六つあり、規則正しく間隔を空けてならんでいる。テーブルの上や壁に沿った棚には、さまざまな器具や道具、瓶があり、見たことがあるような、ないような、銀鼠は不思議な感覚を覚えた。
 室内には幾人かがすでにいたが、食堂とは比べ物にならないくらい少なかった。彼らは入ってきた二人の少女をちらりと見たものの、すぐに自分たちの作業に戻った。
 「蘇芳―」
 翡翠が、空いているテーブルを陣取って、誰かの名前を呼んだ。銀鼠は赤色を探した。
 くすんだ赤色のローブをまとった男性が近づいてきた。
 「翡翠か。俺を呼ぶとは珍しい。しかも、一人じゃないとは」
 男性は、四十代くらいだろうか。刈り上げた黒い髪には、ところどころ白いものが混じっている。大柄で、声が低い。
 「昨日新しく来た銀鼠よ。朽葉から聞いているんじゃない? 作業部屋に案内してと桔梗に頼まれたんだ」
 男性は、初めて銀鼠にちゃんと視線を向けた。
 「君がそうか。俺は蘇芳。一応、朽葉からこの作業部屋の責任者を任されている」
 「銀鼠です。よろしくお願いします」
 では、作業について説明しよう、と蘇芳は言った。
 「色石は持ってきているな?」
 銀鼠は革袋から色石を取り出した。翡翠も横で自分の色石をテーブルの上に置く。
 「これについて、何か説明されたか」
 銀鼠は桔梗の言葉を思い出しつつ、答えた。
 「ええと、余剰なパワーの結晶、というようなことを桔梗が言っていました。厳密には石ではないとも」
 そうだ、と蘇芳は言った。
 「この色石については不思議としか言いようがない。だが、とても有用なものだ。なzrなら、これを粉にして混ぜれば、混ぜたものはどんなものでもその色石の色になる」
 銀鼠はいまいちピンとこなかった。
 「例えば植物染めをするとして、元の植物の見た目と同じ色になるとは限らない。多くの場合、媒染剤も必要だ。手間もかかる。しかし、この色石の不思議なところは、お湯にこの色石の粉と染めたいものを入れ、半刻ほど浸しておくだけで、綺麗にその色に染まるんだ」
 やってみたほうが早い、と蘇芳は言って、棚から器具を取り出してきた。
 テーブルの上に置かれたのは、乳鉢と乳棒だ。蘇芳が、懐から瓶を取り出し、中に入っていた赤い色石を一つだけ取り出した。
 銀鼠の視線に気づいて、蘇芳は説明した。
 「新入りにお手本を見せるためにいつも持ち歩いているのさ」
 そして、彼は乳鉢の中に色石を転がし、乳棒で叩いて欠片に粉砕し、すり潰し始めた。
 銀鼠も真似をする。おそらく、乳鉢と乳棒を使うのは初めてのような気がしたが、色石はその見た目とは裏腹に、かなり簡単に砕けた。
 あまり長い時間もかからず、色石は粉になった。
 「簡単だろ? これも色石の利点だな」
 蘇芳は新しい透明な瓶を持ってきて、銀鼠に渡した。
 「奥の棚にはいつも、新しい瓶がある。色石の粉はそこに入れるのがいい。ここにある道具は大体共用だから、勝手に使って構わない。使い方がわからない時は聞いてくれ。粉砕の仕方はいろいろあるし、色石の使い方も染色だけでなく様々だ。色インクや絵の具とかな」
 銀鼠は何か引っかかった気がしたが、瓶の中に入れた銀色の粉を見つめているうちに忘れた。
 「さて、この粉を何に利用する?」
 尋ねられて、銀鼠は迷わず答えた。「服を染めます」
 このままでは、目立ってしまうようで、仲間外れのようで、居心地が悪かったのだ。
 「じゃあ、新しい服を隣でもらってこようか」
 「隣?」
 「隣の小部屋は衣裳部屋、縫物室と呼ばれてるの。三枚までなら新しい服をもらえるし、端切れの布なら割といつでももらえる。あとは、服が破れて繕いたかったら、裁縫箱があるそこへ行くんだ」
 言って、翡翠と銀鼠は隣の衣裳部屋に行った。そこには、ふっくらした体つきの中年女性がいて、彼女がこの部屋の責任者だという。名は珊瑚といった。
 彼女から自分にぴったりのサイズの服をもらった。服の型はワンピースなどいろいろあったが、パンツのほうが動きやすいので、今と同じ型にした。
 作業部屋に戻ってきて、湯を沸かし、桶の中にそれを入れた。
 色石の粉は、この衣服の量なら、小さじ一杯くらいでいいという。銀鼠の色石は親指に満たないほどの大きさで、それを粉にすると、ちょうど小さじ一くらいだったので、具合がよかった。
 そうして、色のついたお湯のなかに、今しがたもらってきた衣服と、桔梗からもらった紐を浸した。
 「あと半刻後に取り出して乾かせば完成だ」
 蘇芳が満足そうに行った。
 色石を粉にしたものの、粉は瓶の中にとっておいた翡翠は、銀鼠を洗濯室に誘った。
 「その間に洗濯を終わらせて、半刻後に洗濯物と一緒に干そう」
 洗濯室は同じく南にあった。洗濯は石鹸で手洗いだった。
 「色石を粉砕するのが、作業?」
 ごしごし洗いながら、銀鼠は翡翠に尋ねた。
 「まあ、そうだね。毎日、その日の色石を粉砕して、瓶にためておく。そのほうが加工がしやすいから。それは自由に使っていいんだ、服を染めたりなんでも。しばらくすると、大抵余ってくるから、そのときは蘇芳に掛け合って、自分の欲しいものと交換する。一瓶で服一着とか、同等の価値のものとね」
 「私たちの色石の粉を、大人たちはどうするの?」
 銀鼠の質問に、翡翠はちらりと隣の新入りの顔を見た。
 「外に売るんだ。それで、このサナトリウムは成り立っているんだよ。私たちは毎日、自分の食い扶持を稼いでるってわけ。いくら、ここがなるたけ自給自足を目指していようと、外から買い入れないといけないものとかもあるし。もちろん、大人たちも自分でいろいろ稼いで、ここを維持しようとしているんだ」
 色石。そんなものがあること、それが市場に流通していることに銀鼠は驚きを覚えた。記憶を失う前の自分は、そういったことを知っていただろうか? この驚きの感じからすると、これは一般常識ではなかったような気がした。
 ますます、このサナトリウムの謎が深まる。
 考え込んだ銀鼠を尻目に、翡翠は言った。
 「あと、色石の粉を他の人の粉と交換する場合もある。自分の色のほかに、アクセントとして他の色が欲しい時とか、友情の証とかね。まあ、色付きの服を珊瑚から買えないわけじゃない、大抵のものは頼めば外から取り寄せてくれるし。不自由はしない」
 洗濯を終えた少女たちは、銀鼠の染めた衣服と紐とともに、それらを気持ちの良い日差しの下で洗濯場に干した。そこにはたくさんの洗濯物がすでに干されていて、色とりどりで、賑やかだった。
 「誰のものかわからなくならないの?」
 「みんな、自分の色くらいわかるよ。他人の粉で染めた衣服も。食堂で見た当番表でも、銀鼠は自分の色がわかったでしょ」
 確かに、と銀鼠は頷いた。他にも灰色じみた色はあったが、一目見て、これが自分の色だとわかったのだった。
 「さて、作業と洗濯を終えたから、さっさと今度は当番を終わらせよう。何故か、私たち、同じ当番だったし。都合がいいけど、朽葉か誰かの策略を感じないでもないな」
 翡翠は伸びをして、さっさと歩きだした。銀鼠と翡翠は、薬草園での仕事当番だった。
 そのとき、鐘が長く一度、短く一度鳴った。時間からして、朝食の終了の合図だろう。
 そういえば、ここではあまり時計を見かけない。この鐘はどこから聞こえてくるのだろうか。
 「ま、今日は一日、このサナトリウムをできる限り案内するよ」
 翡翠は軽く銀鼠の肩を叩いた。
 


 やっと、銀鼠は居住棟の外へ出た。東西南北に入り口はあるらしいが、彼女たちは南口から外に出た。振り返って見上げてみると、石造りで重厚な、がっちりした建物である。ところどころ、壁に蔦が這っている。
 「このサナトリウムは、中央に居住棟がある。ここね。薬草園は北東。近くには畑も牧場もあるし、賑やかだよ」
 二人は、のんびりと北東へ向かった。舗装された道はなく、人の足で踏み固められた道を歩いていく。牧場、畑を通り過ぎて、温室もある薬草園へたどり着いた。
 「やっと来た、翡翠」
 「鈍に真白」
 翡翠に声をかけてきたのは、十二、三歳くらいの少年だった。背後にもう一人、少年と同じ背格好の少女がいる。二人の顔立ちはよく似ていて、双子のように思われた。少年は藍色みのある薄墨色の上下、少女は洗い立てのような真っ白なワンピースを着ていた。
 「新しい奴か」
 少年のほうが言った。見定めるように、銀鼠を見た。
 「昨日からここに。名前は、銀鼠。よろしくね」
 銀鼠は少年と、背後の少女に言った。
 「おれは鈍。で、こっちが真白」
 少年は背後の少女を軽く前に押し出した。少女はおどおどした様子だったが、しかし、きちんと銀鼠を見上げて 「はじめまして」と言った。
 「似ているけど、双子?」
 鈍は頷いた。
 「一応、おれが兄で真白が妹」
 それから、彼は翡翠に言った。
 「今日は薬草摘み。常盤から何が必要かは言われてる」
 「じゃあ、早速、薬草を摘んで終わらせよう」
 銀鼠は控えめに彼らの会話に入った。
 「たぶん、私、薬草の種類とか分からないけど」
 おれが教える、と鈍が申し出た。
 というわけで、自然と、双子と銀鼠と翡翠は共に行動することになった。
 銀鼠のそばに鈍がいて、鈍の隣にはいつも真白がいる。この双子はあまり離れたがらないようだ。
 一方、翡翠は自由気ままに近くを歩き回っていた。
 はは、という軽い笑いが聞こえて、銀鼠は顔を上げた。
 声の主は翡翠だった。彼女は目線の高さを飛ぶ小鳥に片手を伸ばし、笑いながら何か小さく囁いていた。
 銀鼠は手を止め、それを見た。
 「今初めて知ったってところか」
 その声に銀鼠が振り返ると、背後に鈍が立っていた。
 「翡翠はあらゆる生き物と会話できるんだよ」
 なんてことないように、彼は言った。銀鼠は目を見開く。
 「人間以外と?」
 「おかしいと思うか?」
 問い返され、銀鼠は返答に窮した。鈍は構わず続けた。
 「ここにいる奴らは、みんなどこかしら「普通」じゃない。色石のことを除いても。でも、それがここでは『普通』なんだ」
 「私も普通じゃないってこと?」
 「おれは知らないけど、朽葉がここにあんたを入れたってことは、そうなんだろ。でも、気にすることじゃない、ここではみんなそうだから」
 銀鼠は両手を見つめた。また、このサナトリウムの印象が少し変化した。
 それから、銀鼠は鈍色、次に真白を見つめた。
 「あなたたちは、どんなところが、その、『普通』じゃないの?」
 「教えない」
 短く言って、鈍は背を向けた。
 「あんたが自分のパワーを思い出したら、その情報と対等に交換するよ」
 パワー。銀鼠の頭の中で、少しずつピースがつながった。つまりは、ここにいる子どもたちは、何らかの「普通」ではないパワーを持っていて、その余剰が、毎朝、色石として生み出されている。
 ここにいるのは、色石を生み出してしまうからではなく、その源となるパワーを持つからなのだ。
 ぼんやりとしてしまった銀鼠に、いつの間にか真白が寄り添っていた。彼女は「鈍は意地悪でああいってるんじゃないの」と片割れを弁護した。
 わかってる、と銀鼠は真白を安心させるように微笑んだ。
 すると、真白も、ぱあっと微笑んで、「わたし、銀鼠の色、好き」と囁いてから、兄のもとへ駆けていった。
  「今のは、ここでの最上級の誉め言葉」
 いつの間にか、翡翠が小鳥と別れて銀鼠のそばに立っていた。
 「ここでは、色を褒めることがその人自身を褒めることでもある」
 翡翠は笑った。
 「鈍から聞いた? そういえば、まだ言ってなかったよね。私は、いろんな生き物と喋れるの」
 銀鼠はぽつりと言った。
 「……ここは、本当に不思議」
 そのうち慣れるよ、と翡翠は言った。



 摘んだ薬草は、ここの医師である常盤という女性の所まで四人で運んでいった。
 北に診療所がある。二階建てで、看病が必要な患者は、この二階に収容されるそうだ。常盤はこの診療所に住み込んでいるらしい。他にも、医師見習いや看護師も何人かいるようではあった。
 ついでに双子とともに、銀鼠と翡翠は昼食を食べ、二人は、午後は牧場に行った。牧場では牛、羊、豚がいた。馬も僅かにいた。牧羊犬は翡翠と仲良しのようで、彼女の姿を見るとこちらへ駆けてきた。
 洗濯物が乾くと取り込んで、そこでやっと、銀鼠も自分の色のついた衣服を手に入れることができた。銀鼠の紐は、珊瑚に頼んで金具をつけてチョーカーにしてもらった。
 「これで、晴れて、このサナトリウムの一員ていうところね」
 チョーカーを身につけた銀鼠を見て、翡翠は言った。
 そうして、瞬く間に一日は過ぎてゆき、銀鼠は自分の部屋に戻ってきた。驚いたことに、翡翠とは隣同士だった。気づかなかった、と二人は互いに笑った。
 カーテンを閉めようとして、ふと、今日は西側には行かなかったな、と銀鼠は思い当たった。牧場も薬草園も居住棟の東側、診療所は北だ。では、西側にある、銀鼠の部屋の窓から見えるあの建物は、なんだろう。
 今、その建物には三階付近に明かりがついていた。
 まあ、いずれ分かることだ。
 銀鼠はベッドに入った。疲れていたが、気持ちは穏やかだった。ただ、疑問や不安がないわけではなかったが。
 今日のことを瞼の裏で思い出していると、ふと、作業部屋で引っかかったことが再び違和感として銀鼠の胸に去来した。
 色石、粉、染め物……確か、蘇芳は、インクや絵の具にも加工できるといっていた。
 そこで、銀鼠は、はっとした、
 今日一日、居住棟のなかもいろいろ歩いたが、ここには文房具がなかった。本がなかった。絵画は壁に飾られていたにもかかわらず。
 しかし、インクにも加工できると蘇芳が言っていたのだから、それはおかしくないか?
 ここで足りないものはまだある。時計は少ないし(鐘の音で大体時間がわかるとはいえ)、カレンダーもない(春先だと教えてはもらったが)。
 やっぱり不思議なところだ、と銀鼠は繰り返し思った。
 そして、ここへ来てから、桔梗の時計の数字を除いて、一度も文字を目にしていないのは、銀鼠にはひどく奇妙に思われた。
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