千紫万紅の花々たち

青江 いるか

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彼女に捧げる散文

サナトリウム

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 「こんにちは」


 扉の向こうには、見知らぬ女の人が立っていた。
 それは、ここにいるはずもない人だった。



 暗闇から徐々に意識が立ち上ってくるのを、少女は感じた。
 気持ちの良い感覚ではなかった。寝不足の時のように、頭は霞がかっていて、思考は夢と現を彷徨っている。おまけに、船酔いをしたように気分が悪い。
 それでも、やはり徐々に手足の末端まで感覚が戻ってみると、近くに人の気配を感じ取った。
 ゆっくりと、慎重に、少女は両の目を開いた。
「……気が付いたのね」
 若くはない女性の声だった。少女が声のほうへ顔を向けるより早く、その声の持ち主が少女の顔を覗き込んできた。
 声と同様、決して若くはないが、それでも老いた故に際立つ魅力を持つ女性だった。白髪をシニョンに結い、瞳は深い緑色で不思議な光を反射させている。顔には年相応の皺が刻まれているが、それは必ずしも、彼女の生来の美しさを損なってはいない。昔は目を見張るような美人だったろう。首元まで覆われたブラウスを着ていて、襟元には、褐色じみた黄橙色の丸いブローチをつけていた。
 「……う……」
 うめき声を上げながら、少女は体を起こした。女性が少女の背に手を添える。
 「大丈夫?」
 「……ここは」
 少女は困惑していた。思考がまとまらず、まず、自分が何を知るべきであるのか、何を質問するべきなのか、わからない。
 「ここはサナトリウムよ」
 サナトリウム。療養所。少女は頭のなかで繰り返す。
 「私は……」
 どこか悪いのだったか? いや、そんなはずはない……だって……
 少女はそこまで考えて、愕然とした。
 思い出せない。
 少女はここにいる前のことを明確に思い出すことができなかった。
 全くの空白ということでもない。自分に、これ以前の過去があったことは何となくわかる。十五年ほどの時間が自分のなかに流れていたことは。
 しかし、それらはみんな、指の間から零れ落ちてしまう砂のように、思い出そうとすると、つかみ取ることができないのだった。まるで、深い霧の中にいるかのように。まるで、幽霊を捕まえようとしているかのように。
 自分は誰なのか?
 少女は戦慄いた。
 その時、少女は背中にぬくもりを感じた。それは、添えられた、傍らの女性の手のぬくもりだった。
 「思い出せないのは、今はまだ悪いことではないわ」
 まるで、少女に起きていることをすべて知っているかのように、その女性は言った。
 「あなたは少し疲れていて、このサナトリウムで少し休息をとるの。自分のことは徐々に思い出すわ、時が来ればね」
 少女は、ぼんやりと傍らの女性を見上げた、女性は暖かく微笑んでいた。それは早春の太陽のように穏やかで、夕暮れの日差しのように暖かな色合いをしていた。そのような情景は自分にとって好ましいものだったなと、少女は少なくともそれだけは思い出した。
 少女は瞬きをして、目を伏せた。状況を受け入れた仕草だった。
 女性はそれを汲み取ったらしく、手をゆっくり離して言った。
 「では、まずは名前を決めないとね」
 女性は書き物机から何かを手に取った。そこで初めて、少女はここが部屋のなかだということ、窓際に書き物机、中央に低い長いテーブル、そして自分が寝かされていたのは長椅子だと知った。
 女性が持ってきたのは、楕円形の、手の日田より一回り大きいくらいの鏡だった。縁には繊細な彫刻がされていて上品ではあったが、少々くすんだ金色をしていた。その鏡面を、女性は上に向けた。
 「手を出して、鏡に手のひらを向けて」
 少女は言われるがままそうした。疑問がないわけではなかったが、逆らう理由も特段なかった。
 少女の手のひらが鏡面に触れる。少女がひんやりとした感触を手のひらに感じるのと同時に、仄かに鏡が光を帯びた。
 少女は息をのんで、手のひらを思わず離した。光はその後、くすんだ色を帯び、光が収まると、鏡面には歪な形の小さな物体が載っていた。
 「……決まったわね」
 女性がつぶやいて、その奇妙なものを取り、少女に見せた。
 「これがあなたの色」
 それは、薄く銀色を帯びた、鼠色をしていた。親指くらいの大きさで、歪で、石のように見えた。実際にそれが石なのか、少女には判断がつかなかった。
 「あなたの名前は」
 少女の目はその不思議な鼠色のものに引き付けられていた。それは、なんだか懐かしくて、少し恐ろしくて、とても複雑な感情を呼び起こした。
 その感情に飲み込まれそうになりながらも、少女は女性のその言葉をはっきりと耳にした。
 「銀鼠」



 女性は朽葉と名乗った。
 彼女はこのサナトリウムの責任者であり、ここには少女と同じくらいの年代の子どもたちが五十人ほどいるという。
 敷地内には、牧場や畑、薬草園などもあり、そこで働く人々や、常駐している医師なども含めると、このサナトリウムは大所帯といえるかもしれない。
 そして、銀鼠と名付けられた少女は、今日からこのサナトリウムの一員となったのだった。彼女自身に選択権はなかった。何せ、自分の本当の名前さえも思い出せないのだから、そんな状態で他に行ける場所もない。
 それに、ここで暮らすことを、今の時点では特にいやだとは思っていなかった。朽葉の雰囲気は、人を安心させる。
 そして、なげやりとまではいかないものの、銀鼠は、半ばどうにでもなれという気持ちでもあった。
 朽葉は銀鼠を、今日から彼女のものとなる部屋に案内してくれることになった。二人がいた部屋から出ると、そこは中庭に面した回廊だった。
 ここは居住棟であり、四角い形の二階建ての建物の中心はぽっかり空いていて、そこが中庭になっている。つまり、建物はロの字型だ。建物と中庭の間には、屋根付きの回廊がぐるりと巡っていた。
 中庭には小さな噴水やベンチがあり、木々や花壇があり、うららかな日差しが降り注いでいた。銀鼠たちのいる回廊は影になっているので暗く、明るい中庭は少しだけ別世界に見えた。
 居住棟の北側は食堂や風呂があり、西側は女子の居住域、東が男子の居住域で、南が朽葉や大人たちの部屋、作業部屋の区域であると、ここの管理者は左手で方角を示しながら教えてくれた。
 回廊を左に進み、いくつか同じような扉を通り過ぎ、それから朽葉は歩みを止めた。胸元から鍵を取り出し、ある扉の状に差し込んだ。
 扉は内側に開いた。
 朽葉は左手を突き出して、中へどうぞと少女に示した。
 銀鼠は中へ足を踏み入れ、ぐるりと視線を巡らせた。入り口の正面には格子窓、そこには生成り色のカーテンがかかっていて、今は開いていた。
 左手には木製のシングルベッドがあり、枕、シーツ、カバーはそろっていて、カーテンと同じ色をしていた。ベッドの足元の側には、壁を背にしてクローゼット。
 右手奥には、スズラン型のランプが置かれた机と背もたれ付きの椅子。使われていない部屋に特有の埃っぽさはなく、この部屋はいささか殺風景ではあるが、居心地はよさそうだった。
 「ここが今日からあなたの部屋よ」
 朽葉は部屋の外に立ったまま、にこやかに言った。振り返った銀鼠に「今日はゆっくり休んで」と言って、彼女は少女が頷くのを見ると、静かに扉を閉めた。
 外から鍵をかけられることはなかった。よく見ると、内側からもカギがかけられるようになっている、ということは、少なくともここは監禁するための部屋ではない。少女は、ほっと息をついた。
 何が何だかわからなかったし、体はとても疲れていた。まるで、長いこと走り続けていたように。泳ぎ疲れてしまったように。
 そう思った時、少女は、自分が過去に「長いこと走り続けた」「泳いだ」経験があることを知った。
 しかし、それについて深く考える前に、少女はベッドに倒れこんだ。
 今は、何をするにも疲れすぎていた。



 いつの間にか眠ってしまったらしい。ベッドに倒れこんだ時はまだ昼間だったが、銀鼠が次に目を開けた時、窓の外は真っ暗だった。
 部屋のなかはぼんやりと明かりがついていた。光源を見ると、机の上のランプだ。自分でつけた覚えはないが、もしかすると最初から明かりがついていたのかもしれない。昼間は窓からの光で気づかなかっただけで。
 銀鼠は、すっかりこわばった体をゆっくりと伸ばした。どのくらい眠っていたのだろう? 今は何時なのだろう?
 銀鼠がベッドに腰かけ、ぼんやりとランプの暖かな光を眺めていた時、部屋の扉がノックだれた。
 「――今、大丈夫?」
 銀鼠はびくっとして、扉のほうに目を向けた。あの朽葉という女性の声ではない。それよりは、やや高く、もっと陽気で朗らかさがある。
 「……はい」
 とりあえず返事をし、銀鼠は立ち上がって扉の前へ歩いた。鍵はかけていなかった。ドアノブに手を伸ばし、ゆっくりと内側に開く。
 扉の向こうはぼんやりと明るかった。回廊に燭台があるようだ。扉の向こうには見知らぬ女性が立っていた。
 この状況に既視感を覚えたが、同時に、それは全く異なる光景でもあることを、銀鼠は理解した。シチュエーションは似ているが、場所も人も違う。
 どうしてそれがわかるのか――それを銀鼠が自身でつかむ前に、目の前の女性が口を開いたので、少女の志向は中断された。
 「はじめまして。銀鼠、ね。朽葉から話は聞いているわ。私は桔梗。寮母みたいなことをしています」
 彼女は朗らかに微笑んで、右手を出した。銀鼠も手を出し、「よろしくお願いします」と、握手をした。
 彼女は歳の頃は三十代半ばから後半といったところだろう。銀鼠と同じくらいの身長で、前開きの半袖の上着、踝丈のゆったりしたパンツを身につけている。色は上下ともに、青みがかった紫。彼女の名と同じ桔梗の色だ。
 そして銀鼠は、彼女と同じ衣服を自分もまた身につけていることに気が付いた。色は生成り色だったが。おそらく、あの最初の目ざめの時から身につけていたのだろう、ただ、この瞬間まで銀鼠が注意を払っていなかっただけで。
 彼女の足は柔らかそうな革靴で覆われている。それは銀鼠も同じだ。
 そこで、自分が靴も履いたまま寝ていたことに遅ればせながら気づき、銀鼠は恥ずかしくなった。よほど疲れ切っていたに違いない。
 桔梗は、濃い栗色の髪を首の後ろで、これまた桔梗色の細リボンでくくっている。
 よほど自分の名か、それともその色に愛着があるのだろう。
 しかし、だからと言って、強調しすぎている印象はなかった。風変わりにも見えず、彼女にその色はあっていたし、違和感はなく、しっかり溶け込んでいた。
 銀鼠の視線に気づいたのだろう、桔梗の陽気な目はにっこり笑って、少女の意もしっかりくみ取って、言った。
 「良い色でしょう?」
 銀鼠は黙ってうなずいた。その色が彼女に似合っているのは間違いなかったし、美しい色だということにも異論はなかった。
 銀鼠の頷きを見て満足したらしい桔梗は、それから思い出したように、申し訳なさそうな顔をした。
 「突然こんな時間にごめんね。寝ていたかもしれないし、夜中になっちゃったけれど、お風呂とか夕ご飯とか、大丈夫かなと思って声をかけに来たの」
 夜中。
 銀鼠は思わず目を見開いた。よく寝ていたと思っていたが、夜中までとは。そもそも昼間の何時にこの部屋に来たのか知らないが、ずいぶん長い時間寝ていたことは間違いない。どうりで体がこわばっていたはずだ。
 「今何時ですか」
 桔梗は考えるようなしぐさをしてから、少女の質問に答えた。
 「ええと、あなたの時間でいうと……十二時、かな」
 お腹は空いていない? と桔梗は尋ねた。そう聞かれた途端、銀鼠はものすごい空腹を感じた。
 「……ええと、空いているみたいです」
 「それじゃあ、夕食を食べに行かない? そこでいろいろ説明したいこともあるし」
 銀鼠はこくんと頷いた。



 カーテンを閉め、ランプを消して部屋を出た。
 ランプは不思議だった。火のようで火ではない。レバーで明かりをつけたり消したりできる。手を近くにかざせば温かい。知っているようで、知らないような光源だった。
 火と光の精がいるのよ、と桔梗は笑っていった。
 何はともかく、自分が眠っていた間、その明かりのせいで火事にならなくてよかったと銀鼠は思う。
 回廊は一定間隔で燭台に明かりがともっていた。ぼんやりとした明かりのなか、銀鼠は桔梗に導かれて、食堂がある北へ進んだ。
 食堂は横長の部屋で、ほぼ部屋と同じくらいの長さのテーブルがどんと置かれていた。ほとんどの椅子はきちんと並べられていたが、何脚か部屋の角に置かれているものもあった。予備なのかもしれない。
 桔梗は明かりをつけ、適当にテーブルの右のほうを陣取った。
 食堂の右側には、隣へとつながる開口部があった。扉はない。そちらは厨房なのだと桔梗は言い、そこから食べ物と飲み物を取ってきた。
 「軽めの夕食を用意してもらっていたの」
 桔梗が銀鼠の前に並べたのは、(おそらく)いろいろな穀物が入った粥と、陶器のマグカップに入ったミルク。食器には可愛らしい文様が入っている。スプーンとフォークは木製だった。
 「ありがとうございます」
 頂きます、と呟いてから、銀鼠は食べ始めた。桔梗は少女の目の前に座り、にこにことそれを見守った。
 温かい食事はおいしかった。粥には、米だけでない穀物が入っていた。麦、そばの実……持てる知識を引き出そうとしたが、考えると頭が痛みだしたので、やめた。ナッツやドライフルーツも入っていた、と思考をやめる直前に思い出した。
 このような粥は今まで食べたことがない気がして、これも自分の記憶の手掛かりになる、と頭痛の始まりそうな頭の隅に置いておいた。
 ミルクは蜂蜜入りで、シナモンの風味もした。とりあえず、この食事で銀鼠が苦手だと思ったものはなかったし、満足した。
 とてもお腹が空いていたので、粥だけで足りるかなと思ったが、食べ終わるころにはお腹は一杯になっていた。おかわりかデザートを桔梗に聞かれたが、銀鼠は首を振った。
 「さて」
 食器を脇に片付けた状態で、桔梗は口火を切った。
 「お風呂の前に、ちょっとだけお話、いい?」
 銀鼠は頷いた。
 桔梗は自分のコップの水を飲んでから、言った。
 「私は寮母だから、あなたにここでの生活の仕方を教える必要がある。まず、ここで暮らす銀鼠たちの一日の主なスケジュールを教えるわね。と言っても、厳しく決まっているわけじゃなくて、かなり自由なんだけれど」
 桔梗は懐中時計を取り出した。ローマ数字で、ⅠからⅫまでの数字がぐるっと巡っている。桔梗はⅦの数字を指さした。
 「朝の七の刻に起床の鐘が鳴るわ。そうしたら、身支度を整えてね。洗面台は、西の区域の端にあるから、帰りに案内するわ。布など必要なものはクローゼットに入っているし、ひとまずの着替えもあるわ」
 そして、彼女の指はⅧの数字へ移動する。
 「八の刻から朝食。だいたい、いつ食堂に来ても、厨房に声をかければ何かしらの食べ物をくれるけれど、一応、朝食は十の刻まで。朝食後から昼食の十三の刻まで、仕事」
 「仕事」
 桔梗は安心させるように微笑んだ。
 「大丈夫、そんなたいそうなものじゃないわ。午前中にやらなくてはいけないことは、自分の洗濯、部屋の掃除、作業――作業については、明日、それを行う時に説明するわ。それから、自分の当番の仕事。ここには、牧場や畑があるから、それを当番制でみんなで維持しているの。あと、共有区域――食堂とかお風呂場ね――その掃除とか。当番表は食堂に毎月貼られているわ」
 そういって、桔梗は入り口のほうの壁を指さした。銀鼠は振り返り、そこに大きな板が下げられているのに気づいた。色とりどりの丸い点が板に刺さっていて、その上には絵が幾つか描かれている。
 「絵が、仕事を表しているの。後でよく見てみるといいわ。刺さっている丸いピンの色は、それぞれの名前を表している」
 はっとして、銀鼠は桔梗を見つめた。自分は銀鼠と仮の名を与えられた。その名をくれた人は朽葉といい、今、目の前にいる女性は桔梗。
 銀鼠の表情を見て、桔梗は頷いた。
 「そう、ここにいる私たち、職員も含めて、みんな、色の名前を持っている。だから、自分の名前の色が、ここでは自分を表している。同じ名前の人はいないし、似ている色でも、間違えることはないわ。少なくとも、自分の色は。何故かはわからないけれど、自分の色だけは、どんなに他の色と似ていても、わかるの」
 だから、この女性は自分の名前と同じ色を身につけているのだろうか。そういえば、朽葉の襟元のブローチの色は、彼女の名の色ではなかったか、と銀鼠は思い出した。
 桔梗の指は、Ⅰの数字へ移動する。
 「十三の刻が昼食。十四と半刻までで、十五の刻から十七の刻まで、いろいろお茶とお菓子が適当に置かれているから、食べたい人は自由に持って行って良いの。当番の仕事が午前のうちに終わっていたら、午後は自由よ。いつ、何をやるかは自分で決めていいし、自分の身の回りのこと、当番の仕事が早く終わったら、午前中から自由でもいい。余暇の過ごし方はおいおいわかってくるでしょうし、後で私がここを案内するか、誰かに案内させるわね。きっと、どこかに自分のお気に入りの場所が見つかるはずよ」
 そして、彼女の指は再びⅦの数字へ戻る。
 「十九の刻に夕食。二十一の刻まで。お風呂は十七の刻以降なら、いつでも入って大丈夫よ。それまでには当番の子たちも掃除は終わらせているでしょうから。就寝は二十三の刻となっているけれど、それまでに部屋に入っていればいいっていうだけね。ただ、二十二の刻以降は例外を除いて、女子は西から、男子は東から出てはいけない」
 もちろん、と桔梗は銀鼠に微笑んだ。
 「今回は例外。職員と一緒なら、よし。それか、事前に許可を取るか、ね」
 桔梗は懐中時計を仕舞った。
 「言い忘れたけど、鐘は起床と、朝食、昼食、夕食の開始と終了の時に鳴るわ。二十二と二十三の刻には音楽。どこから聞こえるか、誰が奏でているのかはわからないし、小さい音だけど、どこにいても聞こえるし、かといって眠りを邪魔されるわけでもない。子守歌ね」
 最後の言葉を、桔梗は、ランプの時の「火と光の精」といった時と同じ調子で言った。
 からかっているのか本気で言っているのか、銀鼠にはわからない。ただ、謎のままが良いということなのだろうから、そのままにしておこうと思った。
 そのあとは同じ北側の風呂場に案内され、銀鼠は疲れを洗い流した。風呂場は大浴場で、残り湯ではあったが、心地よかった。
 着替えは桔梗が用意してくれていた。寝巻は直線裁ちの衣服で、やはり生成り色、帯で締める形だった。
 着方はわかるか尋ねられたので、銀鼠は大丈夫と答えた。よくこのような服を着ていた覚えは今のところないが、着方はかろうじて知っている気がした。
 そのあと洗面台の場所へ案内してもらって、それから部屋へ送ってもらった。扉を閉める際、桔梗はこれで三度目となる奇妙な言葉を残した。
 「明日の朝、目が覚めたら少し驚くようなことがあると思うの。でも、心配しないで、何も問題はないわ。起床の鐘が鳴ったら、また迎えに来るから、そのときに説明するわ」
 おやすみ、と彼女は言った。
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