七瀬と秋臣

青江 いるか

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約束

新しい約束

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「勝手な約束だな」
 再び竹林に戻ってきて最初に言葉を発したのは、部外者の秋臣だった。
 「大事なことを言わずに約束させるのは、卑怯だぜ。魂だけになるということは、死ぬということ。死ぬということは、この世界――家族、友人ともおさらばするということ。そういうことを、全然、説明してねえよな」
 秋臣は七瀬の肩を後ろからつかんで自らの背後に押しやった。今度は秋臣が七瀬を背にかばう形になる。
 「それは対等な約束じゃない。無効だ」
 蛇神は目を細めた。その仕草はやけに迫力があり、見るものの背筋をぞくっとさせた。
 「それはそなたが決めることではないぞ、久世秋臣よ。これは、妾と七瀬との約束の話じゃ。そなたを連れてきたのは、この約束を達成する証人になってもらうためじゃよ。七瀬が自ら望んでこちら側へ来たという」
 蛇神は秋臣を通り越して、七瀬を見た。
 「そなたは、こちら側へ来たいのではないかの、七瀬よ」
 「おれは……」
 秋臣が七瀬を振り返った。七瀬は友人と目を合わせる。秋臣の目には、迷いはなかった。そのことに何故だか七瀬は安堵し、背中を押された気がした。
 「……おれは、あなたとは行けません、蛇神様」
 蛇神は無表情に七瀬を見つめた。
 「――母親のもとより、こちらの世界のほうがよいというのかえ?」
 その声は、少し嘲りを帯びていた。
 「この世界に何のしがらみがあるというのかえ? 妾は知っておるぞ、そなたは父親とはあまり親しくないのじゃろう。妾たちを視るという力のために、そなたは他のものと一定の距離を置いておる。見守ってきた妾にはわかる。そなたは人間たちといるよりも、妾ら妖と呼ばれるものたちといたほうが、ずいぶん気安そうじゃ」
 「それは……」
 蛇神の言葉を、七瀬はすぐに否定できなかった。彼女の言葉には、一片の真実が含まれていたからである。父親と親しくないのも、他人と一定の距離を置いているのも本当だった。妖のほうが気安いと感じることが多いのも事実だった。
 しかし、それでも。
 「ざけんじゃねえよ」
 七瀬が口を開く前に、秋臣が言った。
 「それは誘導だ。父親と親しくないから何だ? 他人と距離を取るのが何だ? 妖といるほうが気安いなら、別に今のままでも変わりないだろ」
 そこでいったん言葉を止め、秋臣は七瀬をもう一度振り返った。
 「でしゃばる真似をするつもりはねえが……蛇神が言ったことを何も否定的に捉えることはないと思う。そして俺は……お前にいなくなってほしくない」
 七瀬の目は瞬いた。
 いなくなってほしくない。
 それは、「行くな」でもなく、「死ぬな」でもなく――七瀬の存在自体を想う言葉で。
 その言葉が、七瀬にはとてつもなく嬉しかった。
 「蛇神様」
 七瀬は秋臣の隣に並んだ。
 「おれは、あなたとは行けません」
 もう一度、七瀬はその言葉を繰り返した。
 なぜなら、と彼は言う。
 「おれはこの現実に居たいからです。確かに、この現実に残るメリットはあまりないのかもしれません。妖といて気安いのも事実です。けれど、それでもおれは、友人の隣にいたいんです」
 七瀬は秋臣をわずかに見上げて言った。
 「おれは、秋臣のいる世界で、彼といたいのです」
 秋臣がやや驚いた顔をし、それから照れたように笑った。
 蛇神は、ふうん、と呟いた。
 「――やはり、友人というのは、度し難いものじゃのう」
 妾と葵のように、と吐息のように言葉を落とし、少女は「ならば」と前に出た。七瀬に向かって、ではなく、秋臣に向かって。
 「秋臣も連れてゆこう。さすれば、七瀬もこちら側に来てくれるじゃろう?」
 蛇神は秋臣に向かってその手を伸ばす。
 「な」
 秋臣が後退る。七瀬は咄嗟に彼の肩をつかんで引き戻し、胸元の鈴を振った。
 ちゃりん、と鈴の澄んだ音がした。
 その瞬間、風が吹いたように思った。風ではなく、なにかの圧だったのかもしれない。しかし、それが現実と妖の世界との境界に線を引き、人間である七瀬と秋臣、妖である蛇神を分け、互いを遮断した。
 そこは街灯に照らされた竹林で、辺りは日暮れの薄暗さ、まるで狐にでも化かされたような心地になる。
 「秋臣」
 七瀬は秋臣に縋りついた。
 「連れてかれてないね? 大丈夫だね」
 「ああ」
 秋臣は頷き、七瀬の胸元で揺れる鈴を見た。
 「これは、八咫烏のくれた鈴の効果か」
 七瀬は鈴を手に取る。
 「そう、いったん、蛇神とのつながりを遮断した。すぐに効果は切れるとは思うけれど……神が本気を出したら敵うものはないから」
 「その通りじゃな」
 あの響く声がして、二人は振り返った。
 「やや、してやられたがのう」
 それは蛇神の少女だ。しかし、辺りは変わらず夕暮れ。彼女の作る世界の中に戻されたわけではなく、彼女が現実世界に姿を見せたということだろう。
 七瀬は身構えた。しかし、そんな七瀬を見て、蛇神は笑う。
 「そう警戒するでない。また鈴を振られたらこちらも不利じゃからのう」
 しかし、と彼女は不思議そうに尋ねた。
 「先ほどの妾の思いつきはとても良いように思ったのじゃが……何が気に障ったのかの? 秋臣のそばが良いというのなら、彼がこちらの世界にいれば問題は解決すると思ったのじゃが」
 「それは全く別のことですよ」
 七瀬はきっぱりと言った。
 「確かに秋臣と共に居たいけれど、それは妖の世界でじゃない。おれは、現実に居る秋臣がいいんだ。ここにいる彼が好きなんだ」
 蛇神は首を傾げた。
 「それは違うことかの」
 「違いますよ、とても」
 断言する七瀬に、蛇神は口を開きかけ、また閉じた。
 「あなたは、例えばおれの母がまだ元気だったら、やはり自分の中に取り込みたいと思いますか。それよりも、ここで生きる母を見たいと思いませんか」
 七瀬は問いを投げかける。蛇神は考えるしぐさをしてから、ふうむ、と声を漏らした。
 「……なるほど、理解できなくもないのう」
 しかし、蛇神は七瀬の顔を伏し目がちに見上げた。
 「じゃが、約束は約束じゃぞ。妾との約束をどうするつもりじゃ」
 七瀬は胸元の鈴を握りしめながら、ゆっくりと考えをまとめるように言った。
 「……それでは、こうするのはどうでしょう。約束というのは、おれが大人になったらあなたが迎えに来るということですよね。よく考えれば、あなたは迎えに来ると約束しただけで、おれがそうするかは、その約束の中には入っていない」
 けれど、と口を開きかけた蛇神を速さで制して、七瀬は続けた。
 「それは屁理屈というものだとも思います。ですから、こうするんです。おれはあなたのもとへ行きますが、それは今じゃない。おれの肉体がその寿命を終えて朽ち果てたら。そうしたら、おれはあなたのもとへ行きます」
 「七瀬」
 声を上げる秋臣に、七瀬は笑いかけた。
 「おれはね、死んだ後に大切な人と再会できなくても、生きている間にその人と濃密な時間を共に過ごすことができるなら、そちらを選ぶよ。どのくらい永くその人と居られるかではなく、どんな時間を過ごすかがおれには大切なんだ。それは、この現実でしか叶えられないことなんだ」
 秋臣は何も言えず口をつぐむ。七瀬は蛇神に向き直った。
 「蛇神様、おれの提案をどう思いますか」
 蛇神は「いいじゃろう」とあっさりと言った。
 「人の寿命くらい、妾には長いものではない。そのころには、そなたの母も意識を回復しているじゃろう。ちょうどよいかもしれぬ」
 「それでは、今後一切、秋臣に手を出さないでくれますね」
 七瀬は言葉を強めて言った。
 「約束しよう」
 蛇神は了承した。
 話から疎外されつつある秋臣は、ここで口を挟んだ。
 「あと、もう一つ、俺からも約束してほしいことがある」
 蛇神は秋臣を見た。その目は、やや好奇心が見え隠れした。
 「なんじゃ」
 「七瀬の命がある間は、彼にも手を出さないでほしい。妖に事故に見せかけられて命を奪われるということがないように」
 蛇神が気を悪くしないか、七瀬は――実を言うと秋臣もだったが――不安に思ったが、彼女は目を丸くして、それから意外にも破願した。
 「そなたらは興味深いのう。自らの命ではなく、互いの命を守ろうとするか。よいじゃろう、妾は――それからこちらの世界のなにものにも、そなたらに手出しはさせぬ。なにものかがそなたらの命を狙うなら、妾とその眷属がそなたらを守ろう」
 蛇神の少女は、くるりと一回りして、言った。
 「神崎七瀬がその寿命を終えたら、彼は妾のもとへ来る。それまでは、なにものにも七瀬、及び彼の友人である久世秋臣には手出しをさせぬ。万が一、危害が加えられるようなことがあれば、妾らがそなたらを守り、相手に報復をしよう」
 これが新たな約束じゃ、と蛇神はその両手を差し出した。
 二人は顔を見合わせ、躊躇いがちにそれぞれ片手を出した。約束に、「報復」という言葉が追加されているのは気になったが、二人ともそれには触れなかった。のちのち、役に立つことがあるかもしれない。
 「しかし」
 約束の成立後、蛇神はやや不満げに言った。
 「七瀬が妾のもとに来るまでの埋め合わせが欲しいのう。妾にとっては長い時間ではないものの、約束の証や貢物など、あってもよいのではないかえ」
 その頬を膨らませた様子は、まさに幼い少女の我儘のようだった。可愛らしいが、機嫌を損ねると大変だ。
 「それもそうですね」
 七瀬は考える仕草で、耳の上の髪をかき上げた。そして、何やら思いついたらしく、目を上げた。
 「では、毎年、母の命日とおれの誕生日であるこの日に、一年間で伸びた分だけ、おれの髪を捧げます。髪は霊力が宿るとか、神聖なものとして伝えられていますよね。おれの髪は父譲りで、神崎家の血が濃い証だそうですよ。あなたにとって、欲しいものではありませんか?」
 おれが死ぬまでの身代わりに、と七瀬は言った。
 蛇神が舌なめずりをした。それは一瞬ぞくっとする、けれど甘美な気持をも起こさせる仕草だった。
 「よかろう」
 しかし、今回は? と彼女は尋ねた。
 「今回は何も妾に置いていかないのかえ」
 七瀬ははっとして髪に手をやった。
 「剃髪にしてもいいですけど、今は道具が……」
 「おい」
 道具があれば実行に移しそうな七瀬を秋臣は止めた。自分の身を犠牲にすることに対して、あまり頓着しない七瀬は、秋臣にとっては不安だったのだろう。
 その様子を見て、蛇神は笑った。
 「よいよい、冗談じゃよ。今回はプリン三つで手を打とう。毎年一つしか食べられぬから、今年は嬉しいのう」
 と言って、蛇神は自らの周りにプリンとスプーンを三つ浮かべた。
 「毎年母へ供えていたプリンを食べていたのは、あなただったんですね」
 「もちろんじゃよ。葵に供えられたものは、妾のものでもあるのじゃから」
 美味であった、と彼女は満面の笑みを浮かべた。それは無邪気な少女の笑顔だった。
 「これからも毎年よろしく頼むぞ」
 そういうと、さあっと風をまとい、七瀬と秋臣が目をかばう間に、彼女の姿とプリンは消えていた。
 残された二人は、どちらからともなく顔を見合わせる。
 「……乗り切った、てことか?」
 「そうみたいだね」
 帰ろうか、と七瀬は何もなかったかのように平然と境内を歩き出した。秋臣は慌ててその背中を追いかける。
 「おい、毎年髪を捧げるって――なんで自分からそんなことを。今回はプリン三つで手を打ってくれたんだから、毎年たくさんのプリンを作るとかでもよかったんじゃないか」
 「それじゃあ、だめだったよ、たぶんね」
 七瀬は軽く肩をすくめた。
 「少なくとも、おれの一部を蛇神に捧げないと、約束を強固にはできなかったと思う。今回だって、彼女はおれのものを持って行ったよ。おれだけでなく、秋臣のもね」
 「え?」
 「プリンは、元々おれたちのものだった。所有者というのは、意外と重要なことなんだ。その所有権が蛇神に移った――それは、自分の一部を持っていかれたことと同じとも言えるんだよ。ただし、こういうことは偶然にしてそうなるもの。次回から、これは自分のプリンだといって蛇神に会いに行き、またプリンを奪われても、それは自分の一部を譲渡したことにはならない。だって、この前例を知っているからね。これは一度きりしか使えない」
 秋臣は微妙な顔をしたが、とりあえず今回は助かったのだと割り切ることにしたらしい。並んで歩きながら、彼は言った。
 「一年間に伸びた髪を捧げるということは、これから一年、髪を切らないということだよな」
 「そうだね」
 「それでいいのか」
 秋臣の問いに、七瀬は、よくわからない、という顔をした。秋臣は言葉を付け足す。
 「俺は、七瀬が髪を伸ばしても似合うと思うし、いいと思うが、いろいろ言うやつもいるだろ。特に七瀬は女顔だからさ」
 「別に気にしないよ」
 七瀬はにっこりとして言った。
 「多様性が叫ばれる時代だよ? なんとかなるよ。それに、秋臣が似合うといってくれるなら、他の意見なんてどうでもいいよ」
 秋臣は視線をずらして前を向き、わざとらしい溜息をついた。
 「……お前の言葉って、直接的なのに、よくわからないよな……」
 「なにが?」
 いや、と秋臣は言って、話題を変えた。
 「それより、プリン、持っていかれちまったが、いいのか。それに、お前の誕生日の祝いの費用が俺持ちってだけで、具体的なプレゼントとかなかったよな。なにか、欲しいものとかあるか」
 今日は無理でも後で用意してやるよ、と秋臣は言った。
 七瀬はちょっと考える素振りをして、こう言った。
 「当ててみて」
 「はあ?」
 秋臣は困ったように頭を掻いた。
 「俺、そういうの、一番苦手なんだが」
 「期限なし、ヒントをあげるよ」
 七瀬は少し駆け出して秋臣の前に行き、振り返った。
 「おれは蛇神に言ったよ。秋臣とこの現実で生きたいのだと。おれの言葉を思い出してもらえれば、こんなおれが欲しいと思うものがわかると思うんだけどな」
 二人は立ち止まって見つめ合った。
 七瀬は背中で両手を組み、わずかに秋臣を見上げている。
 秋臣は困ったような、照れているような、複雑な表情をしている。
 「あー……」
 秋臣は目をそらして頭を掻きつつ、ゆっくりと七瀬に近づいた。
 一歩、二歩と。
 影は重なり。
 互いの瞳の奥の瞬きまで見通せるような近さになった時。
 「――っ」
 唐突に七瀬の頭に秋臣の手が直撃した。
 「……痛い」
 うずくまる七瀬に、秋臣は溜息をつきながら言った。
 「お前の言葉はよくわからない。ちゃんと、直接、俺に言ってみろよ」
 七瀬は頭を抱えたまま見上げた。秋臣はそっぽを向いている。
 そうだね、と七瀬は呟いた。
 「秋臣、俺……」
 立ち上がって、七瀬は秋臣の両頬をつかんで、自分のほうを見させた。
 再び見つめ合う目。
 「すきだよ」
 たった四文字の言葉が、互いの胸に深い余韻を残して落ちる。
 秋臣の顔がみるみる真っ赤になった。
 「おま……」
 「だからさ」
 七瀬は両手を秋臣の頬から離さず、言った。
 「これからずっと、毎年、おれの誕生日に髪を切ってよ」
 秋臣はしばしの沈黙の後、口を開いた。
 「……俺、他人の髪を切ったことないんだが」
 「秋臣ならできるって。器用だから」
 「いや、不器用なんだが」
 七瀬はやっと両手を離して秋臣を解放し、「百歩譲って不器用でも、秋臣がいいんだ」と恥じらいなく言った。
 恥じらったのは秋臣のほうである。彼は赤くなった顔を持ち上げた片手で隠し、答えた。
 「――わかったよ」
 ありがとう、と先を歩き始めた七瀬の背に向かって、「その代わり」と秋臣は声を投げかけた。
 「俺以外には髪を触らせんなよ」
 肩越しに振り返った七瀬は、微笑んだ。
 「もちろん」
 
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