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三章
C
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当然のように、今日も霧が町を覆っていた。
ただ、昨日の夜ほど濃くはない。朝日のおかげもあって、視界はそこまで悪くなかった。
視線を上げれば、昨日は見えなかったクラムフォレストの街並みを、初めて見渡すことができた。
三階建ての巨大な木造の家が、点々と並ぶ。
一個一個の建物が大きい分、建物同士の間には結構な間隔があり、そこには畑や木が植えられていた。
「大きいな。あの家にだいたい、どれくらいの人が住んでるんだ?」
隣を歩いていたクゥネロがこちらを向く。
「まちまちだけど、五十人くらいかな。霧の中を皆でうろついたら危ないし、混乱するからね。 だからこの町では、殆ど家で何でもできるようにしてあるんだ。各家に幾つかの一族ががまとまって住んでいて、商店や食事処の出張所も中にあるんだ」
つまり、一階にお店のテナントが入ったアパートの、住民同士の付き合いがあるバージョン、ってことらしい。
しかしだとしたら、少々気になることが生まれる。
「……答えにくい質問かもしれんが、クゥネロはどうして一人なんだ?」
ハハ、と軽い調子でクゥネロが笑う。
「別に家族がいないとか、そういう重い理由じゃないよ。実家がクラムフォレストの中でも奥の方で、門から遠くて毎日仕事に行くのが面倒なのと、単に変わり者だからさ。若い世代や年配の世代には、僕みたいなのが少しいる。一人で気ままに暮らしたいとか、ひっそりと静かに余生を過ごしたい、って人がね。そういう人は町外れに小さな小屋を建てて、一人で暮らすんだ。これから行く食事処は、そういう変わり者向けの店だよ。普通は、家の中にある出張所で食事を済ませるから」
だから少し歩く、とクゥネロは付け足した。
「需要がいっぱいあるわけじゃないからね。景みたいな旅人や、僕みたいな変わり者向けに開いている店は、それほど多くはないんだ。景は昨日も歩き通しで疲れてるかもしれないけど、悪いね」
「別にいい。それに疲れてるのは、昨日仕事だったクゥネロもだろ?」
そう答えると、クゥネロは自慢げに笑った。
「疲れないよ。朝にちょっと鍛錬して、後は滅多に来ない旅人をひたすら待つだけの簡単な仕事だから。さぼり放題と聞いて、僕はこの仕事に就いたんだからね」
などと、上司が聞けば眉を顰めそうなことを堂々と口にする。……ただ、きっとこれは半分冗談、半分本気ってところだろう。口ではこんなことを言うが、昨日も遅くまで俺が町に入れるように動いてくれたし。……家が酷かったのは事実だが、きちんと面倒を見てくれたのもまた事実だ。口で言うほどやる気がないわけじゃないと思う。
……そう思ったが、敢えて何も言わなかった。
霧に包まれた道を進んだ先には、一階建ての、年季の入った木造の建物があった。
青いペンキで塗られた屋根が綺麗で、ドアの真上には、
『食事処 エミリア・キッチン』
という、古い古い、色あせた小さな看板が掲げられていた。ここが、クゥネロの目的地らしい。
「このエミリアっていうのは、店主の名前?」
「ああ。……先々代のね」
俺が聞くと、今初めて見た、というような顔でクゥネロが看板を見上げた。俺が不思議そうな顔でクゥネロを見ていたことに気付いたのだろう。笑って、クゥネロが説明してくれた。
「この町には滅多に客が来ないから。店名なんて、今更誰も気にしないんだ」
とはいえ、店名がないと何だか収まりが悪い。それで、看板を新調した先々代が自分の名前を店名につけて以来、そのままになっているそうだ。
「嵐が過ぎた後は、ちょくちょく暇な奴がここを見に来るよ。看板が落ちた時は、付け替え時だからね。その時は今の店主兼看板娘の名を取って、リーネ・キッチンって名前になるはずだよ」
それから、悪戯をする子供のような顔を浮かべる。
「……もしくは、じゃじゃ馬赤毛のデタラメキッチン、かな。僕ならそう名付けるね」
クックック、と喉を振るわせるような笑い声をあげて、クゥネロが扉を開けて中に入る。
「へぇ……」
初めて見る顔だ。……なるほどな。
一瞬の間の後、俺も中に入った。
「いらっしゃい。……なんだ、クゥネロか」
振り向いて声をかけてきた少女が、あからさまにつまらなそうな顔になって、溜め息を吐いた。
給仕用のエプロンをつけた、クゥネロや俺とそう変わらない年頃の少女だ。とはいえ、クゥネロは俺より少し……一~二歳くらい年上に見えるが、目の前にいる少女は年上には全く見えなかった。普段から働いているからだろうか? どこか大人びているようにも見えたが、同時になんとなく、顔つきや態度、にじみ出る雰囲気から、子供らしさも感じた。
「アンタに出す飯はないよ。とっとと帰んな」
「客に対して酷い言い草だね。今日は新顔も連れて来てやったのに」
どこか不満そうな顔で、クゥネロが背後を視線で示す。
俺はリーネと初めて視線を合わせ、軽く会釈した。
「アンタ、また旅人を泊めたの? あのゴミ屋敷に人を泊めるのは止めなさいって、前も言ったわよね?」
同じく不満げに、どこかイライラした顔でリーネがクゥネロに言う。
「アンタも大変だったでしょ? かわいそうだし、サービスするわ」
俺は深く頷いた。家のことを言われると言い返せないようで、むっつりと黙り込んでクゥネロはカウンター席に座った。それを見て、ドッと店中の客から歓声が上がった。
おずおずと俺もクゥネロの隣に座ると、トン、と音を立てて俺とクゥネロの中間の位置に、中くらいの大きさの瓶が置かれた。
「おなか減ってるでしょ? それでもつまんで待ってて」
ニコっと、俺に笑いかけ、アンタもね、とクゥネロに真顔で言ってリーネが背を向け、慣れた様子で料理を始めた。
慌ただしくキッチンを動くたびに、ウェーブのかかった赤毛が背中で揺れる。前髪はオレンジ色のバンダナで止めて、料理に毛が入らないようにしていたが、後ろ髪に関してはさして気にしていないらしい。衛生的にはどうなのかという問題はあるだろうが、背中で左右に揺れる髪は、見ていて何だか楽しかった。
ナイフで野菜を切る子気味のいい音と、油で何かを炒めるジュワ、という音が耳に届く。
ぼんやりとクゥネロとリーネの背を眺めながら、蓋をひねって瓶を開けた。
ぷん、と酢のような匂いが広がる。中には暗い緑色の、細長い野菜が薄く切られて入っていた。それはなんだか、ピクルスにひどく似ていた。
「これは?」
「おやつ兼酒のつまみだね」
カウンターの端に積まれていた黒い小皿とフォークを掴み、クゥネロが俺の分を渡してくれた。礼を言って、小皿に取ってフォークを刺して軽く齧ってみた。
「うーん……」
うまい、とは思う。強い酢の匂いに反して、あまり酸っぱくないのが印象的だった。
ただ、ピクルスと比べてどうとかは言うことができない。日本では、数えるほどしかちゃんとピクルスを食べたことがなかったので、比較が難しい。ハンバーガーを食べるときに肉と一緒に食べた程度だ。
ポリポリと齧っていると、クゥネロが違うよ、と言って首を振った。
「そんなに深く味わって食べる食べ物じゃないよ。勢いよく、数回噛んで飲み込むだけでいい。流すように食わないと」
「そりゃアンタの食べ方でしょ。好きなように食べさせてあげなさいよ」
料理の手は止めずに、背中越しにクゥネロに文句を言う。
「じゃあ、お前はどうやって食べるんだよ?」
「……私も同じ」
今度はクゥネロが勝った。リーネはそれ以上言えず、押し黙った。
忍び笑いが、店内のあちこちから漏れ聞こえる。
「二人は仲がいいのか?」
「幼馴染ってやつだよ。それだけだけどね」
「会えばいつも喧嘩するのよね」
――喧嘩するほど仲がいい、と。
「好きなんだな、お互いのことが」
……そう言ってやりたい悪戯心が芽生える。だがひとまず今回は自重して、言われた通りにピクルスもどきを食べることにした。
「……」
無言でかじっていると、視線でクゥネロが問いかけてきた。答えないわけにもいかず、俺は「こっちのが旨いな」と遠慮がちに答えた。
実際、確かに一つ一つ味わって食べるより、こっちの方がいい。野菜の芯の方まで酢が染み込んでいるからだろう、噛みすぎると口の中いっぱいに酸味が広がってひどく酸っぱいので、ちょっとだけ噛んで流すように食べるほうがおいしかった。
してやったり、という顔でクゥネロが笑みを浮かべる。
「おまちどうさん」
リーネはそれを黙殺しつつ、カウンター越しに、ひょい、と複数のお皿が乗ったお盆を渡してきた。
一番最初に目についたのは、フランスパンのような、外側が硬いパンを使ったサンドイッチだ。
レタスやトマトに似た野菜と、焼いた卵が入っている。齧ってみると食べるのが難しく、硬いパンと格闘している間に卵が飛び出してしまったり、トマトが潰れてしまうという問題にぶつかったが、味自体は悪くなかった。
それ以外には大きめのソーセージが二本と、白湯の入ったコップが一つあった。
「景は買い物に来たんだよね? どうせ非番だから案内するよ。これから何を買うの?」
ソーセージを刺したフォークをくるくると回しながら、クゥネロが尋ねてくる。――どうして落ちないんだ?
「これだ」
麻袋を開けて、メモを取り出す。――袋を開けた瞬間、仄かに腐りかけの牛乳のような臭いがした。
「何? この臭い。――ああ、ヒカリカビダケね」
上からリーネが覗き込んでくる。
「そう言う名前なのか? 売れると聞いて採ってきたんだけど」
「調理に手間がかかるから買い取り手は少ないけど、珍味だからそれなりに売れるわ。――だいたい、これくらいかしら」
そう言ってリーネが見せた額を見て、クゥネロが渋面になった。
「……僕の一か月分の給料だ」
「あらそうなの? 門番って兵士の中でも下っ端の仕事だものね。対して貰えないんだ」
「生活するには十分な金額を頂いてるさ」
「騎士の格好はそりゃ立派でカッコイイけど、クゥって剣ちゃんと握れるの?」
「……そこそこは、振れるぞ」
自信がないのかちょっと間をおいて、目を逸らしながら答える。その様子がおかしくて笑ってしまい、俺はついぽろっと口を滑らせてしまった。
「へぇ、クゥネロの騎士の格好ってカッコイイんだな」
しまった、と思った時にはもう遅い。――これは、二重の失言だ。
「そうだな、カッコイイよな、クゥネロくん」
「俺達からすればまだまだ青さの残る立ち姿だがなぁ」
「だよなぁ!」
それまで黙って聞いていた店内の客達が一瞬で沸き上がり、下品な笑い声を上げながら二人の恋路を囃し立てる。
……改めて見渡すと、客は中年以降の男性が多かった。中には、昨日クゥネロが着ていたのと同じ鎧を着ている人もいる。彼らにすれば、クゥネロとリーネは息子や娘、人によっては孫のようなものなのだろう。
見る見るうちに、リーネの頬が赤く染まった。
「……景は、昨日見ただろう? 僕って、ダサかったのか?」
そして隣からは、どこか悲しそうなクゥネロの声がする。
「い、いや違う。誤解だ」
「……」
半信半疑、といった顔でクゥネロがこちらを見る。それから、そっとリーネの方を見た。
リーネとクゥネロ、二人の視線がぶつかり合う。
周囲からキスしろ、と囃し立てる声が届く。馬鹿な発言、まさに出歯亀だ、と思ったが、原因を作ったのが自分なだけに何とも言えない気持ちになる。
「……すまん」
ぼそっと謝ると、ため息のような小さな笑い声が返ってきた。
「いいよ。でも、こっちもごめん」
それから、クゥネロの行動は早かった。
ひょい、と椅子を蹴ってカウンターを越え、赤面するリーネの手を掴む。
「えっ?」
驚いた顔で、弾かれたようにリーネがクゥネロの顔を見る。クゥネロが頷くと、小さく頷き返した。
――そして二人は一切合切、荷物も店もほっぽり出して逃げて行った。
俺を含めてポカンとした顔で逃げた方角を眺める人間が数名。残りの半分は食事を再開し、もう半分は囃し立てながら二人を追って店を出て行った。
ただ、昨日の夜ほど濃くはない。朝日のおかげもあって、視界はそこまで悪くなかった。
視線を上げれば、昨日は見えなかったクラムフォレストの街並みを、初めて見渡すことができた。
三階建ての巨大な木造の家が、点々と並ぶ。
一個一個の建物が大きい分、建物同士の間には結構な間隔があり、そこには畑や木が植えられていた。
「大きいな。あの家にだいたい、どれくらいの人が住んでるんだ?」
隣を歩いていたクゥネロがこちらを向く。
「まちまちだけど、五十人くらいかな。霧の中を皆でうろついたら危ないし、混乱するからね。 だからこの町では、殆ど家で何でもできるようにしてあるんだ。各家に幾つかの一族ががまとまって住んでいて、商店や食事処の出張所も中にあるんだ」
つまり、一階にお店のテナントが入ったアパートの、住民同士の付き合いがあるバージョン、ってことらしい。
しかしだとしたら、少々気になることが生まれる。
「……答えにくい質問かもしれんが、クゥネロはどうして一人なんだ?」
ハハ、と軽い調子でクゥネロが笑う。
「別に家族がいないとか、そういう重い理由じゃないよ。実家がクラムフォレストの中でも奥の方で、門から遠くて毎日仕事に行くのが面倒なのと、単に変わり者だからさ。若い世代や年配の世代には、僕みたいなのが少しいる。一人で気ままに暮らしたいとか、ひっそりと静かに余生を過ごしたい、って人がね。そういう人は町外れに小さな小屋を建てて、一人で暮らすんだ。これから行く食事処は、そういう変わり者向けの店だよ。普通は、家の中にある出張所で食事を済ませるから」
だから少し歩く、とクゥネロは付け足した。
「需要がいっぱいあるわけじゃないからね。景みたいな旅人や、僕みたいな変わり者向けに開いている店は、それほど多くはないんだ。景は昨日も歩き通しで疲れてるかもしれないけど、悪いね」
「別にいい。それに疲れてるのは、昨日仕事だったクゥネロもだろ?」
そう答えると、クゥネロは自慢げに笑った。
「疲れないよ。朝にちょっと鍛錬して、後は滅多に来ない旅人をひたすら待つだけの簡単な仕事だから。さぼり放題と聞いて、僕はこの仕事に就いたんだからね」
などと、上司が聞けば眉を顰めそうなことを堂々と口にする。……ただ、きっとこれは半分冗談、半分本気ってところだろう。口ではこんなことを言うが、昨日も遅くまで俺が町に入れるように動いてくれたし。……家が酷かったのは事実だが、きちんと面倒を見てくれたのもまた事実だ。口で言うほどやる気がないわけじゃないと思う。
……そう思ったが、敢えて何も言わなかった。
霧に包まれた道を進んだ先には、一階建ての、年季の入った木造の建物があった。
青いペンキで塗られた屋根が綺麗で、ドアの真上には、
『食事処 エミリア・キッチン』
という、古い古い、色あせた小さな看板が掲げられていた。ここが、クゥネロの目的地らしい。
「このエミリアっていうのは、店主の名前?」
「ああ。……先々代のね」
俺が聞くと、今初めて見た、というような顔でクゥネロが看板を見上げた。俺が不思議そうな顔でクゥネロを見ていたことに気付いたのだろう。笑って、クゥネロが説明してくれた。
「この町には滅多に客が来ないから。店名なんて、今更誰も気にしないんだ」
とはいえ、店名がないと何だか収まりが悪い。それで、看板を新調した先々代が自分の名前を店名につけて以来、そのままになっているそうだ。
「嵐が過ぎた後は、ちょくちょく暇な奴がここを見に来るよ。看板が落ちた時は、付け替え時だからね。その時は今の店主兼看板娘の名を取って、リーネ・キッチンって名前になるはずだよ」
それから、悪戯をする子供のような顔を浮かべる。
「……もしくは、じゃじゃ馬赤毛のデタラメキッチン、かな。僕ならそう名付けるね」
クックック、と喉を振るわせるような笑い声をあげて、クゥネロが扉を開けて中に入る。
「へぇ……」
初めて見る顔だ。……なるほどな。
一瞬の間の後、俺も中に入った。
「いらっしゃい。……なんだ、クゥネロか」
振り向いて声をかけてきた少女が、あからさまにつまらなそうな顔になって、溜め息を吐いた。
給仕用のエプロンをつけた、クゥネロや俺とそう変わらない年頃の少女だ。とはいえ、クゥネロは俺より少し……一~二歳くらい年上に見えるが、目の前にいる少女は年上には全く見えなかった。普段から働いているからだろうか? どこか大人びているようにも見えたが、同時になんとなく、顔つきや態度、にじみ出る雰囲気から、子供らしさも感じた。
「アンタに出す飯はないよ。とっとと帰んな」
「客に対して酷い言い草だね。今日は新顔も連れて来てやったのに」
どこか不満そうな顔で、クゥネロが背後を視線で示す。
俺はリーネと初めて視線を合わせ、軽く会釈した。
「アンタ、また旅人を泊めたの? あのゴミ屋敷に人を泊めるのは止めなさいって、前も言ったわよね?」
同じく不満げに、どこかイライラした顔でリーネがクゥネロに言う。
「アンタも大変だったでしょ? かわいそうだし、サービスするわ」
俺は深く頷いた。家のことを言われると言い返せないようで、むっつりと黙り込んでクゥネロはカウンター席に座った。それを見て、ドッと店中の客から歓声が上がった。
おずおずと俺もクゥネロの隣に座ると、トン、と音を立てて俺とクゥネロの中間の位置に、中くらいの大きさの瓶が置かれた。
「おなか減ってるでしょ? それでもつまんで待ってて」
ニコっと、俺に笑いかけ、アンタもね、とクゥネロに真顔で言ってリーネが背を向け、慣れた様子で料理を始めた。
慌ただしくキッチンを動くたびに、ウェーブのかかった赤毛が背中で揺れる。前髪はオレンジ色のバンダナで止めて、料理に毛が入らないようにしていたが、後ろ髪に関してはさして気にしていないらしい。衛生的にはどうなのかという問題はあるだろうが、背中で左右に揺れる髪は、見ていて何だか楽しかった。
ナイフで野菜を切る子気味のいい音と、油で何かを炒めるジュワ、という音が耳に届く。
ぼんやりとクゥネロとリーネの背を眺めながら、蓋をひねって瓶を開けた。
ぷん、と酢のような匂いが広がる。中には暗い緑色の、細長い野菜が薄く切られて入っていた。それはなんだか、ピクルスにひどく似ていた。
「これは?」
「おやつ兼酒のつまみだね」
カウンターの端に積まれていた黒い小皿とフォークを掴み、クゥネロが俺の分を渡してくれた。礼を言って、小皿に取ってフォークを刺して軽く齧ってみた。
「うーん……」
うまい、とは思う。強い酢の匂いに反して、あまり酸っぱくないのが印象的だった。
ただ、ピクルスと比べてどうとかは言うことができない。日本では、数えるほどしかちゃんとピクルスを食べたことがなかったので、比較が難しい。ハンバーガーを食べるときに肉と一緒に食べた程度だ。
ポリポリと齧っていると、クゥネロが違うよ、と言って首を振った。
「そんなに深く味わって食べる食べ物じゃないよ。勢いよく、数回噛んで飲み込むだけでいい。流すように食わないと」
「そりゃアンタの食べ方でしょ。好きなように食べさせてあげなさいよ」
料理の手は止めずに、背中越しにクゥネロに文句を言う。
「じゃあ、お前はどうやって食べるんだよ?」
「……私も同じ」
今度はクゥネロが勝った。リーネはそれ以上言えず、押し黙った。
忍び笑いが、店内のあちこちから漏れ聞こえる。
「二人は仲がいいのか?」
「幼馴染ってやつだよ。それだけだけどね」
「会えばいつも喧嘩するのよね」
――喧嘩するほど仲がいい、と。
「好きなんだな、お互いのことが」
……そう言ってやりたい悪戯心が芽生える。だがひとまず今回は自重して、言われた通りにピクルスもどきを食べることにした。
「……」
無言でかじっていると、視線でクゥネロが問いかけてきた。答えないわけにもいかず、俺は「こっちのが旨いな」と遠慮がちに答えた。
実際、確かに一つ一つ味わって食べるより、こっちの方がいい。野菜の芯の方まで酢が染み込んでいるからだろう、噛みすぎると口の中いっぱいに酸味が広がってひどく酸っぱいので、ちょっとだけ噛んで流すように食べるほうがおいしかった。
してやったり、という顔でクゥネロが笑みを浮かべる。
「おまちどうさん」
リーネはそれを黙殺しつつ、カウンター越しに、ひょい、と複数のお皿が乗ったお盆を渡してきた。
一番最初に目についたのは、フランスパンのような、外側が硬いパンを使ったサンドイッチだ。
レタスやトマトに似た野菜と、焼いた卵が入っている。齧ってみると食べるのが難しく、硬いパンと格闘している間に卵が飛び出してしまったり、トマトが潰れてしまうという問題にぶつかったが、味自体は悪くなかった。
それ以外には大きめのソーセージが二本と、白湯の入ったコップが一つあった。
「景は買い物に来たんだよね? どうせ非番だから案内するよ。これから何を買うの?」
ソーセージを刺したフォークをくるくると回しながら、クゥネロが尋ねてくる。――どうして落ちないんだ?
「これだ」
麻袋を開けて、メモを取り出す。――袋を開けた瞬間、仄かに腐りかけの牛乳のような臭いがした。
「何? この臭い。――ああ、ヒカリカビダケね」
上からリーネが覗き込んでくる。
「そう言う名前なのか? 売れると聞いて採ってきたんだけど」
「調理に手間がかかるから買い取り手は少ないけど、珍味だからそれなりに売れるわ。――だいたい、これくらいかしら」
そう言ってリーネが見せた額を見て、クゥネロが渋面になった。
「……僕の一か月分の給料だ」
「あらそうなの? 門番って兵士の中でも下っ端の仕事だものね。対して貰えないんだ」
「生活するには十分な金額を頂いてるさ」
「騎士の格好はそりゃ立派でカッコイイけど、クゥって剣ちゃんと握れるの?」
「……そこそこは、振れるぞ」
自信がないのかちょっと間をおいて、目を逸らしながら答える。その様子がおかしくて笑ってしまい、俺はついぽろっと口を滑らせてしまった。
「へぇ、クゥネロの騎士の格好ってカッコイイんだな」
しまった、と思った時にはもう遅い。――これは、二重の失言だ。
「そうだな、カッコイイよな、クゥネロくん」
「俺達からすればまだまだ青さの残る立ち姿だがなぁ」
「だよなぁ!」
それまで黙って聞いていた店内の客達が一瞬で沸き上がり、下品な笑い声を上げながら二人の恋路を囃し立てる。
……改めて見渡すと、客は中年以降の男性が多かった。中には、昨日クゥネロが着ていたのと同じ鎧を着ている人もいる。彼らにすれば、クゥネロとリーネは息子や娘、人によっては孫のようなものなのだろう。
見る見るうちに、リーネの頬が赤く染まった。
「……景は、昨日見ただろう? 僕って、ダサかったのか?」
そして隣からは、どこか悲しそうなクゥネロの声がする。
「い、いや違う。誤解だ」
「……」
半信半疑、といった顔でクゥネロがこちらを見る。それから、そっとリーネの方を見た。
リーネとクゥネロ、二人の視線がぶつかり合う。
周囲からキスしろ、と囃し立てる声が届く。馬鹿な発言、まさに出歯亀だ、と思ったが、原因を作ったのが自分なだけに何とも言えない気持ちになる。
「……すまん」
ぼそっと謝ると、ため息のような小さな笑い声が返ってきた。
「いいよ。でも、こっちもごめん」
それから、クゥネロの行動は早かった。
ひょい、と椅子を蹴ってカウンターを越え、赤面するリーネの手を掴む。
「えっ?」
驚いた顔で、弾かれたようにリーネがクゥネロの顔を見る。クゥネロが頷くと、小さく頷き返した。
――そして二人は一切合切、荷物も店もほっぽり出して逃げて行った。
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