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第三章『身代わり王 』
第一話 天地類推
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少し前……まだエタがエドゥッパに在籍していた時のこと。
一人の少女……シャルラが明るく波打った髪をぶわりとふくらませ、強い語気でエドゥッパの講師に詰め寄っていた。
「納得いきません! どうして私たちの論説を認めていただけないのですか!?」
「シャルラ……落ち着いて……」
講師相手に一歩も引かず、それどころかますます怒りを募らせるシャルラを何とかなだめようとしているのはエタだった。
もっともこの状況はエタでなくとも止めようとするだろう。
ただの生徒と講師では立場が違いすぎる。
他の講師に見られれば叱責されるのはおそらくシャルラだろう。それがたとえ正しいことを言っているのだとしても。
シャルラが話しかけている天文学の講師はシャルラの語勢のせいで苛立ちを隠せなくなっていた。
「いいかねシャルラ君。君の論説は読んだが、正直信用に値しない。日蝕の予想はすでに確立されている」
これは数千年後の世界でも事実である。
サロス周期と呼ばれる周期で日蝕は起こり、経験則、ないしは暦学によって日蝕は予想可能であり、紀元前数百年のバビロニアではすでに発見されていたとされる。
だがしかし、それは特定の条件でずれることがあるのだ。
「ですが記録によると予想が外れたこともあります。私たちの論説は正確な日蝕の予想が可能であるかも……」
「いいかね」
講師は諭すというより、面倒ごとに関わりたくないという様子だった。
「我々には責任がある。先人の英知を守る責任だ。君たちの論説はそれに反している」
あくまでも聞く耳を持たない講師に業を煮やしそうになったシャルラはイシュタル神がごとき激情を発しそうになったその時、エタが後ろから割って入った。
「わかりました。では、僕たちに許可をくださいませんか? アトラハシス様に論説を一度だけ説明する許可を。先生に紹介していただきたいのです」
シャルラは眉根を寄せた。
これでは先ほどと変わらないと、彼女はそう考えた。
エタとシャルラはまず天文学の講師に自分たちの論説を認めてもらい、それからこのエドゥッパを治めるアトラハシスのもとに向かうつもりだったのだ。
だが講師の反応はシャルラの予想と違った。
「ふうむ。そこまで言うのならば」
さらさらと粘土板を取り出し、署名する。本来なら謁見することが難しいアトラハシスだが、講師の紹介ともなれば無下に扱われはしないだろう。
「では、粗相のないように」
あっさりと意見を翻した講師が去っていくのをシャルラは困惑して眺めていた。
「エタ。どうしてあの講師を説得できたの?」
「多分だけど……あの人はもともと僕たちの論説を否定したかったわけじゃないんだよ」
「嘘……あの人ずっと私に反論していたじゃない」
「それは多分……自分に非があることを認めたくなかったんじゃないかな」
「非って……別に私たちはあの人を責めていたわけじゃないじゃない」
「僕たちにとってはそうだよ。でも、天文学の講師としてはどう思う?」
シャルラはしばし考える。もしも自分が天文学の講師だったならば。
今まで正しいとされていた日蝕の予想が間違っていれば、誰が責任を取るのか。
「まさかあの人……日蝕の予想が間違っていたことになれば自分が責任を取らされると思っていたの?」
シャルラが先ほどの会話を振り返ると責任という言葉を繰り返していたように思える。
「多分ね。でも、それと同じくらいもしも従来の日蝕の予想が間違っていれば責任を取らされるとも思っていたはずだよ」
「呆れた。責任、責任って……自分の立場しか考えていないの?」
講師の煮え切らない態度とその真意を知ってシャルラは憤懣やるかたなしという様子だった。
「でも、僕らを紹介したって段取りなら話は別だよ。もしも僕らの論説が正しければその功績の一部は講師の人も受けるし、間違っていれば責任は僕らにある……そう計算したはずだよ」
エタのさらりと言ってのけた言葉にシャルラが感じたのは困惑だった。
「エタ……つまりそれはもし私たちの論説が間違っていれば……私たちに失敗の責任が押し付けられるってことなんじゃ……」
「大丈夫だよ」
エタは断言した。気負うわけでも、誇るわけでもなく、何でもなく。
「間違ってないから」
エタはまっすぐシャルラの目を見ている。
その目を見て、シャルラは。
一人の少女……シャルラが明るく波打った髪をぶわりとふくらませ、強い語気でエドゥッパの講師に詰め寄っていた。
「納得いきません! どうして私たちの論説を認めていただけないのですか!?」
「シャルラ……落ち着いて……」
講師相手に一歩も引かず、それどころかますます怒りを募らせるシャルラを何とかなだめようとしているのはエタだった。
もっともこの状況はエタでなくとも止めようとするだろう。
ただの生徒と講師では立場が違いすぎる。
他の講師に見られれば叱責されるのはおそらくシャルラだろう。それがたとえ正しいことを言っているのだとしても。
シャルラが話しかけている天文学の講師はシャルラの語勢のせいで苛立ちを隠せなくなっていた。
「いいかねシャルラ君。君の論説は読んだが、正直信用に値しない。日蝕の予想はすでに確立されている」
これは数千年後の世界でも事実である。
サロス周期と呼ばれる周期で日蝕は起こり、経験則、ないしは暦学によって日蝕は予想可能であり、紀元前数百年のバビロニアではすでに発見されていたとされる。
だがしかし、それは特定の条件でずれることがあるのだ。
「ですが記録によると予想が外れたこともあります。私たちの論説は正確な日蝕の予想が可能であるかも……」
「いいかね」
講師は諭すというより、面倒ごとに関わりたくないという様子だった。
「我々には責任がある。先人の英知を守る責任だ。君たちの論説はそれに反している」
あくまでも聞く耳を持たない講師に業を煮やしそうになったシャルラはイシュタル神がごとき激情を発しそうになったその時、エタが後ろから割って入った。
「わかりました。では、僕たちに許可をくださいませんか? アトラハシス様に論説を一度だけ説明する許可を。先生に紹介していただきたいのです」
シャルラは眉根を寄せた。
これでは先ほどと変わらないと、彼女はそう考えた。
エタとシャルラはまず天文学の講師に自分たちの論説を認めてもらい、それからこのエドゥッパを治めるアトラハシスのもとに向かうつもりだったのだ。
だが講師の反応はシャルラの予想と違った。
「ふうむ。そこまで言うのならば」
さらさらと粘土板を取り出し、署名する。本来なら謁見することが難しいアトラハシスだが、講師の紹介ともなれば無下に扱われはしないだろう。
「では、粗相のないように」
あっさりと意見を翻した講師が去っていくのをシャルラは困惑して眺めていた。
「エタ。どうしてあの講師を説得できたの?」
「多分だけど……あの人はもともと僕たちの論説を否定したかったわけじゃないんだよ」
「嘘……あの人ずっと私に反論していたじゃない」
「それは多分……自分に非があることを認めたくなかったんじゃないかな」
「非って……別に私たちはあの人を責めていたわけじゃないじゃない」
「僕たちにとってはそうだよ。でも、天文学の講師としてはどう思う?」
シャルラはしばし考える。もしも自分が天文学の講師だったならば。
今まで正しいとされていた日蝕の予想が間違っていれば、誰が責任を取るのか。
「まさかあの人……日蝕の予想が間違っていたことになれば自分が責任を取らされると思っていたの?」
シャルラが先ほどの会話を振り返ると責任という言葉を繰り返していたように思える。
「多分ね。でも、それと同じくらいもしも従来の日蝕の予想が間違っていれば責任を取らされるとも思っていたはずだよ」
「呆れた。責任、責任って……自分の立場しか考えていないの?」
講師の煮え切らない態度とその真意を知ってシャルラは憤懣やるかたなしという様子だった。
「でも、僕らを紹介したって段取りなら話は別だよ。もしも僕らの論説が正しければその功績の一部は講師の人も受けるし、間違っていれば責任は僕らにある……そう計算したはずだよ」
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「エタ……つまりそれはもし私たちの論説が間違っていれば……私たちに失敗の責任が押し付けられるってことなんじゃ……」
「大丈夫だよ」
エタは断言した。気負うわけでも、誇るわけでもなく、何でもなく。
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エタはまっすぐシャルラの目を見ている。
その目を見て、シャルラは。
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