138 / 266
第二章 岩山の試練
第三十五話 裁判
しおりを挟む
ジッグラトから悲痛な顔で走り去るリリーを見届けたミミエルはゆっくりと尾行を開始した。
とはいえ警戒はしていない。今のリリーに背後を振り返る余裕はないと確信していたからだ。
ジッグラトを飛び出たリリーは携帯粘土板で連絡を試みた。
だが。
「何で誰も出ねえんだよ!」
怒りのあまり携帯粘土板を握る手から血がにじむ。
諦めて走り出す。
城門付近であらかじめ手配しておいた馬車に乗り込む。御者は自分だ。立場や賃金のこともあるが今はとにかく都市国家の人間の手を借りるのが嫌だった。
手綱を握る手が震えていることに気づかないままぶつぶつと独り言をこぼす。
「別に大したことじゃねえ。信者どもが死んだところで何だってんだ。また信者を増やせばいい。それだけだろうが」
乱暴だが、自分に言い聞かせている口調だった。無論、自覚はしていない。
彼女は手綱を握りながらもこれから起こる未来と今までの過去に思いをはせる。その二つをつなげることは苦痛だったのか、何度も思考を止めようとしたが、嫌な予想とささやかな追想を止めることはできず、長いようにも、短いようにも感じる時間は終わりを告げた。
馬車の上から泥に埋もれた川岸を見る。
もうそこは廃墟だった。
天幕も、水瓶も、普段なら不愉快なはずの生活音でさえも、人が生活していた痕跡が押し流され、砂漠に育つ樹木のように細った何かがあるだけだ。
それが天を目指すように伸ばされた腕だと気づくのにしばらく時間がかかってしまった。
メソポタミアにおける洪水は日本人が想像するような豪雨による増水が原因とは限らない。
アナトリアの山の雪解け水が川を増水させ、大氾濫を起こすことがしばしばある。メソポタミアはその名の通り川の間の地域であり、川の状態と文明は切り離せない関係にあったのだ。
だが、この時期にこれだけ突然の洪水が起こることがあり得るのかどうか。しかし実際に洪水は起きてしまった。
ならばこれこそまさに神意ではないか。
少なくともこのウルクの人々はこれが神の行いであると判断した。
そしてリリーは。
「あ。あ……あ」
自分の頬に手を当て、かきむしる。爪痕は痛々しい紅色。しかしリリーはそんなことを気にしていない。
「あ」
言葉にならず、嗚咽だけが喉から零れ落ちる。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
叫びと同時に走り出す。
(ちくしょう! あいつらはただの道具だったはずだ!)
彼女の脳裏に浮かぶのは。
(別に代わりなんざいくらでもいる)
花を摘んでくれた子供。
(そもそもうっとおしかっただろ!)
まだ一人だけだったころ、説法の手助けをしてくれた男。
(そちゃ、ちやほやされるのは嬉しかったけどさ)
空腹で倒れそうになったところでパンを分け合ったこと。
(でもそれだけだ。なのに……)
戦士の岩山を探るための手段を手に入れたこと。
(なんでこんなに苦しいんだよおおおおおお!)
ゼイゼイと息を荒げ、それでも肺一杯に空気を吸い込んで叫ぶ。
「誰か! 誰かいないのか!? 生きている奴は!?」
その声に反応するようにぴくりと地面が動いた。
すぐさま地面に飛びつき、そこを掘る。
腕が見つかる。もっと掘ると頭が現れた。こほ、と泥を吐きながら呼吸を再開した。
どうやら地面に埋まっていたというよりは泥が被せられていたような状態だったらしい。そして埋まっていた人物は見覚えがあった。
「み、『耳なし」! おい、返事を……ああ、くそ! こいつ、耳が聞こえねえんだ!』
震える手で携帯粘土板を操作しようとするがうまくいかない。
異常な状況は彼女から平常心を奪っており、それがより一層手の震えを激しくさせていた。
その手を優しく包んだのは『耳なし』の手だった。
「そんなに焦らなくても構いませんよ。初めから全部聞こえていますから」
普段とは違う流暢な言葉がリリーの耳に届く。
その言葉の意味と、誰がしゃべっているのか理解するまでに少し時間が必要だった。
とはいえ警戒はしていない。今のリリーに背後を振り返る余裕はないと確信していたからだ。
ジッグラトを飛び出たリリーは携帯粘土板で連絡を試みた。
だが。
「何で誰も出ねえんだよ!」
怒りのあまり携帯粘土板を握る手から血がにじむ。
諦めて走り出す。
城門付近であらかじめ手配しておいた馬車に乗り込む。御者は自分だ。立場や賃金のこともあるが今はとにかく都市国家の人間の手を借りるのが嫌だった。
手綱を握る手が震えていることに気づかないままぶつぶつと独り言をこぼす。
「別に大したことじゃねえ。信者どもが死んだところで何だってんだ。また信者を増やせばいい。それだけだろうが」
乱暴だが、自分に言い聞かせている口調だった。無論、自覚はしていない。
彼女は手綱を握りながらもこれから起こる未来と今までの過去に思いをはせる。その二つをつなげることは苦痛だったのか、何度も思考を止めようとしたが、嫌な予想とささやかな追想を止めることはできず、長いようにも、短いようにも感じる時間は終わりを告げた。
馬車の上から泥に埋もれた川岸を見る。
もうそこは廃墟だった。
天幕も、水瓶も、普段なら不愉快なはずの生活音でさえも、人が生活していた痕跡が押し流され、砂漠に育つ樹木のように細った何かがあるだけだ。
それが天を目指すように伸ばされた腕だと気づくのにしばらく時間がかかってしまった。
メソポタミアにおける洪水は日本人が想像するような豪雨による増水が原因とは限らない。
アナトリアの山の雪解け水が川を増水させ、大氾濫を起こすことがしばしばある。メソポタミアはその名の通り川の間の地域であり、川の状態と文明は切り離せない関係にあったのだ。
だが、この時期にこれだけ突然の洪水が起こることがあり得るのかどうか。しかし実際に洪水は起きてしまった。
ならばこれこそまさに神意ではないか。
少なくともこのウルクの人々はこれが神の行いであると判断した。
そしてリリーは。
「あ。あ……あ」
自分の頬に手を当て、かきむしる。爪痕は痛々しい紅色。しかしリリーはそんなことを気にしていない。
「あ」
言葉にならず、嗚咽だけが喉から零れ落ちる。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
叫びと同時に走り出す。
(ちくしょう! あいつらはただの道具だったはずだ!)
彼女の脳裏に浮かぶのは。
(別に代わりなんざいくらでもいる)
花を摘んでくれた子供。
(そもそもうっとおしかっただろ!)
まだ一人だけだったころ、説法の手助けをしてくれた男。
(そちゃ、ちやほやされるのは嬉しかったけどさ)
空腹で倒れそうになったところでパンを分け合ったこと。
(でもそれだけだ。なのに……)
戦士の岩山を探るための手段を手に入れたこと。
(なんでこんなに苦しいんだよおおおおおお!)
ゼイゼイと息を荒げ、それでも肺一杯に空気を吸い込んで叫ぶ。
「誰か! 誰かいないのか!? 生きている奴は!?」
その声に反応するようにぴくりと地面が動いた。
すぐさま地面に飛びつき、そこを掘る。
腕が見つかる。もっと掘ると頭が現れた。こほ、と泥を吐きながら呼吸を再開した。
どうやら地面に埋まっていたというよりは泥が被せられていたような状態だったらしい。そして埋まっていた人物は見覚えがあった。
「み、『耳なし」! おい、返事を……ああ、くそ! こいつ、耳が聞こえねえんだ!』
震える手で携帯粘土板を操作しようとするがうまくいかない。
異常な状況は彼女から平常心を奪っており、それがより一層手の震えを激しくさせていた。
その手を優しく包んだのは『耳なし』の手だった。
「そんなに焦らなくても構いませんよ。初めから全部聞こえていますから」
普段とは違う流暢な言葉がリリーの耳に届く。
その言葉の意味と、誰がしゃべっているのか理解するまでに少し時間が必要だった。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
凡人がおまけ召喚されてしまった件
根鳥 泰造
ファンタジー
勇者召喚に巻き込まれて、異世界にきてしまった祐介。最初は勇者の様に大切に扱われていたが、ごく普通の才能しかないので、冷遇されるようになり、ついには王宮から追い出される。
仕方なく冒険者登録することにしたが、この世界では希少なヒーラー適正を持っていた。一年掛けて治癒魔法を習得し、治癒剣士となると、引く手あまたに。しかも、彼は『強欲』という大罪スキルを持っていて、倒した敵のスキルを自分のものにできるのだ。
それらのお蔭で、才能は凡人でも、数多のスキルで能力を補い、熟練度は飛びぬけ、高難度クエストも熟せる有名冒険者となる。そして、裏では気配消去や不可視化スキルを活かして、暗殺という裏の仕事も始めた。
異世界に来て八年後、その暗殺依頼で、召喚勇者の暗殺を受けたのだが、それは祐介を捕まえるための罠だった。祐介が暗殺者になっていると知った勇者が、改心させよう企てたもので、その後は勇者一行に加わり、魔王討伐の旅に同行することに。
最初は脅され渋々同行していた祐介も、勇者や仲間の思いをしり、どんどん勇者が好きになり、勇者から告白までされる。
だが、魔王を討伐を成し遂げるも、魔王戦で勇者は祐介を庇い、障害者になる。
祐介は、勇者の嘘で、病院を作り、医師の道を歩みだすのだった。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
俺が死んでから始まる物語
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていたポーター(荷物運び)のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもないことは自分でも解っていた。
だが、それでもセレスはパーティに残りたかったので土下座までしてリヒトに情けなくもしがみついた。
余りにしつこいセレスに頭に来たリヒトはつい剣の柄でセレスを殴った…そして、セレスは亡くなった。
そこからこの話は始まる。
セレスには誰にも言った事が無い『秘密』があり、その秘密のせいで、死ぬことは怖く無かった…死から始まるファンタジー此処に開幕
王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
おっさんの神器はハズレではない
兎屋亀吉
ファンタジー
今日も元気に満員電車で通勤途中のおっさんは、突然異世界から召喚されてしまう。一緒に召喚された大勢の人々と共に、女神様から一人3つの神器をいただけることになったおっさん。はたしておっさんは何を選ぶのか。おっさんの選んだ神器の能力とは。
特殊部隊の俺が転生すると、目の前で絶世の美人母娘が犯されそうで助けたら、とんでもないヤンデレ貴族だった
なるとし
ファンタジー
鷹取晴翔(たかとりはると)は陸上自衛隊のとある特殊部隊に所属している。だが、ある日、訓練の途中、不慮の事故に遭い、異世界に転生することとなる。
特殊部隊で使っていた武器や防具などを召喚できる特殊能力を謎の存在から授かり、目を開けたら、絶世の美女とも呼ばれる母娘が男たちによって犯されそうになっていた。
武装状態の鷹取晴翔は、持ち前の優秀な身体能力と武器を使い、その母娘と敷地にいる使用人たちを救う。
だけど、その母と娘二人は、
とおおおおんでもないヤンデレだった……
第3回次世代ファンタジーカップに出すために一部を修正して投稿したものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる