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第一章 迷宮へと挑む
第二話 信じたいのは
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息を切らせてたどり着いた、両親とエタリッツ、そして時折里帰りする姉が四人で暮らす自宅兼雑貨屋には何もなかった。比喩ではない。本当に何もなかった。
普段は家具や商品が所狭しと並んでいる部屋には人も、物も、何もなかった。この部屋はこんなにも広かったのか。驚きのせいで奇妙な感想が心の中で浮かんでいた。
「おおっと。初めまして。さっき通話したから声でわかるよね?」
茫然としつつも振り返ると遊牧民の衣装を着込んでいるなぜか軽薄そうな男が立っていた。目鼻立ちから、もしかすると都市国家の出身でないのかもしれない。
「商売ギルド所属の商人です。主に取り扱っている商品は奴隷。ま、借金を支払えなくなった奴への取立人も兼業しているけどね」
「しゃ、借金? ふ、ふざけるな!」
エタは思わず取立人に掴みかかろうとするが、横にいた体格のよい男に取り押さえられた。しかしそれでも取立人をにらみ続けて、叫んだ。
「父さんや母さんが借金なんて作るはずないだろ!」
「うん。そうだね。実際二人には借金なんてないよ。借金を作ったのは君のお姉さんだよ」
「そ、それこそありえない! 姉ちゃんは一流の冒険者なんだ! 借金なんて作るはずがない!」
取立人は無言で一枚の粘土板を突き出した。そこにはいろいろと誓約文書が書かれていたが、重要なのはこの一文のみ。
「雑貨屋の娘、イレースは店を担保として金を借り受ける……?」
文字は理解できる。だが、その意味は頭に入ってこない。
「あ、ちなみにこれ、イシュタル神の神印ね。理解していると思うけど偽造は不可能だよ」
エタもウルクの市民なら理解できている。神印はその神を現す印章であり、許可がなければ粘土板はおろか地面に落書きすることさえできない。記せば捕まるとか罰金になるとかそういうものではない。許可のとられていない神印は記した瞬間に消えてしまう。
つまり、この粘土板は本物だ。それでも脳は理解を拒む。
「う、嘘だ! 姉ちゃんと、姉ちゃんと話をさせてくれ!」
「うんうん。いやー、私も話したいんだけどねえ。でも無理なんだよ。だって君のお姉さん、男と一緒に夜逃げしちゃったから」
「……え?」
耳を塞ぎたい。目を閉じたい。頭を凍らせたい。
心の底からの願望を振り払って質問する。
「どういう……ことだよ」
「いやいや。私もちゃんと説明してあげたいんだけどね? 時間がないからそろそろ単刀直入に言うよ。君の姉はどこにいるかわからないから君の家、店、両親はすべて売りに出される」
それはもはや死刑宣告だった。ようやく頭がまともに働きだしたエタは必死に懇願した。
「お、お願いします。お願いだから、何でもするから、それだけはやめてください」
惨めったらしく縋るエタに、取立人はいやらしい笑みを浮かべた。
「そんなに言われちゃしょうがないなあ。じゃあ賭けをしよう」
「賭け? なんの?」
商人はにやりと笑い、芝居がかった仕草と言葉をつづけた。
「我々ウルク、そして全ての都市国家の民がここにいる理由は何か。偉大なるエンリル神が我々人間をこの地につかわせた理由は何か。当然迷宮を攻略することだ。つまり、迷宮を攻略した人間には褒賞が必要だ。そこで」
取立人は一度言葉を区切り、エタの顔をじっくりと覗き込んで続きを言い放った。
「君は未踏破の迷宮を二十日以内に踏破したまえ。そうすれば君たちの全財産はすべて返却しよう。ただしそれができなければ……君も奴隷だ。ああ、一言忠告すると、君の両親は君を奴隷にしないよう懸命に努力したよ。どうすることが親孝行なのかはじっくり考えたほうがいい。さあ、どうする?」
これはかなり無茶な条件だ。未踏破とはつまり今まで誰も最深部にたどり着いたことのない迷宮だ。この地に迷宮が生まれてからどれほどの月日がたったのか誰も知らないが、簡単に踏破できる迷宮はとっくの昔に踏破されている。必然的にエタが挑むのは少なく見ても十年、長ければ数百年踏破されたことのない迷宮であるはずだ。
そんな迷宮に自分が挑む? 不可能で、無謀だ。
しかしエタの脳裏には家族との思い出が呼び起こされた。
かつては英雄譚に目を輝かせたが、戦いの才がなく、馬鹿にされたこと。しかし姉も、両親もそんな自分を見捨てず励まし、いつしかエタも自分自身を受け入れられるようになっていた。
(僕には、父さんや母さんを見捨てるなんてできない。姉ちゃんが借金を背負って逃げたなんて、何かの間違いだ)
決然と、取立人を見据える。
「……わかりました。賭けに乗ります」
「いい返事だ。二十日後を期待しているよ」
普段は家具や商品が所狭しと並んでいる部屋には人も、物も、何もなかった。この部屋はこんなにも広かったのか。驚きのせいで奇妙な感想が心の中で浮かんでいた。
「おおっと。初めまして。さっき通話したから声でわかるよね?」
茫然としつつも振り返ると遊牧民の衣装を着込んでいるなぜか軽薄そうな男が立っていた。目鼻立ちから、もしかすると都市国家の出身でないのかもしれない。
「商売ギルド所属の商人です。主に取り扱っている商品は奴隷。ま、借金を支払えなくなった奴への取立人も兼業しているけどね」
「しゃ、借金? ふ、ふざけるな!」
エタは思わず取立人に掴みかかろうとするが、横にいた体格のよい男に取り押さえられた。しかしそれでも取立人をにらみ続けて、叫んだ。
「父さんや母さんが借金なんて作るはずないだろ!」
「うん。そうだね。実際二人には借金なんてないよ。借金を作ったのは君のお姉さんだよ」
「そ、それこそありえない! 姉ちゃんは一流の冒険者なんだ! 借金なんて作るはずがない!」
取立人は無言で一枚の粘土板を突き出した。そこにはいろいろと誓約文書が書かれていたが、重要なのはこの一文のみ。
「雑貨屋の娘、イレースは店を担保として金を借り受ける……?」
文字は理解できる。だが、その意味は頭に入ってこない。
「あ、ちなみにこれ、イシュタル神の神印ね。理解していると思うけど偽造は不可能だよ」
エタもウルクの市民なら理解できている。神印はその神を現す印章であり、許可がなければ粘土板はおろか地面に落書きすることさえできない。記せば捕まるとか罰金になるとかそういうものではない。許可のとられていない神印は記した瞬間に消えてしまう。
つまり、この粘土板は本物だ。それでも脳は理解を拒む。
「う、嘘だ! 姉ちゃんと、姉ちゃんと話をさせてくれ!」
「うんうん。いやー、私も話したいんだけどねえ。でも無理なんだよ。だって君のお姉さん、男と一緒に夜逃げしちゃったから」
「……え?」
耳を塞ぎたい。目を閉じたい。頭を凍らせたい。
心の底からの願望を振り払って質問する。
「どういう……ことだよ」
「いやいや。私もちゃんと説明してあげたいんだけどね? 時間がないからそろそろ単刀直入に言うよ。君の姉はどこにいるかわからないから君の家、店、両親はすべて売りに出される」
それはもはや死刑宣告だった。ようやく頭がまともに働きだしたエタは必死に懇願した。
「お、お願いします。お願いだから、何でもするから、それだけはやめてください」
惨めったらしく縋るエタに、取立人はいやらしい笑みを浮かべた。
「そんなに言われちゃしょうがないなあ。じゃあ賭けをしよう」
「賭け? なんの?」
商人はにやりと笑い、芝居がかった仕草と言葉をつづけた。
「我々ウルク、そして全ての都市国家の民がここにいる理由は何か。偉大なるエンリル神が我々人間をこの地につかわせた理由は何か。当然迷宮を攻略することだ。つまり、迷宮を攻略した人間には褒賞が必要だ。そこで」
取立人は一度言葉を区切り、エタの顔をじっくりと覗き込んで続きを言い放った。
「君は未踏破の迷宮を二十日以内に踏破したまえ。そうすれば君たちの全財産はすべて返却しよう。ただしそれができなければ……君も奴隷だ。ああ、一言忠告すると、君の両親は君を奴隷にしないよう懸命に努力したよ。どうすることが親孝行なのかはじっくり考えたほうがいい。さあ、どうする?」
これはかなり無茶な条件だ。未踏破とはつまり今まで誰も最深部にたどり着いたことのない迷宮だ。この地に迷宮が生まれてからどれほどの月日がたったのか誰も知らないが、簡単に踏破できる迷宮はとっくの昔に踏破されている。必然的にエタが挑むのは少なく見ても十年、長ければ数百年踏破されたことのない迷宮であるはずだ。
そんな迷宮に自分が挑む? 不可能で、無謀だ。
しかしエタの脳裏には家族との思い出が呼び起こされた。
かつては英雄譚に目を輝かせたが、戦いの才がなく、馬鹿にされたこと。しかし姉も、両親もそんな自分を見捨てず励まし、いつしかエタも自分自身を受け入れられるようになっていた。
(僕には、父さんや母さんを見捨てるなんてできない。姉ちゃんが借金を背負って逃げたなんて、何かの間違いだ)
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「……わかりました。賭けに乗ります」
「いい返事だ。二十日後を期待しているよ」
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